スピンオフ|片桐宗一郎のあの頃の平成事件簿 第1話【後編】
第1話:ガラケーも、プリ帳も、夢も——全部、あの街に置いてきた。
【後編】夢とプリ帳と、交番の正義
雑居ビルの階段は、どこかカビ臭くて、電球は一部切れていた。最上階、くすんだプレートには「PLANiX」の文字。その下には「Girls Produce Studio」と書かれているが、誰が見ても正式な事務所とは思えなかった。
片桐がノックすると、スーツ姿の男が出てきた。
名刺には「柴田 敬吾」とある。
「見学ですか? 今、ちょうどレッスン終わったところで」
明るい笑顔と裏腹に、室内の空気は妙に静かだった。防音材もなく、コンクリ打ちっぱなしの壁に雑誌の切り抜き、貼り付けたA4コピー紙。
「オーディションの様子は動画で世界配信中!
YouTubeでもチェックしてね!」
片桐は足を止めた。
「……ユーチューブ?」
柴田が振り返る。「ああ、動画の投稿サイトっすよ。最近流行ってきてるやつ。みんな“これからはネットでバズる時代”だって言っててさ。グーグルからも見れるし。知らない? 警察、ネット疎いもんな」
片桐は、何も答えられなかった。
たしかに最近、“Google”という検索サイトが広まりつつあった。けれど警察の端末はIEでガチガチ、動画もろくに再生できない。
「ネットに上げれば有名になれるって、本気で思ってんですよ、今の子たち。俺らがスカウトした頃より、ある意味カンタンだけど、ある意味こえぇ」
柴田は笑った。だが片桐の目は、その奥のソファに座る少女に向けられていた。
谷村ミク。プリ帳の最後にひとりで写っていた彼女が、そこにいた。足を抱え、天井を見つめるようにしてうずくまっている。すぐには気づかない。ただ、こちらの視線に、ゆっくりと顔を上げた。
「……お巡りさん、来たんだ」
「母親が心配してる。一緒に、戻ろう」
その言葉に、ミクは小さくうなずいた。けれど、どこか寂しそうだった。
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しばらくして、ミクはプリ帳を開いた。背景の違う、ひとりの写真を指差す。
「夢が終わる前に、撮ったの。“ここまで来た”って、自分に言い聞かせたくて」
「戻っても、また同じ毎日だよ。でもね、ここにずっといたら、誰も名前も呼んでくれなくなる気がした」
片桐はうなずいた。YouTubeも、Googleも、まだ信用されていなかった。けれど、そんな“これからの何か”を信じて飛び込んだ少女の夢を、制服のまま、ひとりで追った自分がいた。
まだ刑事でも、正義の味方でもなかった。でも、そこに“戻れるように残されたプリ帳”があった。それだけで十分だった。
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数日後、谷村ミクは家に戻った。柴田の事務所は“指導対象”として調査され、事件性なしと判断された。
片桐の行動も、越権とされ報告書には記されなかった。けれど交番の机に、静かに置かれた一冊のプリ帳。裏表紙には、こう記されていた。
「また交番の前で会えますように。
そのときは、もっとちゃんと笑って写るから。」
片桐は、深く息を吐いた。
正義とは、誰かを裁くことじゃない。笑って帰れる場所を、なくさないこと。その夜、ようやく少しだけ、自分の仕事を誇りに思えた。
第1話 完
