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平成トレンディ小説 彗星群 第4話 私、最低だ

【閲覧注意】心が持たなくなったら、遠慮なく離脱してください。

第4話 私、最低だ

 年が明けて、1999年。
 冬が深くなるにつれて、田澤の気配がだんだん遠くなっていた。

 最初の頃は、頻繁にあった連絡も減ってきていた。

「いま、書きたいものがたくさん出てきた」

 電話の向こうでそう言われた時、志織は笑って「いいじゃん」と答えながら、胸の奥がきゅっと縮む。

 彼の言葉は、一番惹かれたものだ。
 それが増えることは嬉しいはずなのに、その言葉が自分ではないところに、向かっていくのがわかる。

 志織も動き始めていた。
 制作の現場に触れ、グラフィックの基礎を見習いとして学び始めた。
 紙の質感、文字の組み方、色の沈み方。
 覚えることが多くて、足が重い日もある。

 田澤は志織の話を聞くと、まっすぐ讃えてくれる。

「すごいよ、ちゃんと自分の考えを持って」
「志織さんが頑張ってるから、俺も頑張れるんだよ」

 誇らしい気持ちになる。
 しかし、いつの間にか、そんな言葉が重荷にもなりつつあった。
 常に、頑張る自分でいなければいけない。
 時には、甘えたいのに。

 そんな、ある日。
 田澤の元に、一通の封書が届く。
 その中身を見て驚愕した。

【最終選考作品選出通知】

平成十一年二月吉日

田澤幸弘 様

全日本映画協会
第七回 全日本映画協会脚本賞 事務局

拝啓

 時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
 このたびは「第七回 全日本映画協会脚本賞」へご応募を賜り、誠にありがとうございました。

 厳正なる審査の結果、プロ・アマチュアを問わず寄せられました応募総数 12,016作品 の中より、
 貴殿ご応募作品

『彗星群』

を、最終選考作品三十作品の一つとして選出いたしましたので、ここにご通知申し上げます。

 本賞は、大賞受賞作を映画化することを前提としております。
 なお、これまでの第六回までにおいては、大賞該当作はございません。

 最終結果の発表は来年二月頃を予定しております。

 選考経過に関する個別のお問い合わせには応じかねますので、何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます。

 貴殿のご健闘に心より敬意を表しますとともに、今後のご活躍を祈念申し上げます。

敬具

全日本映画協会
第七回 全日本映画協会脚本賞 事務局

 震える手は、その紙を引きちぎらんばかりだった。
 呼吸が止まりそうになり、心臓が破裂せんばかりに打ち震えた。

(やっ.....た)

 早速電話を取り出す。

「もしもし?志織さん?」
「はあ?幸弘か?どしたんよ!」

(やべっ!)

 電話の相手は、父だった。
 タザワ、タベ、住所録が志織の手前で止まっていたのだ。

「わりぃ、間違えたわ」

「いや、それはええが、志織?女の子の名前か?そりゃ聞き捨てならんぞ」

「いま急いじょるけぇ、あとでな」

「……おう、志織ちゃんか、名前、覚えたけえな」

 電話を切り、深呼吸をしてかけ直す。

 久しぶりの電話。
 受話器を取った瞬間、声が少し震えた。

「あのさ。週末のバレンタイン、夜に会えない?」

 息が止まる。

「え?」

「渡したいものがあるんだ」

「あと、伝えたいこともある」

 志織はすぐに答えた。

「伝えたいこと?今じゃ……ダメなの?」

「会って、話したいんだよ」

 電話を切った瞬間、胸が弾み始めた。

(いよいよかな?)

