【アマノ文筆クラブ】おしこんだりもしたけれど、私は能天気です。。
午後の授業が終わり、私は職員室に戻った。最近は生徒たちの実験の後片付けも手際が良くなり、時間よりも早く終わるようになった。新学期が始まったばかりの4月、5月に比べると成長したものだと思う。
自席に着くと同時に、縦に並べた学習指導要領に手を伸ばす。そろそろ次の試験問題に取り掛かかった方が良いだろう。わずかでも余裕が出来た時に素早く着手するのがコツだ。
どの仕事でも時間との戦いだと思う。
おハガキ、土井先生あてに来てましたよ♡
音大で留学し研鑽を積んだという、林先生の声は美しい。
あ ありがとうございます
なんだろう。
文面は墨書だった。
おしこんだりもしたけれど、私は能天気です。。。
真っ黒のフォントが大きく迫ってくる。
林先生はニコニコして私の表情をうかがっている。
うふふ 私にも来ないかしら
(そうですね)
住所欄を返すと、こちらも墨で元気よく「ソフィア」と書かれていた。住所は無かった。余白が足りなかったのかもしれない。日本の切手が貼られていて消印は羽田だった。出国前に投函したのだろう。
いいですねえ ソフィアは良い字書くじゃないですか
(のびのびとした良い字ですね)
ソフィアの父は日本文学の助教で、テオといった。短い滞在の間に何度か話す機会があったが、日本ではソフィアに書道を習わせると言っていた。母はキアラだったが、ソフィアの面倒をみていたのは主にテオだった。
キアラは、愛媛県における柑橘の新品種開発の技術協力を目的にイタリア・シチリア独立州から派遣された省庁担当者だった。
柑橘は主にビタミンCの補給源に適しているが、イタリア政府からの技術提供によって、愛媛県では以降、ビタミンC、アントシアニン、葉酸、ビタミンBの補給も可能になるブラッドオレンジの生産が増加することになった。
キアラが、松山の愛媛県農林水産研究所果樹研究センターと宇和島市吉田町の、みかん研究所を往来して成長を見届けたイタリアのブラッドオレンジの苗は無事そだち今や、険しい傾斜で有名な宇和島のみかん山に青葉を揺らすに至っている。
横からきた国語の中村先生がひょいとハガキを覗きこんだ。
おおソフィアですね きましたか 私が土井先生に送るよう言ったんですよ
ソフィアを書道部に入部させ、墨のすりかたから教えたのは太田先生だった。一目でソフィアの筆跡と見抜いたのはさすがとしかいえない。
(いやいや太田先生宛てで良かったですよ)
そんな訳にはいきませんよ なんといっても担任は土井先生ですし
ソフィアを含めたロッシさん家族は、イタリア・シチリア独立州から飛行機で20時間ほどかけて羽田空港に着いた後、国内線に乗り換えて松山に降り立った。トランジットを含めると2日かかったらしい。農林メンバーと教育メンバーで出迎えは総勢10名を超えて、松山ではTVカメラまで来たという。
宇和島ではそこまでの騒ぎにはならなかった。キアラとテオはそれぞれ「静かな街でよかった」と口にしていたし、ソフィアも淡々と中学校に通っていた。数学が得意だったらしい。言葉もテオから習っていて、日常会話で支障はなかったと思う。
太田先生、ソフィアは会話は達者だけれど漢字と平仮名が混在するから書く方が不得手と言われてましたよね
私は理科専任で、
実験中に危険なことをしない、とか
授業で寝ない、とか
ごく当たり前のことをチェックするだけで、
むしろ難渋するソフィアが新鮮です
またテオが、頻繁にソフィアを迎えにきてましたし
その場で気になったことや他の先生からの指摘は
直接テオに話せば良かったので
私は特別なことはしていないと思います
テオの持論が、問題を共有することが最善というものだったんですよね
私などは、ふだん口数が少ないもので、翻訳アプリ頼りでしたが、
我ながら良くあれだけ話ができたものですよ
たしかにクラス担任は私だったから、テオと向きあった。でも、しゃべりすぎて口がしびれ、くたくた雑巾のていで職員室に戻ると、誰かしらが座っていて『おつかれ』とねぎらってくれた。それは、コンクール前の追い込みだというスイブ(吹奏楽部)顧問の林先生だったり、地域指導で遅くなったという阿部先生だったり、部員の墨書に朱を入れていた太田先生だったり、校長が座っていたときなどは『定時退勤ですよ』とハッキリキッパリ言われたもので、ぐうの音も出なかった。
担任として残る名前は私一人だが、私は他の先生方に支えられていたのだと、この頃では思う。
おっ ソフィアから便りが届きましたか これは畑中先生にも伝えないと
なんだか人が集まっているね、とのんびり加わったのが阿部先生で、畑中先生はまだ部活指導でグラウンドから戻らないらしい。
そのうち学年主任、教頭、会議から戻ったという校長も加わり、さらなる賑わいを呈してきた。
おくらばせながら畑中先生も戻ったらしく、声がきこえてきた。
ソフィアかぁ おしかったなあ 大会でてもらいたかったねえ
ふと体操着でハチマキのまま筆を握っていたソフィアの姿が脳裏に浮かんだ。着替えるのも、もどかしかったのかもしれない。
落ちこんだりもしたけれど、私はげんきです
どこかで聞いたようなセリフが脳裏をよぎるが、そんなことは良い。
ハガキはいつのまにか校内全回覧され、額縁に入り玄関に飾られた。
おしこんだりもしたけれど、私は能天気です。。。
テオが見たら絶叫しそうだ。
【終】
あとがき
愛媛県における柑橘品種開発を題材にしました。イタリア・シチリア独立州、松山市、宇和島市、愛媛県農林水産研究所果樹研究センター、みかん研究所は実在します。中学校、登場人物は架空です。
