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【本要約】「いまどきの若者」の150年史

「いまどきの若者は〇〇である」
このテンプレートは、いつから日本語に常駐するようになったのか


要点

本書は、「いまどきの若者」という決まり文句が、明治から令和までどのように繰り返され、変形されてきたかをたどることで、「若者論」が世代や社会の成熟をめぐる一種の権力装置として機能してきたことを示す通史的エッセイである。

著者が浮かび上がらせるのは、「若者」なる存在が自然にそこにいたのではなく、大人が自分たちの不安と欲望を整理するために150年間つくり続けてきた〈物語〉だった、という冷静で少し残酷な風景である。

書籍情報

著者: パンス
出版社: 筑摩書房・ちくまプリマー新書(519)​
版刊行: 2026年3月11日​
価格: 1,056円
ジャンル: 若者論/日本社会史/文化研究(新書)

著者について

パンスは、現代日本の「若者像」をめぐる言説を、歴史的・社会学的な視点から分析してきた若者論の研究者であり、ネット文化やサブカルチャーにも通じたライターでもある。

近現代日本の新聞・雑誌・評論・小説などに現れる「若者」表象を収集・整理し、そこから見える世代間関係や社会の変容を読み解くスタイルが特徴で、「Z世代」「さとり世代」といったラベルに慎重な距離を置きつつ、その背後の構造を見ようとする姿勢をとっている。〔注〕若者論研究は社会学・教育社会学の一分野だが、近年はネット論壇やポップカルチャーと接続する書き手も増えている。本書はそうした「学術とポップの中間」をねらった一冊だと言える。

本書では、学術論文の堅さを保ちながらも、ちくまプリマー新書らしく、中高生でも追える平明な語り口で150年分の「若者語り」を一本の線につなぎ直している。



「若者」はいつから「いまどき」になったのか――枠組みの提示


本書の出発点は、素朴な疑問だ。

「いまどきの若者」というフレーズは、いつごろから新聞や雑誌に出てくるようになったのか。

そして、そのたびに若者はどのような言葉で語られてきたのか。

著者はこの問いに答えるため、明治以降の新聞記事・論説・文学作品・若者自身の声を資料として、「若者」がどうラベリングされてきたかを年代順に追っていく。

その際の基本的なスタンスは、「若者自身がどう生きていたか」ではなく、「大人が若者をどう見ていたか」「若者自身が自分をどう語っていたか」という言説の層を追うことだ。

言い換えれば、本書が描こうとするのは「若者」の実態ではなく、「若者論」というレンズの歴史であり、そのレンズを通じて日本社会の自己像がどう変化してきたかを読み解く試みである。

構成は次の五章。
第一章 「青年」の誕生 1853–1945
第二章 理解できない存在としての「若者」1946–1972
第三章 政治との距離と消費社会 1973–1989
第四章 「本当の自分」を探して 1990–1999
第五章 そしてみんな「若者」になった 2001–2025

巻末には、各年代の事件・文化・「若者」言説を一覧にした「日本の若者年表」が付されており、時間軸を視覚的に確認できるようになっている。

「青年」の誕生――近代国家の夢と不安の担当者


第一章では、幕末・明治から戦前までの「青年」像がたどられる。

ここで重要なのは、「若者」という言葉より前に、「青年」「書生」「学生」といったカテゴリが登場することだ。

文明開化期、近代国家をつくるためには、近代的な知識と技術を身につけた新しい人材が必要になる。

大学や高等学校に通う「書生」は、単なる子どもではなく、未来の国家を担う存在として特別視されるようになった。

同時に、彼らは「伝統を知らない」「西洋かぶれ」として批判される対象にもなる。

〔注〕教育社会学では、近代日本における「青年期」の発見が、学校制度の整備と深く結びついているとされる。単に年齢層としての若者ではなく、「人生の一段階としての青年」という概念が、この頃に形成されたという指摘がある。

明治から大正にかけて、「青年」はしばしば「時代を変える主体」として語られた。

自由民権運動や学生運動、文学青年の自己表現など、若者は「未熟」ではなく、「まだ汚れていない純粋さ」「既存秩序への批判精神」を担う存在として期待される。

しかし同時に、「過激」「青臭い」「現実が見えていない」といった批判もセットで付きまとう。

この時期の若者論は、「青年」を未来の希望と同時に危険な火種として二重に位置づけることで、国家と大人社会の不安をうまく処理する装置として働いていた。

理解できない存在としての若者――戦後民主主義と対抗文化


第二章は、戦後から1970年代初頭まで。

敗戦後、日本社会は民主化と高度経済成長を同時に経験する。

この時期の若者像は、「戦後民主主義の申し子」としての側面と、「理解不能な異物」としての側面を併せ持つ。

1950〜60年代には、学生運動や全共闘運動が社会を揺らした。

大人たちは、彼らを「理想主義的な改革者」と見る一方で、「暴力的で感情的な存在」とも報じた。

60〜70年代の社会学的青年論では、「若者は社会矛盾の代弁者であり、同時に社会から切り離された対抗文化の担い手だ」という二重の位置づけがなされる。

〔注〕対抗文化論では、若者は「社会から隔絶された異質な存在」であると同時に、「社会の変化の代表者・先駆者」として扱われ、この矛盾した評価こそが若者論の本質だとされることがある。

