【月稿】9回裏2アウト満塁が通じた世界
先日、堂場瞬一の「8年」を読みました。
本作は野球をメインにした群像劇と位置づけられる作品です。
読んでいくとかなり野球の描写が多く、初めの数ページで「…正直、今の10代、20代の若い人にはこの感覚わからんのでは…?」と思ったほどでした。
出版された2000年代初頭はまだ野球というものが一般的な共通概念として成立していたと思います。
今日はそこから、私たちが無意識に持っている共通概念というものについて考えたことを。
昭和55年生まれの女性と野球
私は姉妹育ちなのですが父がある球団のファン(そこまで熱心でもない)で、昭和から平成にかけて育ったので家で野球中継がついていることも多かったです。
多忙な父でしたのでいつも野球がついているテレビではありませんでしたが、ルールなんかはそこで覚えた感じです。
男性はまた違った野球との距離感がありそうですよね。遊びの中で選択されることが多いスポーツだったと思います。女性はその点、上記で挙げたような家庭の中で野球を知る、という感じでした。少なくとも私が子供の頃に遊びであっても野球をやる女子は皆無でしたし。
大人になってからですが、神宮球場に日本シリーズを見に行ったこともあります。傘を持ち上げるダンスもしました(もうどこの球団かおわかりですね笑)
そういった背景があるので、本作への馴染みは悪くありませんでした。
昨年9月に大リーグを舞台にした心理的な成長と旅立ちを描いた芝居の観劇をしたことも、本作を読むにあたり予備知識のように作用していた部分もあるかもしれません。
その上で書きます。
もう野球は一般的共通概念ではなくなってしまったのだろう、と。
時代の流れとひとことで言ってしまえばそれまでですが、それでは寂しい気もしますね。
一文に描かれるゲーム展開が、若い世代にどの程度想像できるのか。
”美しいバッティングフォームをピタリと決めるバッターの、右肩から打ち気が陽炎のように立ち昇る”という描写に込められたその場面の流れが、両者の心情が、その場の空気が、どれだけ伝わるだろうか。
読みながらずっとそんなことを頭の片隅で感じてしまっていました。
野球が「説明不要」だった時代
昭和から平成にかけて、野球は文化というより「前提」でした。テレビをつければ中継が流れ、特別なファンでなくても「ストライク」「ホームラン」「9回裏」といった言葉が持つ緊張感は共有されていました。ルールを細かく知らなくても、今投手が投げた球がスライダーかどうかなんてわからなくても、試合の空気はなんとなく理解できたのです。
野球は多くの日本人にとって、スポーツである前に、共通言語、共通認識だったのだと思います。
「9回裏2アウト満塁」という一文だけで、説明なしにドラマが成立する。誰の頭の中にも、似たような緊張と期待の空気が立ち上る。
読者がすでに世界を知っているからこそ、作品は細かな説明を省き、人物の感情や空気の揺らぎにページを割くことができます。
それは暗喩としても機能していたと思います。
野球小説が成立し、刑事ドラマや学園ドラマが成立したのも、舞台となる世界が共有されていたからだと思います。
共通概念が消えゆく社会
しかしエンターテイメントが豊富になり人々の興味関心が多岐にわたる現在、みんなが同じ前提を共有しているとは言い難くなっています。野球に限らず、テレビ、音楽、芸能、かつて「誰でも知っている」と言えたものは急速に減りました。
瞬間的にあったとしても持続しない。それはつまり世代を越えて「共通認識」「共通概念」として染み渡るほどの力を持たないということ。
この変化は、群衆のあり方も変えたように思えます。
かつての群衆は、同じ瞬間に同じものを見て、同じ感情を共有する存在でした。スタジアムや茶の間で同じプレーに歓声を上げ、同じ敗北にため息をつく。そこには確かな「同時性」がありました。
今も人は集まります。イベントもライブもSNSもあります。けれど、同じ場所にいても同じ文脈を共有しているとは限りません。見ているものも、触れている情報も、心が動くきっかけも、それぞれ異なります。
