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【#1】「ちゃんとしなきゃ」、を手放せなかった自分が仏教に救われた話

●「ちゃんとしなきゃ」という感覚

いつしかこの言葉が自分自身を縛り、日常が窮屈になっていることに気付きました。

仕事でも、家庭でも、人との関係でも、「ちゃんとしている」自分でいなければいけない、という感覚。

周りから見れば、それなりにうまくやっているように見えていたと思います。

大きな不満があるわけでもない。

それでも、心のどこかでずっと「このままでいいのかな?」というモヤモヤした違和感が消えませんでした。

理由もなく脱力感にかられたり、大きなため息をついたり、無意識に独り言が口から出ることもありました。

そして振り返ると、「ちゃんとしなきゃ」という気持ちの根っこには、自分自身がどうしたいというよりは、「周りからどう見られるか」という不安があったように思います。

こんな発言をしたら、どう思われるだろう。
こんな行動をしたら、評価を下げられないだろうか。

自分の判断軸が、いつの間にか「自分の納得」ではなく、「他者の視線」になっていました。

人から見られている、だから「ちゃんとしなきゃ」と思うことが、自分を追い込むスイッチになっていて、必要以上に背負い込んでいたのかもしれません。

「ちゃんとしなきゃ」を手放そうと決めたわけではありませんが、こんな窮屈な自分を少しだけ俯瞰して、外から眺められるようになった考え方があります。

ここから先はそのきっかけになった仏教の教えと、一冊の本について書いていこうと思います。


●はじめに:簡単な自己紹介

少しだけ、自己紹介をさせてください。

僕は昔から人の気持ちの変化に敏感な方だと思います。
声のトーンや表情、場の空気が少し変わるだけで、「あ、今なにか違ったな」と感じてしまうタイプ。

その感覚は、人と関わる上では強みでもあります。

相手が言葉にしない違和感に気づけたり、先回りして場を整えたり、フォローすることができたからです。

ただ同時に、その敏感さは「周りの目」を過剰に気にする癖にもつながっていました。

この自分の性質とも言える特徴を根付かせたのが、高校までの海外生活でした。

言葉の通じない異国で手振り身振りを交えながらコミュニケーションを図る中で、相手の所作や表情で敏感に場の空気を感じ取ることが、自然と身についていったように思います。

誰かが少し不機嫌そうに見えると、自分の言動が原因だったのではないかと考えてしまう。

だからこそ、空気を壊さないように、期待を裏切らないように、無意識のうちに「ちゃんとしなきゃ」と自分に言い聞かせていたのだと思います。

もし、周りの変化に気づきやすい人ほど、同じような息苦しさを抱えやすいのだとしたら、それは決して弱さではなく、本人の「優しさ」という性質なのかもなと考えています。

●限界を超えた瞬間

今振り返ると、自分が限界を超えたきっかけは、仕事だったのだと思います。

ちょうど役職が上がり、マネジメント色の強いポジションに昇格したことで、仕事の内容が大きく変わりました。

これまでとは違う役割。
周囲からの期待。
そして、新しい立ち位置。

その狭間で、自分の気持ちをどう整理すればいいのか、混乱して分からなくなっていったのだと思います。

前に進まない案件は自分の力不足だと思い、多くを抱え込み負のスパイラルに陥っていました。

そんな毎日が続き、夜、布団に入ってもなかなか眠れない。
理由もなく脱力感に襲われる。

気持ちがどんどん削られていくのがわかりました。

それでも翌日になれば、何事もなかったかのように振る舞っていました。

「期待に応えなければ」
「与えられた役割を、ちゃんとまっとうしなければ」

そんな思いが強くなるほど、
気持ちは空回りして仕事にも集中することが出来なくなっていました。

日々悩みながらも、自分なりに心を整えてきたつもりでした。

ただ今思えば、それは整えていたというより、
誤魔化し続けていただけだったのかもしれません。

そしてある時、もうそれ以上、誤魔化せなくなりました。

あれが、自分にとっての限界だったのだと思います。

●心を解きほぐしてくれた考えとの出会い

限界を迎えたあと、「これからどうすればいいのかな」という掴みどころのない問いだけが、ぽっかりと自分の中に残りました。

頑張れなくなった自分を、どう扱えばいいのか分からずもがいていたのだと思います。

そんな状態の自分を一番身近で見ていた家族は、特別扱いすることもなくかといって突き放すこともなく、これまでと変わらない距離感で受け入れてくれました。

無理に励まされることもなければ、「こうした方がいい」と答えを渡されることもない。

ただ、「ちゃんとしなくてもここにいていい」
と思える場所が、そこにありました。

今思えば、仏教の教えをすんなりと受け取ることができたのは、こうした「安心できる土台」が先にあったからだと思っています。

追い詰められた状態では、どんな正しい言葉も、ただの理想論に聞こえてしまいます。

でも、すでに誰かに無条件に受け入れられているという感覚があったからこそ、仏教の言葉は、自分を変えるための教えではなく、自分を緩めて整えるための視点なんだと違和感なく取り込むことが出来たのだと思います。

