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小野小町と藤原惺窩ゆかりの洛北市原の里を久しぶりに歩いてみた



小野小町供養塔(鎌倉時代)


なつかしき市原の里をゆく
洛北市原の里は小野氏の所領だった地で小野小町の父が住んでいたところ。
小町も晩年にはこの地に住んでいたと伝わっている。実はわたくしも二十代の頃に住んでいた土地でもある。

鞍馬街道・篠坂(小町寺)切通


補陀洛寺(通称・小町寺)


小町 姿見の井戸


小野小町歌碑


花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

花の色は色あせてしまったことよ むなしく わたしがこの世で月日を過ごして物思いにふけるうちに そして長雨が降りつづく間に  



“あなめの薄”とは

“ある人が市原野を通りかかったとき、一叢のススキの中から声がした。
秋風の吹くにつけてもあなめあなめ(秋風の吹くたびに、ああ目が痛い)」と和歌の上の句を詠じているように聞こえるので、声の在りかを探すと、野ざらしの髑髏の目の穴から薄が生えでており、それが風になびくごとに人の声のように聞こえるのだった。その髑髏がこの地に下向して死んだ小野小町のものだと教わって哀れに思い、「小野とは言はじ薄生えけり」と下の句を付け、弔いをした。”
※ある人とは在原業平のことのようだ。


上のような話が巷間に伝わっている。この話は江戸時代には歌人にはよく知られていたようで、天明五年(1785)の飢饉の頃、津軽地方を旅していた菅江真澄という 歌人で“紀行作家”でもある人物が残した『菅江真澄遊覧記1』には、

道をしばらくきて浮田というところへでた。卯の木、床前(西津軽郡森田村)という村の小道をわけてくると、雪が消え残っているように、草むらに人の白骨がたくさん乱れ散っていた。あるいは、うず高くつみ重なっている。頭骨などの転がっている穴ごとに、薄や女郎花のおいでているさまは、見る心持がしない。「あなめあなめ」とひとりごとをいった…

※この白骨は天明三年から四年にかけ餓死し行き倒れた者の屍だと地元の者が教えてくれた。私事で恐縮ですが、50余年前に木造から鰺ヶ沢に向って五能線沿いに歩いたことがあります。田んぼと砂山の続くところでした。真澄の文を読んでからは、ススキを見ると つい「あなめあなめ(穴目穴目)」と呪文のように口ずさんでしまいます。


深草の少将宝篋印塔(深草の少将は小町にぞっこん?)

深草の少将は小町に恋心を抱き百夜通いをしたそうな。それが成就する前日に伊豆に配流され、その地で亡くなったとか…。彼の菩提を弔ったのがこれ?


小野皇太后宮の供養塔


「平家物語」にある補陀洛寺(小町寺)

『平家物語』最後の章に「大原御幸」がある。後白河法皇が都を朝早く立って大原寂光院へ向う途中に補陀洛寺(小町寺)に立寄る。その一節は…

" 鞍馬どをり(通り)の御幸なれば、彼の清原の深養父(ふかやぶ)が補陀洛寺、小野皇太后宮の旧跡を叡覧あって、それよりお輿にめさりけり。"

清原深養父とは清少納言の祖先なんだとか、小町寺とは深い縁があるようだ。さすがは「大天狗」お供には偉いお公家さんや北面武士、数十人がいたみたい。輿に乗り大原まで行ったように書いてあるけど、日帰りではとうてい無理だと思うけどね。
すこしだけ墓地内をみてから市原を歩いてみよう。


石仏群

周辺から掘り出された石仏は八百体に上るという。


石塀の上に積み上げられた五輪塔



里を歩くと見馴れないものが…


帰源寺を臨む(ご本尊は平安時代作と伝わる十一面観音立像)

いつの頃からか、家は建替えられた。わたしがこの地に住んでいた数十年前、まさか寺とは思えなかった。奥さんとは、しょっちゅう顔を合わせていたのだけれど(夫君はサラリーマンだったような)。
寺のすぐ裏には、かつて遊んだ鞍馬川がある。


以前ここには長屋門を構えた茅葺屋根の立派な家があったように覚えている。そして江戸時代には、後方の山の麓に儒学者藤原惺窩が住んでいた市原山荘があった。


藤原惺窩・市原山荘の石碑

以前、石碑は山中に建てられていたが、住宅開発によりこの児童公園に移された。わたしの所得では、この地の分譲住宅は購入できなかった。


藤原惺窩の市原山荘

藤原惺窩は徳川家康公に経書の講義をしていたようだ。そして、あの藤原定家の子孫という。
市原山荘の惺窩には次のような話が残っている
夏のことで、惺窩は柿染の単衣を着て、扇を手にして坐してゐた。和泉の守が来たと聞いて、侍童に柴の扉を開かせて、泉州よくこそまゐられた。孫をも連れて来られて、始めて逢ふのが喜ばしい、と聲をかける。和泉守は石の上に跪いて拝謝した。幼い朝茂も、同じやうに庭で辞儀をした。

こゝへ上がられよ、と惺窩が重ねていふ。和泉は朝茂を連れて上がった。惺窩先生は洛北の幽居に在って、甚だ貧しい生活をしてゐられた。お側にゐたのは下部が一人と、童が一人と、婢女が一人とに過ぎなかった。

※上の文は、森銑三氏の「藤原惺窩遺事」より引用。


白い大きな建物は川島織物市原工場。本阿弥光悦の「芸術村」に倣ってこの地につくったとか。美術館とテキスタイルスクールもある。この工場はわたしの黒歴史の一つでもある ^ ^;


かつての市原山荘の上には岩稲荷大明神が鎮座


愛宕灯籠と札入れ


愛宕神社の常夜灯・札入れ
洛北を歩くと愛宕神社の常夜灯・札入れを数多く見かける。
札入れには愛宕神社でいただいたお札を納めて、町内安全を祈っているようだ。(町内会の役員が愛宕山へ登り、お札をいただいてくるのだろう)
札入れの上部には三本の剣のようなものや榊、縄、紙垂をかざってあるものもある。
それでは帰り道、市原駅へ向って歩こう。


大神宮社


大神宮社社殿

叡電出町柳駅から電車に乗り市原駅(この路線はほとんどが無人駅)で下車すると、駅の南東に“大神宮社”という社がある。社殿は建替えられているのか綺麗になっている。次々にお参りに来る人がいた。

かつての鞍馬街道か?



鞍馬川(正面の山は向山、北隣には貴船山がある)


変りゆく市原野
京都駅から北の方角(鞍馬・貴船方面)へ十数キロゆくと市原野という集落(今ではコンビニまであるし!)がある。かつては山間の純農村地帯であったが、いつの頃か山は削られ、田んぼや畑は工場やモダンな住宅地と化してしまった。

かつては亡骸を葬る土地だった市原野
平安の昔にはこの地は鳥辺野や化野、紫野などと同様に 人の亡骸を葬ったところのようだ。その証拠にあちこちから相当数の石仏が掘りだされている。かなり以前には「イ」の形をした送り火が灯されていたところでもある。
相当前のことだが、山中を歩いて火床の痕跡はないかとを探してはみたけど、見つかるのは石仏、石碑、それに茸ばかりであった。向山の山腹にあったのではないかと睨んでいるのだけどね。

いまを遡ること数十年(まだ二十代だった)、町中の生活に疲れて不眠症になり、市原に引っ越した。そして茶室「茶千房」を借りてそこを書庫代わりに使っていたことがある。今その跡地は○○ホームになってしまった。そろそろ私もそこにお世話になってもいい年齢になったのが悲しい。いつの間にか歳をとってしまったわい。


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