群衆は存在しているのに、群衆体験は失われつつあるのかもしれません。
それは、一面では社会がより自由になったということでもあります。共通の前提に縛られず、ひとりひとりが好きなものを選び取れる時代になりました。誰もが自分のタイムラインを生きていて、これは確かに豊かさの表れでもあるのかなと思います。
今いる世界はなにを渡し合っているのか
ひとりひとりが「自分」を生きていることがいいことだと心から思える半面、どこかで寂しさが消えないのは何故なのでしょうか。
それは、他人であっても説明なしに同じ空気、前提を共有できる瞬間が確かに存在していたことを、私は知っているからかもしれません。「みんないっしょ」が嬉しいのではないけれど、「細々説明しなくても伝わる心地よさ」を体験する機会は、加速度的に減っていくのだろうと思うと、やはり寂しさを感じます。
では今この世界や群衆は何を手にしているのか。
共通概念は長い時間をかけて醸成されるものですが、もっと即時的で、その場で立ち上がるもの、それが「感情」だと私は思います。今の世界はあまりに速い。この世界のスピードに呼応できるのは「前提」の確認ではなく「共感」です。
「気圧で頭が痛い」と言えば「わかる」「マジそれ」と「共感」が返ってくる。この感覚、みなさんもありますよね。面白い世界です。
例えるならこの変化は、「共通概念を有した大陸」から「瞬間的に共感で繋がる小さな島」への移動。
島はひとつのものごとや出来事で共感しあい、島内部の距離は近い。でも同じ島にいる人が他の島に移動した場合、その島のことはわからない。
そこには翻訳(説明)が必要で、関わるときにはエネルギー(コスト)を要する。これは、共通概念が薄れたことで生じるハレーションのようなものなのかもしれません。
共感で理解し合い感情を渡し合う。今はこのスピード感で社会は動いているのでしょう。
たくさんの島を持つこと
大陸には、説明しなくても通じる心地よさがありました。島には、深くわかり合える濃さがあります。どちらが正しいのかはわかりません。
でももう止めることができない世界の変化を受け入れていくには、自分の中にたくさんの島を持ち、エネルギーをかけることを厭わず、ときどき海を渡ること。相手を知ろうとすること。
かつて「共通概念」「共通認識」と共に大陸で生きてきた私は、隣の小さな島に出かけていくときは手に持っている「前提」を大陸に置いていかねばなりません。
言い換えれば「世代間で異なる常識」を認識する。もう大陸にずっといることはできないのですから、エネルギーをかけコストを払っていくのです。
私がこれをあまり悲観的に見ていないのは(通じないのは寂しいと思うこともありますが)、大陸にあった「前提」に似たものを感じているからかもしれません。
人間同士のやり取りの中では、即時的な感情の応報を繰り返すことで「島の共通概念」が生まれていることがわかります。
結局どうやったって、人と人では関係の構築に「共通概念」が存在しないことはない。そんなちょっと逆説のような気持ちになっています。
変化していく世界を受け入れる
どの年代であれ、人はいつまでも自分の時代にとどまっていられるわけがなく、新しい文化や文脈、常識が生まれ育っていきます。
今回「9回裏2アウト満塁」という緊迫したシーンはどれだけ今の若い人に通じるのかな、とふと考えたところから始まった思考ですが、「共通概念」がなくとも人は関係を構築できるし、それがまた人間の面白さでもあると思います。
自分の持っているもの以外を否定するより、自分の持っているものも相手の持っているものも肯定する方が生きていきやすいですよね。
頭に染み付いた常識を変えることは容易ではないですが、自分を曲げることなく受け入れることはそんなに難しくないと思います。
たくさんの「共通概念」を知っている世代として。
今を生きている人間として。
今が1回表、初球が投げられたところだと思って。