●心を整えてくれた仏教の教え

昔から神社や仏閣に参拝することが好きでした。(自分なりに好きな理由を以下の記事で書いているので、参考までにリンクを添付します。)

仏様が大きな包容力で「大丈夫、大丈夫」と後押ししてくれるような感覚があって、境内にいるだけで、なんとなく心が落ち着く。

そんな漠然とした思いの中、少しすがるような気持ちもあり仏教に関する書籍を何冊か手に取るようになりました。

その中で、自分の中にすっと入ってきたのが、

「諸行無常」

という考え方でした。

すべてのものは、移り変わっていく。
状況も、立場も、感情も、同じ状態のまま留まり続けるものはない。

それは、どこかで分かっていたはずのことなのに、これまでの自分は、周りからの期待に応えられる自分でいよう、変わらない自分でいようと、必死に踏ん張っていたのだと思います。

「ちゃんとしなきゃ」という思いも、よく考えてみれば、変わらない評価を保ち続けようとする気持ちでした。

でも、変わらないものなど本当はない。

そう思えたとき、これまで握りしめていた力が、少しだけ抜けた気がしました。

すべてが移り変わっていくのだとしたら、何かに執着しすぎず、手放すことも大切なのだと思えるようになった。

「捨ててこそ」

という言葉や、両手にたくさんのものを握っていると、新しい何かを受け取れない、という

「放てば手に満てり」

の考え方も、そんな感覚に自然と重なっていきました。

こうした仏教の言葉が、無理に前向きにさせるのではなく、気持ちを少しずつ整えてくれたのだと思います。

●一日一生という歩み方

諸行無常や、手放すという考え方に触れる中で、自分の中に散らばっていた感覚が、ひとつの言葉にまとまったように感じたことがありました。

それが、「一日一生」という言葉でした。

天台宗の僧侶である酒井雄哉さんの書籍で私はこの言葉に出会いました。

千日回峰行を二度満行し、大阿闍梨と呼ばれるほどの厳しい修行を成し遂げた方ですが、その経歴とは裏腹に、言葉は驚くほどシンプルでした。

私のバイブルとも言える書籍

「一日一生」という言葉を目にした時、
今日という一日をこれ以上重くしなくていいんだよ、
決められたことでも淡々と毎日を送ることだって立派な人生なんだ、
変に自分を大きく見せなくてもいいんだ、
そんなメッセージのように響きました。

先の評価を気にしすぎず、変わらない自分でいようと踏ん張らず、今日を終えられれば、それでいい。

そんな歩き方を、静かに肯定してくれる言葉だったのだと思います。

それ以来、うまくいかない日があっても、
「今日は今日で終わらせよう」と、自分に言えるようになりました。

一生懸命とは、無理をすることではなく、今この一日から逃げないこと。

そう考えられるようになったことが、自分にとっては、大きな変化でした。

不思議と先のことを考え続けていた頭が静かになり、明日どうなるか、将来どうなるのか、ちゃんとしなくちゃ、そうした問いを、いったん脇に置いてもいいんだなと思うことが出来た気がします。

他人からの評価や役割にしがみついていた状態は、
今思えば、一種の「手放せなくなったもの」だったのだと思います。

それを持ち続けたまま、ちゃんとし続けようとすれば、いつか心が先に悲鳴を上げるのは、無理もないことだったのかもなと「一日一生」の言葉に触れて改めて気付かされました。

●最後に

今でも、気を抜くと「ちゃんとしなきゃ」という気持ちが顔を出すこともあります。

でも以前と違うのは、そんな自分に気づいたとき、「今日は今日で終わらせよう」と、立ち止まれるようになったことです。

仏教の教えは、自分を変えるためのものではなく、迷ったときに戻ってこられる場所のようなもの。

これからもきっと、うまくいかない日や、気持ちがざわつく日はあると思います。

それでも、今日という一日を、これ以上責めずに終えられたら、それで十分なのかもしれません。


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