【アマノ文筆クラブ】ネタがない
「寿司屋にネタがないとは浅ましいかぎりでござる」
と嘆く儂(わし)に
「そのシャリで充分だ」
と、返してくれたのは馴染みの亭主だ。
かたじけない。
そもそも武士と書いて「もののふ」と読む、根っからの無骨者である儂が、寿司を握って生計を立てようというのが過(あやま)ちなのだ。
「ご亭主 そもそもネタとはなんでござる」
炊きあがったシャリに白酢を混ぜるとき、儂はしゃもじではなく、刀で混ぜる。比喩ではなく、刀で切っている。
「おや かの宇和島十万石に名声をとどろかせた喜右之丞衛門さまがご存じないとは恐れ入ったことでございまする」
「無學な老骨に当てこすりなどお止めくだされ されどネタとは」
儂は今年で傘寿を迎える。寿司屋を開いて30年が経つ。
早いようで短い。短いようで早い。
「種(たね)の倒語でござる」
何年生きても、知らないことは必ずある。
「ならば寿司とはタネをシャリに載せて握るものなり」
ふむふむと儂も調子を合わせてみる。ご亭主は気持ちよく蘊蓄を広げる。
「寿司の語源は 酸い飯(めし)なのだ タネは入らぬ」
飯でなくとも酸いならば、すなわち寿司だろうとうそぶいたら、このご亭主は驚くだろうか。それともののしるだろうか。
「しからば このシャリも飯ではござらぬが」
「この白く ほうほうという湯気の これが飯ではないと?」
「ご亭主 これは豆腐のおからでござるよ」
「なんと風雅な」
「宇和島ではこれを飯のかわりに青魚のネタをのせて握るのだ」
「で なんと申すのだ」
「丸寿司(まるずし)でござる」
「しかしネタが無ければ丸寿司にも成らぬなあ」
と、そこにガラッと戸を開けてびしょぬれの男が戸口に立った。
「よう 大将! 海が荒れとって今日はイワシだけじゃが」
「おう イワシでもサバでもなんぼでも買うけえ いくらじゃ」
ネタがやってきた。
亭主はニコニコして儂の包丁さばきを眺めている。
「せっかくだから あんたも腹が減ってるじゃろう 食べていかんか」
「大将の丸寿司は格別じゃけえ 断れんのう」
ネタが無い時はめずらしくないが、いつもネタが有りあまっていても、それはそれで面白くない。無ければ無いで、楽しくやれるというのが良い店であり、良い商売なのだと、この頃の儂は思う。
刀で人を殺めることを止めてから何年経つかは、忘れた。
【終】
【あとがき】
宇和島の郷土料理・丸寿司はスーパーのお惣菜コーナーで見かけます。米とは別の味わいが好きです。元・宇和島藩士、現寿司職人の喜右之丞衛門は架空です。noterさんの創作で時代劇風って珍しいので、渋さを求めて挑戦してみました。
