【創作】偶然と作為
🌸はらとけいさんの企画に参加しました🌸
三寒四温の頃はエアコンが懸命に稼働したところで足元が冷える。朝に貼ったカイロが切れて、ことさら足先が凍てつくようだった。持参のカイロに靴下用は無かったので、この機会に此のシマのメンバーがみんなで使える靴用カイロを箱で買うことを検討してみる。目につくところに置けば女性は迷わず手を伸ばすだろうし、女性が使うのを見ているうち、使ってみようと思う男性メンバーも多少は出てくるかもしれない。全員が一斉に使いだしたら30個入りでも1週間足らずで無くなるから、まず何も言わずに1箱だけ購入してみてもよいか係長に訊いてみよう、さて係長は在席してたかな、シマを見渡そうとしたところで、おもむろに社用スマホが鳴った。
表示されたのは課長。とたんに緊張する。
これより上の役職者だと、逆に力が抜けるのが謎。
はい 広報の谷本です
ああ 谷本さん 悪いがこっちに来てもらえないか
取るものはとりあえず置き、隣席の芦浦さんに(籠城部屋に行く)と伝言し、課長が常駐する別室に向かう。別室というのはサマで、実質は籠城部屋という別名がついている。いったん入ったら課長はまったく出てこないし、呼ばれた社員はなかなか出てこられないからだ。
籠城部屋に入ると、課長は扉を閉めるように示した。
おりいって頼みがある
(まず内容をうかがい、それから判断したいのですが)
別に断ってもらっても構わないんだ ただ社用だから手当てはつく
すまないが、ここまでで答がほしい
受けてもらえないと以降は話せないんだ 個人の事情もからむものでね
(承知しました)
と返事をしたところで、具体的な手当ての額を確認してから受けるべきだったという強烈な後悔が襲ってきた。
まったくなんだって、
私という人間はどうしていつもこんなにも、
迂闊なのだ。
課長は(悪いね)と苦笑した。
実は部長からの依頼で、
専務は谷本さんと面識がないと言うから
(谷本さんを)吃驚させて断られるなんてあってはならないだろう?
そこで私に頼んだんだよ
だから詳しく話せるほど私も知らないんだ
(じゃ、あとはたのむよ)
課長は私に、今この場で部長のスマホにかけるよう示した。
3回の呼び出し音のあと、部長の明るい声が返った。
男性は、声が高いだけで軽薄な印象になる。
谷本さんだね 例の件、詳細は社長室で話す
このままあがってきてほしい
受ける、といったん返事した以上は上がる他ないが、既に私の後悔は始まっていた。
突然だけど、旧姓の森本さんは分かるよね?
知っているどころではない。私の方が先だったのに、森本は社長の娘に乗り換え、首尾よく婿入りした。今では跡取りの岡根常務だ。
(それが何か?)
明日、森本さんは朝から手術でね
社長が立ち会う予定だったのが
急に拠点に出向くことになって
代わりに病院にいってほしいんだよ
社長の奥さんは、娘を出産後まもなく希少癌が見つかり、手の施しようもなく亡くなったらしい。その事情を斟酌しても、社長の娘には乗り換えられた恨みが募った時期には、せめて一度くらい文句か、あてこすりの一つでも投げてやろうともくろんでいたが、彼女も結婚後に進行した悪性黒色腫が見つかり、半年も経たず亡くなった。
盛大な披露宴ののちの盛大な社葬。危うく人の道を踏みはずしかけていた私を、正気に引き戻すには十分なイベントだったと思う。
結局、私は此岸に踏みとどまった。
心の傷も癌になるというのなら、私の心などは末期を越えて、もはや死んでいるのではないだろうか。
私は自然に渋面を見せていたらしい。黙っていた社長がぽつりと言った。
森本さんは脳腫瘍が進行していてね
最後になるかもしれない、という気遣いは私の為ではない。それは良く分かったので、その場で経費を会社から落とすための書式を部長に訊いた。
(手術の立ち会いには明日の始発で発てば、問題ありません)
私は淡々と社長に告げて早退した。
(では失礼します)
