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「ありがとう」と聞こえた日|父と過ごした最後の時間

父が最後に発した言葉が、私には「ありがとう」と聞こえた。

その言葉が、今でも心の中に生きている。



父が亡くなる前日の夕方、母から電話がかかってきました。


「もう時間がないから、急いで会いに行って」


ちょうど夫は出張中。


私は子どもたちと一緒に早めの夕食を取り、
一人で病院へ向かいました。


幼い子どもたちを残して夜に出かけることに、うしろめたさがなかったわけではありません。

子どもたちには「今日中に帰ってくるから、いつもの時間に寝ていてね」と言い聞かせ、後ろ髪を引かれる思いで家を出ました。


それでも私は、病院へ急ぎました。


面会時間終了まであとわずか。


焦りながら病室へ駆け込みました。


父の口には酸素マスク。


父は私が「来たよ」と言うと、
目を合わせ、わずかに頷いてくれたように見えました。


それから

子どものこと、母のことを話し、

「ありがとう」と伝えると、

父が「あ...と」というようなことを言い、
そのあと、力尽きたように目線が明らかに私とは違う方に外れ、
一点を見つめるだけになりました。


その先には、父の愛用の時計がありました。


父の意識が遠のいた瞬間、病室には時計の針が動く音だけが響いていました。


家で待つ子どもたちのことが頭をよぎり、早く帰らなければという焦燥感と、今この場を離れたらもう二度と会えないのではないかという後ろ髪を引かれる思いが交錯し、私は立ち尽くしていました。



急いで病院をあとにし、帰りの電車に揺られながら、父との時間を思い返していました。


昭和の曲を集めて持っていったとき、森山良子さんの「さとうきび畑」を聴きながら涙を流した父。


孫の姿を見て、やわらかく微笑んだ父。


意思疎通が難しくなってからも、父はそこにいてくれました。


父が発した最後の言葉が、私には「ありがとう」と聞こえたように思いました。


その言葉に救われる思いがしました。


父は私たちに罪悪感を抱かせないためにも、
最後の力を振り絞って「ありがとう」を伝えたのではなかったのかと。


帰宅すると、子どもたちは約束通りきちんと眠っていました。




そして翌日、再び父のもとへ向かいました。


今度は子どもを連れて。


幸いにして、もう一度、生きている父と会うチャンスに恵まれました。


父に会いたい、その一心で病院の階段を上っていると、「アー、アー」と低く響くような音がだんだんと近づいてきました。


子どもと「なんか、すごい音がするね」と話しながら病室に入ると、音の正体は父でした。


父が精一杯、酸素を取り込もうと息をしている音でした。

あまりの光景に頭が真っ白になり、胸が潰れそうになりましたが、一瞬後に父の手を握り、来たことを伝えました。


その最中も、父はとにかく懸命に呼吸を続けていました。


ふとんの中にある足を触ってみると、氷のように冷たいものが手に触れました。

触れたのは脛。


すでに足先は紫色に変色し、チアノーゼを起こしていました。


さして親孝行をしてこなかったことを悔やみながら、少しでも感謝の気持ちが伝わればとの思いを込めて、そっと足をさすり続けました。


そんな父との最後の時間を過ごしました。


あとで知ったのですが、あの音は「死前喘鳴」と呼ばれる状態で、呼吸のたびにのどの奥に溜まった分泌物が振動する音だったそうです。




胃ろうによる延命措置を行ってからの数年が、父にとって幸せだったのかどうか、本当のところはわかりません。


意思疎通が難しくなってからも、父と一緒に過ごした時間は、
母にとっても、私たち家族にとっても、大切な時間でした。



毎朝カーテンを開ける際、無事に平和な朝を迎えられたことを父に報告しながら、あの「ありがとう」という言葉を今でも心の中で何度も思い返しています。


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