 一方で、田澤は虚空を見つめてつぶやく様に言葉を洩らした。

 「ごめんの、俺、この人が好きなんじゃ...許いてくれるかの?」

 二月十三日

 銘治鉄工の会議室。
 机の上には、工程表と見積の束。
 田澤は資料をめくりながら言った。

「四年前の震災以降、国の耐震基準が変わり、以前よりも強度を高める必要があります」
「コスト増加は致し方ないとして、できる範囲で安全面にご配慮いただきたい」

 向かい側で、三島が鼻で笑った。

「安全面って……」
「地震なんて、いつ来るかわかんないのに、そんなもんのためにコスト上げてちゃ、仕事なくなっちゃいますよ」

「しかし、いざ来た時に倒壊や崩落が起きれば、会社の信頼が失墜することになります」

 沢渡が頷く。

「筋が通ってるな」
「あの神戸の姿を思い出したら、今まで通りでは通用しないだろう」
「三島、もう少し先のことを考えるんだ」
「金の問題じゃないんだよ」

 三島はため息を吐いて、言葉を飲み込む。
 そして、田澤を一瞥。
 そこには、目を閉じて思案している姿があった。

 会議が終わる。
 その夜、合同事業の顔合わせの名目の会食が組まれた。
 乾杯の声が一巡して、卓の上が少し緩んだ頃、三島が席を詰めてきた。

 田澤のグラスに、酒が注がれる。

「真面目だねえ、田澤さん」

 囁くような声だった。

「会議ですから」

「うんうん。それはそうだ」

 三島が少し身を乗り出す。

「……この前、見ちゃったんだよね」

 田澤は首を傾げる。
 どこか、楽しそうに続ける三島。

「あんたと、多辺がいたところ」

 一瞬、空気が凍る。

「……伺ってますよ、お付き合いをされていたと」

 ほくそ笑む三島。

「過去形?あいつ……」
「まあ、確かにちょこっと魔が差しちゃったけど」
「もう、仲直りしたんだわ」

 田澤は、グラスを置いて、目線だけを三島に向けた。

「……その話、今する必要あります?」

「え? あるでしょ?あんた、俺にとっちゃ彼女の二股相手なんだよ」

「まあ、あいつ『二股されたから、やり返しただけ』って、俺に向かって謝ってたから、そういうこと」
「だからさ、身を引いてよ。明日バレンタインだし、どうせ会うんでしょ?」
「それ、会っていいから、けじめつけてね」

 田澤は、無言のまま、前を見据えるだけだった。

 二月十四日。
 夜の駅前は冷たい風。

 待ち合わせの場所に先に立っていた田澤は、スーツの肩を少しすぼめて、行き交う人の流れを見ていた。

 志織が近づくと、すぐに気づいて、軽く手を上げた。

「寒くない?」

 志織は笑って頷いた。

「大丈夫。……待った?」

「全然。俺が早かっただけ」

 いつもより少しだけ、表情が硬い。
 二人はレストランに入り、向き合って腰かけた。

「……これを、渡したかったんだよ」

 厚めのファイルが差し出される。

「なにこれ」

「前、見せる約束したよね」

 志織がファイルを開く。

「……彗星群」
「かっこいいタイトルだね」
「読んでいいの?」

「もちろん。……だから今日、渡したかった」

 田澤は一度、喉を鳴らした。
 昨夜の三島が浮かぶ。

「それと、もう一つ……話がある」

 胸が、ぎゅっと縮む。

(ついに来たーーー)

 志織は、身を乗り出して、田澤の目を見つめた。
 しかし、その視線を外して、夜の街灯を見た。
 一旦用意していた、別の言葉を飲み込む。

「全日本映画協会脚本大賞、これが最終選考に残ったんだ」
「一万二千十六作品の中から、三十の中に」

「すごい、」

 志織の顔が驚きの表情に変わる。
 そして、どこか不安も駆り立てた。

(一万二千の中から三十?プロの人もいるのに) 

 志織の指先が、ファイルの角を強く押さえる。

(しばらく会えないうちに、この人、どんどん大きな人になっちゃう)
(この人には、私はいない方がいいの?)

 田澤は淡々と告げる。

「これから、最終審査があって、一年後に結果が出るんだ、今まで大賞はいないみたいだから、何か賞でも貰えたら良いんだけど」 
「志織さんのおかげで、書けたんだ、ありがとう」

 その一言に、志織の中になにかが芽生えた。
 不安、恐怖、戦慄、それらに近いものだ。

「私のおかげ?」

「志織さんに読んで欲しくて、書いたんだ」
「登場人物のセリフも、君に伝えたいと思ったものも、ある」

「私に、伝えたい、こと?」

 笑おうとしたが、口元が上がらない。

「……そっか」

 その様子を見た田澤は、ふっと昨日の三島に告げられた言葉を思い出し、思わず口を開いた。
「三島主任……銘治さんに行くと、最近よく話してくれるんだ」
「初めて会った時も悲しそうだったし、この前、橋を渡った時も……」
「まだ……あの人に、未練とか、ある?」

