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あの人の、見えない余白を埋めないこと#43

人には、
目に見える部分と
見えない部分がある。

表情や雰囲気から、
あの人の内面を“推測”することはできても、
それはあくまでも推測の域を出ない。

光があれば影ができるように、
見えない部分は必ず生まれるもの。

そして、その見えない部分に光を当てると、
また別のところに新しい影ができる。


見えている部分は、
直感的に素直に受け取れる。

でも、見えない部分は、
紛れもなく存在しているはずなのに、
目には全く見えない。

「あの人はどう思っているのだろう」

「あのときの言葉は、
どういう意味だったのだろう」

そんなふうに考えて、
自分なりに腑に落ちる答えを探す。

そして、
きっとこういうことを考えていたんだ、
きっと、こういう意味だ。

そうやって自分の中で答えを見つけ、
腑に落ちる。

でも、どんなに腑に落ちても、
それは本当の答えではない。

私が一番怖いなと思うのは、
自分の中で見つけた答えの方を、
本物だと思い込んでしまうこと。

例え本人に直接聞いたとしても、
それがすべてなのかはわからない。

光を当てても、
完全に影が消えることはない。

それでも人は探し求めてしまう。

すべての影に光を当てようとしてしまう。

でも、影だった部分に光を当てると、
明るかった部分が影になる。

見えていたものが、見えなくなる。


見えない部分の答えを知りたくなることは
自然なことだと思う。

“あの人”へ少しでも近づこうとする思いから、見えない余白を埋めたくなると思うから。

余白の中に自分の思い描く“あの人”をびっちりと詰めたら、余白のないあの人(仮)が完成する。

でもそれは本当に“あの人”なのだろうか?

もしも今、目の前にいる“あの人”を
歪みなく見たいのなら、
見えない余白は余白として置いておく。

それも一つの方法だと、
私は思う。

見えない余白も含めて、
私から見えている“あの人”。

見えない余白を埋めないで、
“余白”のまま置いておくことで初めて、
歪みのない“あの人”が見えてくるのかもしれない。

どんなに見ようとしても、
見えた気になったとしても、
あの人の全てが見えることはない。

それでも、いずれ時の流れとともに
光と影の向きが変わるように、

今は影になっている部分にも
自然と光が当たる。

そうやって
見えなかった部分も、
ほんの少しだけ
見えるようになる時がくると思うから。


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