森本が入院しているという病院は、思ったよりもこぢんまりとしていて、院内は空調で暑いほどだった。受付で岡根の代理だと告げると、同意書の再作成で10枚ほどのA4紙に署名を求められた。
これが無いと麻酔が準備できないと急かされ、ゆっくり内容に目を通すことなどできなかった。
時間には余裕があると思っていたが結局『5分』と時間を区切られた。ベッドの横に1人、点滴準備、注射準備にそれぞれ1人があわただしく動いている。
ひさしぶりだね
周りはあわただしいが、患者の森本は悠然としている。
(あんたのおかげでこっちはけっこうな迷惑をこうむっているんですがね)
さすがに病人を目の前にすると、毒舌は脳内で暴れだす。
なんで今日なんだろうね
私の知ったことではない。が、病人に問いただすなど愚の骨頂だ。
あたりさわりなく適当に返せば良いのだろう。
(ええ、どうして今日なんでしょうね)
俗に言うオウム返しだ。
森本から、だから何の日だとは返ってくるでもなかった。前から会話が会話にならないような不思議なところはあったかもしれない。それが脳腫瘍と何らかの関係があるのか、それとも単に個性の範疇なのか、専門外の私には分からないのだけど。
今年の医療費きっとすごいよ MR検査費って高いらしいね
(高額な医療費は確定申告すれば多少は戻りますよ)
青ざめた表情の寝巻姿で、前よりずいぶん弱々しく見えるが、寛解すれば森本は次期社長だ。ここで私が感情に任せてうっかり失言でもしようものなら、まわりまわっていつか首が飛ぶかもしれない。
余計なことをしゃべって失言にされるくらいなら、いっそ黙っている方が良いし、そもそも、ここでの私は社長の代行と言う、これが業務なのだ。
森本は元彼よりも、今や業務対象に過ぎない。だから。
この一瞬だけを耐えれば。
私の心の声でも聞こえたのだろうか。看護師が目くばせをした。
もろもろ整ったらしい。
(じゃあまた)
会えてよかった
(それはそれは、どうも)
私は病室の外に出て、先に手術中の待合スペースに移動する。
(森本は、私が出てから投薬、20分の待機後に車椅子で手術室に搬送され、麻酔を投薬され手術に入る)
業務は9割がた終わった。あとは手術が終わるまで待つのみ。
私は、自分を裏切った男がもう一度会いたいという希望をもつことなど率直に許せない。
裏切っておいて、もう一度会いたいなど酔狂としか思えない。
私は、森本の手術が終わったと看護師から伝えられたら、社用スマホで業務終了を申告し、一路帰途に着くのだ。
(そういえば)
森本と別れて、私は3年後に入籍したが、社内では旧姓の「谷本」を使っている。森本は、入籍後の「伏見」とも「ひとみ」とも私を呼ばなかったし、『会えて良かった』という言葉だって、それほどの感情は無さそうだった。
ならば私をここに呼んだのは、、、
ささやかなミステリーは秒で、跡形もなく解けてしまった。
誰かが殺された犯人を突き止めたり、怪奇現象の謎を解いたり、財宝が見つかるような目的が無ければ、謎解きは暇つぶしの一つでしかないと思う。
私は拍子抜けして、何となく病院の屋上に上がって、晴れた空を眺めた。
今日は晩に何を作ろうかと考えてみる。
あっさりしたものがいいなあ
胃腸の弱い夫の好物はおでんだ。胃が弱いくせに、おでんだとダシに使った昆布まで食べたがる。あぶらっこい料理ば多い接待ではどうしているのだと訊いたら、食べるよりも商談をまとめる方が優先だ、と言って宴会メニューには一切手はつけないらしい。
ひょろっとやせて声が高い軽薄な部長が私の夫だ。幹部にゴマをすり、忖度に余念が無い風でもありながら、へんに潔癖で、時と場合を選びつつも譲らないところが面倒でもあり、時にかわいいと感じることすらある。
私の夫が仕向けたことなら許せるような気がしないでもないが、本当に許せるかどうかは、おでんを昆布だしから炊くガスの火を眺めながら考えるとしようか。
【終】
登場する会社、人は全て架空で、特定するものではありません。