 志織は一瞬固まってから、少し嬉しさも感じた。

(……やだ、ヤキモチ妬いてるの?)
(だったら、本音を聞き出さなきゃ)

「……さあ、どうなんだろう?」
「実際、楽しい思い出もあったし」
「……それに、やっぱり完全に気持ちは消えないから」
 (さあ、どうする?ハッキリするところだよ?)

 しかし、覗き見た田澤は無表情になり、何度も頷いていた。

「……そうなんだね、ごめんね、変なことを聞いちゃって」

(なんで……そうなるの?)
「……何?それ、あの人に何か言われたの?」

 田澤の表情は、虚ろな目のままだった。

「……何も」
「でも、自分の気持ちには、正直にいた方が良いよ」

(……それは、あなたでしょう?)
(待って?私が勘違いしてるだけなの?)

 田澤は目を伏せてグラスを口に運ぶ。

(……思わせぶりな態度だったの?あなたは)
(……もう、なにもわからないよ)

 今度は無理に笑顔を作り、田澤を見る。

「また、今度映画見に行かない?」

「ありがとう、また連絡するよ」
「だけど次の応募や、これからは漫画原作の、持ち込みもやってみようと思ってるから」
「いつになるかは、分からないけど」

 優しい言葉なのに、距離が広がっていく気がする。
 志織はバッグの中を探り、手のひらに収まる小さな箱を出した。
 田澤が箱を見て、目を瞬いた。

「……それ」

「うん」

 受け取った瞬間、目の奥が濡れた。
 志織は、何か言葉を探した。
 しかし、言葉が出る前に、先に崩れた。
 顔を隠すみたいに、少し俯いて、息を詰める。

「……ありがとう」

 志織は、見ないふりをした。
 箱を胸の前で両手で持った田澤は、短く何度も頷いた。

「嬉しい。……ほんとに」

 志織は笑った。

「よかったね」

 言った瞬間、自分の声が自分のものじゃないみたいに聞こえた。
 田澤は、泣きそうなまま、いつもの顔に戻す。

「送るよ」

「大丈夫だよ.....駅、近いし」

 田澤は頷いて、何かを飲み込む。
 最後に一言。

「読んでね」

「うん」

 志織が振り向くと、その背中に田澤から声がかかった。

「君も……よかったね?」

「え?」

 もう一度振り返ると、田澤の背中は遠くに向かって歩いていた。

「……何が……よかったの?」

 田澤は自分が乗る路線の、改札を抜けて、ホームへ。
 夜風に当たった瞬間だった。
 笑顔が、まだ目の奥に残っている。
 淡いリボンのついた小さな箱を眺めた。
 思い出したのは、昨夜の三島の口元だけの笑いだった。

(俺ら、付き合ってるからね)

 初めて会った日の、悲しみで言葉に詰まっていた電話。
 あの橋を渡っていた時に、三島を思い出して表情を曇らせた志織。
 田澤の脳裏に、悲しむ志織の泣き顔が浮かぶ。

「これで……よかったんだ、全部」
「俺じゃ……無理だったんだね」

 そう思った途端、言葉が、出なかった。
 列車接近を知らせるアナウンス。

 (……元気でね)

 ただ、星の見えない夜空を、そっと眺めていた。

 志織が帰宅すると、アパートの前に影があった。
 三島だった。
 志織の沈んだ表情を、目ざとく逃さない。

「どうしたんだ?嫌なことでも、あったのか?」

 鍵を取り出す手が止まる。

「帰って。二度とこないで」

 三島は焦ったように言い募る。
 自分が悪かった、間違っていた、やり直したい。
 志織は目だけを向ける。

「わかってるなら言わなくていいよ」

「別れたんだ。……志織、別れた」

「そうだよ」

「違う、あいつと」

 志織は、そこで一度だけ息を吐いた。

「あっそ?関係ないから」
「帰って」

「許してよ、やり直したいんだ」
「お前が、まだ好きなんだよ!」
「忘れられないんだ、頼むよ」

(好きなんだよ!)

