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昨日の夕飯は忘れても、20年前の歌声は覚えていた

こんにちは、凸凹おばばです。

昔よく聴いた歌を、久しぶりに耳にしたとき、

「あれ? この歌、こんな歌だったかしら」

と思ったことはありませんか。

歌詞もメロディーも変わっていない。

歌のほうは、昔のままです。

変わったのは、どうやら聴いている「わたし」のほうらしいのです。

20年ぶりに聴いた歌

先日、米良美一さんのコンサートへ行きました。

そこで聴いたのが「ヨイトマケの唄」。

米良さんが歌うこの曲を生で聴くのは、約20年ぶりでした。

20年前にも、心に響いた記憶があります。

けれど、今回の歌は、同じ歌とは思えないほど違って聞こえました。

米良さんの歌声に年月が重なったからでしょうか。

それとも、わたしが20年分、人生のあれこれを背負ったからでしょうか。

たぶん、どちらもあるのでしょう。

20年あれば、いろいろなことがあります。

うれしかったこと。

後悔していること。

そのときには分からなかったけれど、年齢を重ねてようやく気づいたこと。

それらが、歌声に呼び起こされるように、次々と浮かんできました。

歌が記憶の引き出しを開けた

不思議なものです。

昨日の夕飯は、すぐには思い出せません。

「昨日は何を食べたっけ?」

と夫に聞いても、

「何やったかな」

と、似た者夫婦で顔を見合わせるだけ。

二人分の記憶を足しても、答えが出ない日があります(笑)。

ところが、歌を聴いた途端、何十年も前の風景が鮮やかによみがえりました。

その場の空気や、遠くから見た景色。

当時の自分がどんな気持ちだったのかまで、急に胸の中へ戻ってきたのです。

わたしの記憶の引き出しは、どうやら整理整頓が苦手なようです。

昨日の出来事は奥へ押し込み、何十年も前の思い出を、一番手前に置いている。

持ち主に似て、なかなかの凸凹ぶりです。

同じ歌でも、届く場所が違う

若い頃には、分かったつもりで聴いていた歌でした。

けれど、親になり、祖母になり、両親を見送った今、歌が届く場所が変わりました。

以前は歌詞を頭で理解していたのかもしれません。

今回は、歌詞が胸の奥に直接入ってきたように感じました。

年を重ねると、できなくなることも増えます。

名前がすぐに出てこなかったり、何を取りに来たのか忘れたり。

冷蔵庫を開けてから、

「さて、わたしは何の用でここへ?」

と考えることもあります。

それでも、昔は見えなかった人の思いや愛情が、少しずつ見えるようになる。

年を取るのも、悪いことばかりではありません。

膝や腰には少々不都合が出ても、心の受信感度は上がっているのかもしれません。

よみがえった両親の姿

「ヨイトマケの唄」を聴きながら、わたしの中には、子どもの頃に見た両親の姿が浮かんでいました。

あの頃のわたしには分からなかった、両親の苦労。

親になり、祖母になり、両親を見送った今になって、ようやく気づいたことがあります。

人は、そのときには見えなかったものを、何十年もたってから受け取ることがあるのですね。

歌を聴きながら、今はもう伝えることのできない「ごめんね」と「ありがとう」が、胸の中に浮かんできました。

このコンサートのことや、歌からよみがえった両親との思い出は、ブログ「いちごのシニア通信局」にも書いています。

もし心に留まるものがありましたら、こちらも読んでいただけるとうれしいです。

歌は、昔の記憶を連れてきます。

そして同じ歌でも、聴く年齢によって、心に届く場所が変わるのですね。

昨日の夕飯は忘れても、20年前の歌声は覚えている。

人間の記憶とは、なんとも不思議で、ありがたいものです。

さて、昨日の夕飯は……。

やっぱり、まだ思い出せません(笑)。

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