一方で、同じ時期にメディアには「理解できない若者」というトーンの報道も増えていく。

ロック音楽、フーテン、ヒッピー文化、「しらけ世代」など、若者のライフスタイルは、「大人とは違う」「説明不能」として扱われる。

戦後〜70年代の若者論は、若者を「社会の矛盾を可視化する鏡」として讃える言説と、「わけがわからない厄介者」として批判する言説が交錯する場になっていた。

政治との距離と消費社会――「ニュータウンの子どもたち」と「新人類」


第三章は、1973〜1989年。

オイルショックを経て高度成長が一段落し、バブルへ向かうこの時期、若者論の中心テーマは「政治との距離」と「消費社会への適応」に移る。

70年代後半には、「政治に冷淡な若者」「無関心な若者」という批判が現れる。

60年代の学生運動と比べられ、「もはや社会を変えようとしない」「内向きである」と評される若者像が広まる。

同時に、郊外のニュータウンで育つ「普通の子どもたち」、マイルドな個人主義を身につけた世代が登場する。

80年代には、「新人類」というラベルがメディアで流行する。

彼らは、「上下関係を気にしない」「会社に忠誠を誓わない」「自分の趣味を優先する」といった特徴を持つとされ、「分からないが面白い」「頼りないがクリエイティブ」と二重に評される。

この頃の若者論は、明らかに「消費社会の視線」を帯びている。

若者は、政治の主体であるよりも、「マーケットを牽引する消費者」として語られる場面が増える。

「若者」はもはや社会変革の担い手ではなく、ライフスタイル・ファッション・音楽のトレンドをつくる存在として、企業やメディアにとっての重要なターゲットになっていった。

「本当の自分」を探して――自己啓発と心理化する若者論


第四章は、1990〜1999年、いわゆる「失われた10年」とオウム真理教事件の時代だ。

バブル崩壊後、就職氷河期の入り口で、若者論は「社会」よりも「心」の側に重心を移す。

90年代の若者は、「自分探し」「本当の自分」といったキーワードで語られる。

進路選択・恋愛・働き方――どの局面でも、「自分らしくありたい」「自分に嘘をつきたくない」という語りが強調される一方で、「自己肯定感が低い」「自己評価が不安定」といった心理的な問題がクローズアップされる。

オウム事件以後は、「若者と宗教」「共同体への渇望」「危うい自己啓発」といったテーマでの若者論が増える。

ここで著者が指摘するのは、「若者の問題」が社会構造ではなく、個人の心の問題として語られやすくなったことだ。

非正規雇用の拡大、家族の変容、経済格差といった構造的要因は、「自分のせいだと思い込んでしまう若者」「自分をうまく使えない若者」といった心理学的言説の背後に退く。

90年代の若者論は、社会の失敗を個人のメンタルの問題に翻訳することで、「時代の責任」を見えづらくしてしまう傾向を強めた。

そしてみんな「若者」になった――恒久的青年期の時代


第五章は、2001〜2025年。

SNSの普及、リーマンショック、東日本大震災、コロナ禍――こうした出来事を経て、「若者」というカテゴリー自体が奇妙な変容を遂げる。

著者がもっとも重視するのは、「大人モデルの消失」だ。

かつては、「こういう大人になればよい」というイメージが、親、会社の先輩、近所の大人たちの姿を通じて提示されていた。

しかし、終身雇用の揺らぎ、地域共同体の希薄化、SNSによる比較の恒常化などによって、「理想の大人像」は共有されなくなる。

その結果、「若者らしさ」を手放せない大人が増える。

ファッション・言葉づかい・趣味嗜好の面で、「若者」と「大人」の境界は曖昧になる。

ここで著者は、「みんなが若者になった社会」という逆説的な表現を用いる。

見た目においても、ライフスタイルにおいても、「大人らしさ」を強く前面に出す人はむしろ少数派になる。

年齢だけが増え、責任だけが重くなりながら、内面は「自分探し」のモードを引きずったまま――そんな状態が、ごく普通のあり方になってしまう。

著者の言う「いまどきの若者」とは、もはや十代・二十代だけを指さない。年齢に関係なく、「成熟の通過儀礼をどこかで取り落としたまま、恒久的な青年期を生きている人々」の総称として、「若者」が社会全体を覆い始めているのである。

まとめ

1. 若者論は権力装置である——「未熟な他者」としての若者

本書全体を通して見えてくるのは、「若者論」がつねに「大人側の視点」から組み立てられてきたという事実だ。

「いまどきの若者は〇〇である」という言い回しには、「評価する側」と「評価される側」があらかじめ固定されている。

その関係のなかで、若者は「まだ社会のルールを知らない」「まだ責任を負っていない」「まだ本当の意味で成熟していない」存在として位置づけられる。

明治の青年論も、戦後の対抗文化論も、バブル期の新人類論も、Z世代論も――どれも、「今の社会のルール」を既に身につけたとされる大人の立場から、「まだ」そこに達していない者たちを語る構図を繰り返してきた。