 その一言が志織の心を針のように突く。
 この夜、田澤から告げられると思っていた言葉。
 軽く安っぽいものだとわかっている。
 しかし、志織の心を突いた針穴は、波紋の様に広がりつつあった。

「帰れ、大声だすよ」

 三島は一瞬ひるんだが、最後に、捨て台詞みたいに言う。

「……また来る」

 志織は返さず、部屋に入ると鍵を閉めた。
 静かな室内。
 靴も揃えないまま、ベッドに倒れ込む。

(……三島さんは、簡単に……)
(好きだと言ってくれる)

 嫌な考えが頭をよぎって、首を振った。

「……何を、悩む必要があるの?」
「あの人が、何をしたか忘れたの?」

 呼吸を整えようとして、テーブルに置いた荷物を見た。
 バッグと共にある、彼の作品のファイル。

「……読まなきゃ、駄目、だよね……」

(登場人物のセリフも、君に伝えたいと思ったものも、ある)

「……どんな言葉なんだろう?」

 答えが出ないまま、座椅子に座る。
 深呼吸して、ファイルに手を伸ばした。

 怖かった。
 良かったら不安になる。
 悪かったら気の毒になる。
 しかし、今の志織に、田澤を感じられるものは、これしかない。
 恐る恐るページを開く。

 すると……

 最初の数行で、世界が変わった。
 文字を追うごとに、実際の景色が立ち昇る。
 朝霧に包まれた森の景色。
 渓谷のせせらぎ。
 夜明けの都市の佇まい。

(……すごい)

 文字が風を運んで、頬をくすぐる。
 足元の砂利を踏み締めた感触。
 工場の煙突から立ち昇る、煙の匂い。

 物語の中心にいるのは、父と息子。
 親子は、衝突を繰り返して過ごす。
 やがて、父親が、息子を置いてこの世を去る。

 ページを追う目が左右に揺れる。
 息を止めていることに気づいて、慌てて吸った。

 父は霊魂となって息子のそばにいた。
 声は届かない。
 触れられない。
 だが、息子の側で見守り、時にあらゆる物に姿を変えて、息子を守り続けた。
 息子は、父の道を引き継ぎ、歩み出す。

(……なんで、こんなに……)

 頭の中で、いつの間にか田澤の声が重なっていく。

「志織さん、すごいよ」
「しっかり自分の考えを持ってる」
「志織さんが頑張ってるから、俺も頑張ろうと思ったんだよ」

 志織は首を振った。

(違う)
(あなたの方が、もっとすごいじゃん)

 文章は容赦なく胸を叩く。
 景色が立ち上がるたび、志織は(すごい)と声を洩らすしかできない。

(いつも、俺なんて、って言うくせに)

 そして、息子が命の危機を迎える
 暗い病室の匂い。
 機械の音。
 そこまで文字が連れてくる。

(……いつも、私を尊敬してくれるじゃん)

 父は息子の枕元に立ち、語りかける。

「俺の息子であることの重圧は辛かったし、しがらみはきつかったろう。だがな、これだけはわかってほしい」

 息を呑んだ。
 父の声が、もう完全に田澤の声となって再生される。

「俺が望むのは、どんな仕事をしてもいい。生きて笑っていてくれたらいい」

 涙が溢れた。
 止まらない。
 ページを追う目が滲んで、文字が揺れる。

「それ以外、望むことはない」
「どこで何をしても、毎日笑って生きてくれ!それが俺の願いだ」

 堪えきれず声に出していた。

「あなたは……こんなに……こんなに……」
「……私、恥ずかしいよ.....」

 文字の上に涙が落ちて、点になる。

 すると最後の言葉が、はっきりと、田澤の声で読まれてしまう。

「お前は、俺の人生のすべてだから!」

 その言葉が、胸を貫いた。
 震えながらページを見つめる。
 そのまま何度も読み返してしまう。

「こんなの……」

 ページを追う目が、左右に揺れる。

「……こんなの無理だよ」

 パタン、とファイルを閉じた。

「……無理だよ、私じゃ」
「.....あなたの未来も人生も、背負えないよ」
「.....大きすぎる、重すぎるよ」
「……こわいよ、そんなの……」

 もう一度、胸の奥であの声が鳴る。

「お前は俺の人生のすべてだから!」

「そんなはず、ないじゃん.....」
「……私じゃ、台無しになっちゃうよ」

 志織は首を振った。
 口元を震わせて、泣きながら。

「私には……無理だよ」
「私には……」

(好きなんだよ!)

