謎は解けなくてもスイカはおいしい
昨日、高校野球を見ていたら、無性にスイカが食べたくなった。
夏の甲子園とスイカ。我ながらなんともベタな組み合わせだけど、一度食べたいと思ったら止まらない。激混みのショッピングセンターまでわざわざ買いに行って、家族みんなで食べることにした。
冷えたスイカをひと口。シャリッ。
「おいしい!」
思っていた以上においしかった。
スイカって、こんなにおいしかったっけ。
ふと見ると、甥っ子もスイカを食べている。
その顔は、おいしいともまずいとも言わない、なんとも微妙な顔をしていた。
ああ、そういえば。私も子どもの頃、スイカってそれほど好きじゃなかったな。種を取るのがめんどくさいとか、そんなふうに思っていた気がする。
嫌いではない。出されたら食べる。でも、「スイカ食べたい!」なんて思った記憶はない。それなのに今は、夏になると無性に食べたくなる。
いつからこんなに好きになったんだろう。
……わからない。謎だ。
味覚が変わったのか。大人になって「夏の味」として好きになったのか。何かの思い出と結びついているのか。考えてみたけれど、これといった答えは見つからなかった。
そこで、ふと思った。
謎って、必ず解かなければいけないのだろうか。
謎は解くもの。
ずっと、そんなふうに思っていた。
ミステリー小説なら、最後には犯人がわかる。
散りばめられていた伏線がひとつにつながって、「ああ、そういうことだったのか」と腑に落ちる。
わからなかったことが、わかる。そこには、なんとも言えない気持ちよさがある。だからなのか、現実の世界でも、わからないことがあると答えを探したくなる。
あの人は、なぜあんなことをしたのだろう。
あのとき、なぜ私はあんな選択をしたのだろう。
あの出来事には、どんな意味があったのだろう。
考えて、考えて、なんとか答えを見つけようとする。
わからないという状態は、なんとなく落ち着かない。だから私たちは、「きっとこうだったんだ」と理由をつけたくなるのかもしれない。答えがひとつ見つかれば、それ以上考えなくてもすむ。
なんとなく納得して、その出来事を心の中のどこかへしまうことができる。でも、その答えは本当に答えなのだろうか。自分が安心するために、もっともらしい理由をつけているだけのことだってあるかもしれない。
人生はミステリー小説ではない。すべての伏線が、最後にきれいに回収されるわけでもない。
だったら、わからないものは、わからないままにしておいてもいいのかもしれない。
それが自然なことなのかもしれない。
今はわからない。でも、いつかわかるときがやってくるかもしれない。そのときになって、「ああ、そういうことだったのか」と思うのかもしれない。
あるいは、最後までわからないままかもしれない。それなら、それでもいい。答えを急がずに、心の片隅にそっと置いておく。そんな謎がいくつかあってもいいのかな、と思う。
昨日食べたスイカは本当においしかった。
私がいつからスイカを好きになったのかは、結局わからない。でも、昨日のスイカがおいしかったことはわかっている。
それで十分なのかもしれない。
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