この意味で、「若者論」とは、大人が自分たちの世界観を次世代に承認させるための柔らかい権力装置であり、若者を「未熟な他者」として構築し直すことを通じて、自分たちの側を「成熟した側」として確認し続ける儀式でもあったと言える。

もし、誰も「若者」と呼ばれたがらなくなり、「若者」であることにメリットがなくなる時代が来れば、社会は別のメカニズムで変革の動力を見つけなければならなくなる。

そのとき、若者論は権力装置としての役割を失い、「世代」という単位に頼らない社会変革の想像力が求められるだろう。

2. 「全員が若者になった」社会は成熟不可能な社会なのか

第五章のキーワード「みんな若者になった」は、軽妙な言い回しでありながら、かなり重い問題提起を含んでいる。

通過儀礼としての「大人になる」が制度からも文化からも消えつつある現代では、人々は年齢だけを重ねながら、価値観や自己像の面では青年期のモードを引きずり続ける。

就職・結婚・子育て・住宅購入――かつて「大人になる」プロセスの目印とされたものは、今では選択肢の一つにすぎず、その多くが経済的にも心理的にも手の届きづらいものになっている。

その結果、人々は「自分探し」「本当の自分」という語りから完全には抜け出せない。

中年になっても、老年になっても、「これでよかったのか」「まだどこかに本当の自分がいるのではないか」という問いは消えない。

全員が若者になった社会とは、「成熟」の定義を失った社会であり、人々が永遠にアイデンティティを模索し続ける恒久的な青年期のなかで、Z世代やα世代への過剰な世代論的関心だけが空回りする社会なのかもしれない。

この視点から本書を読むと、「Z世代ならではの〇〇」といったラベルに飛びつく誘惑に、少し冷水を浴びせられる。

世代論は、いまを理解するヒントであると同時に、「成熟できない社会」が自分の不安を若い世代に押しつけるための口実にもなりうるからだ。

3. 「若者」とは時代の生贄である——失敗の責任の押しつけの歴史

最後に、本書を「日本社会が自分の失敗を若者に押しつけてきた歴罪の記録」として読む視点を置いてみたい。

明治の国家主義が挫折したとき、「青年の過激さ」が批判された。

戦後民主主義が行き詰まったとき、「政治に無関心な若者」が非難された。

高度成長の歪みが露呈したとき、「モラルなき新人類」「刹那的な若者」が問題とされた。

失われた30年のさなかには、「就職氷河期世代の自己責任」「ゆとり世代の弱さ」が繰り返し取り沙汰された。

もちろん、若者自身にも責任の一端はある。

しかし、構造的な閉塞・経済政策の失敗・雇用環境の変化・教育政策の迷走など、明らかに大人側の決定がもたらした問題であっても、その多くが「いまどきの若者」というレッテルの中に紛れ込まされてきた。

この意味で、若者論の150年史は、各時代の不安と矛盾を「若者」というスクリーンに投影し、世代間の線引きを通じて責任の所在をぼかし続けてきた日本社会の歴史でもある。

本書は、そのスクリーンを裏返しにして見せる。

「いまどきの若者は〇〇である」と言われたとき、そこには「いまどきの大人は△△である」「いまどきの社会は□□である」という言葉にならなかった部分が必ず張り付いている――そのことに気づくための、150年分の資料集でもあるのだ。

この要約で届かない部分が、本書を読む理由になる

本書には、ここまでの要約では追いきれなかった読みどころが少なくとも三つある。

一つ目は、各章で紹介される具体的な引用の生々しさだ。

明治期の新聞に登場する「怠惰な若者」批判、戦後雑誌が描いた「しらけ世代」、80年代の「新人類」論、90年代の「自分探し」本、そして令和のZ世代論――それぞれの言葉には、その時代の息づかいと偏見がそのまま染み込んでいて、今読むとむしろ「大人側の焦り」が透けて見える。

二つ目は、「日本の若者年表」による俯瞰の面白さだ。

政治・経済・文化の出来事と、「若者」をめぐる言説が並列された年表を眺めていると、「この批判はあの事件の後だったのか」「この世代称はこの政策とセットだったのか」という意外な連関が見えてくる。
要約では、この視覚的な「地層感」を再現しきれない。

三つ目は、著者自身の立ち位置の微妙さだ。

パンスは単純に「大人は悪く、若者は犠牲者だ」とは言わない。

むしろ「若者自身も、次の世代を語り始めるときには同じ誤りを繰り返しうる」という自己反省を、ところどころに差し挟んでいる。

この、自分の立場もまた「若者論という権力装置」の一部であるかもしれないという疑いは、読者にもじんわりと伝播してくる。

あなたがもし、ニュースやSNSで「Z世代は〇〇」といった言い回しを見たとき、「またか」と思いながらも少し気になってしまうなら――その「少しのモヤモヤ」の歴史的なルーツを、本書はかなり丁寧に教えてくれるはずだ。


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