 突然、先程の三島の声が割り込み、それを合図に、彼と過ごした甘い日々が甦り、さらに、裏切りを見た時の悲しみが、胸を締め付けた。

「謝ってくれた……」
「帰ってきて、くれたんだ」

 すかさず立ち上がり、田澤のファイルを鞄に詰め込む。

「あなたは……その才能を受け止められる人が、きっといるよ」
「……私は、あなたが、怖いよ」
「ううん、私が……あなたをダメにするのが」
「怖いよ……」

 ぶつぶつと呟きながら、上着を羽織り、玄関へ、ドアノブに手をかけて、立ち止まる。

「……迷う必要、ないよ」

 ノブを持つ手が震える。

「だって……あんなに、好きだったんだから!」

 勢いよくドアを開き、廊下に出ると、その端から声がかかった。

「……志織?」

「三島さん?」
「……三島さん!」

 志織は、勢いをつけて三島の胸に、飛び込んでいった。

 志織の部屋。
 言い訳が始まる。
 謝る声。
 取り繕う言葉。
 志織はそれを聞きながら、顔を崩した。

「……もう、いいから」

 正座する三島の手を、笑顔で取る。

「わかったから、もうしないでね」

「許して.....あげる」

 近づく気配。
 触れられた瞬間、背中が強張った。

「ありがとう、信じてたよ」
「また、仲良くしような」

 三島の手が背中に回る。

 (……ちょろいもんだ)

 彼は、志織に見えない角度で、ほくそ笑んだ。

(そう、この人は感情を剥き出して私を求めてくる)
(必要としてくれる)
(愛してくれる)

 唇が重なる。
 息が奪われる。

(あの人は私を大事にしてくれる)
(励ましてくれる、尊敬してくれる)
(でも、私が一番欲しい言葉をくれない)
(私を置いて先に行ってしまう)

 小さな悲鳴みたいな声が漏れるが、止められない。

 肩に手がかかり、逃げ道が狭くなる。
 志織は首を振る。
 しかし、どんなに振っても、ほどけない。

(でも、こんなの....)
(あの人の気持ちも)
(自分の気持ちもわかってるのに)

(あの人と向き合うのが怖い)
(もう、自分がわからない...)

 胸の奥で名前だけが暴れる。

(田澤くん……)

 呼びたいのに、声にならない。
 代わりに息が震える。

 声がかすれて、悲鳴みたいになる。 

「違う、違う……」

 でも止まらない。
 止めたら現実に戻されるのが怖い。戻ったら、あのファイルの言葉がまた刺さるのが怖い。

 アポが一日ずれた田澤。
 改札前、バナナを頬張っていた顔。
 バッテリーが上がって、しょげていた顔。
 水族館の帰り道、日よけの裏のプリクラ。
 あの橋の上で、二人で指差した夜空。
 つい先程、泣きそうな目で受け取った手。

 全部が、頭の中で巻き戻る。

(助けて)
(引き戻して)
(お願い)

――違う。
――違う、違う、違う。

 志織は目を閉じた。
 閉じたまま、浅い呼吸で耐えた。
 自分がどこにいるのか分からなくなるくらいに。



 白い天井。
 隣の寝息。
 部屋の暗がりが、やけに静かで、やけに現実だった。

 志織は天井を見たまま、呟いた。

「私。........最低だ」

次のお話はこちら↓

↓各話は以下のマガジンにまとめています

※ご拝読ありがとうございます。
1998年の物語です、ご意見、ご感想。
各話それぞれのBGMに似合いそうな、90年代の楽曲などを、コメントにてお寄せください。
励みになります。では、次回も是非読んでいただけると嬉しいです。

ちなみに
著者の第4話の選曲は
サイレント•イヴ(辛島美登里)
です。

↑こちら筆者の別作です。
是非ご覧になってください

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