株式市場の悪意
需給とは、市場用語に翻訳された悪意である
株式市場について語る時、よく使われる言葉がある。
「需給」
よく聞く便利な言葉だ。
株価が理屈に合わない動きをした時も、好決算で下がった時も、割安株がいつまでも放置される時も、大抵この一言で説明される。
「まあ、需給ですね」
まあ、うん。
そう言われる。それで会話が終わる。
私はこの言葉に強い違和感を覚えている。
需給とは、本当にそんなに中立的なものなのだろうか。
株式市場における需給とは、要するに人間の行動である。
売りたい人がいる。
買いたい人がいる。
逃げたい人がいる。
高く売り抜けたい人がいる。
安く拾いたい人がいる。
誰かに高値を掴ませたい人がいる。
誰かが耐えきれずに投げる瞬間を待っている人がいる。
それらの利害がぶつかり合った結果を、私たちは「需給」と呼んでいる。
しかし、その中身は決して無機質ではない。
株式市場には『悪意』がある。
気のせいではない。
明確に、確実に存在している。
もちろん、市場そのものが一人の人間のように意識を持っている、という意味ではない。
市場に人格はない。
しかし、市場に参加している人間には意思がある。
その中には、明確に他人の金を奪おうとする意思がある。
高値で売り抜けたい。
損切りさせて安く拾いたい。
期待を煽って出口にしたい。
信用買いを焼きたい。
売り方を踏ませたい。
特に短期の相場では、こうした意思が露骨に現れる。
誰かの利益は誰かの損失である。
誰かがうまく逃げたということは、誰かが高値を掴んだということだ。
誰かが底値で拾えたということは、誰かが限界まで追い込まれて投げたということでもある。
「需給が悪い」
この言葉の裏側は生々しい。
つまるところ、このようなものだ。
信用買いが積み上がっている。
損切りラインが見えている。
決算期待で買った人が多い。
材料で飛びついた短期勢が多い。
上値で捕まった人が多い。
こうした状況で株価が下に走る時、そこで起きているのは単なる自然現象ではない。
苦しくなった人間が売らされている。
それを待っていた人間がいる。
投げたところを拾う人間がいる。
崩れたチャートを見てさらに売る人間がいる。
総じて、その最後の言葉は、
「需給が悪かった」
言葉を綺麗にしすぎていると思う。
その需給の中には、他人の苦しさを利益に変えようとする意思が含まれている。
「このまま一生下げ続けるけど、どうする?」
「今から倒産に向かわせるけど?」
もっとハッキリ言うと、こう。
「金を奪って奴隷にしてやる」
需給とは、買いと売りのバランスである。
この説明は正しい。
だが、不十分だ。
需給とは、人間の欲望と恐怖の集積である。
とどのつまり、お前の金を俺に寄越せという敵意である。
その背後には、『札束』と『仕組み』。
情報という名の優位点を武器に、喉元にナイフを突きつけ、脅迫する者がいる。
圧倒的な物量でそれを為す、それができる腕力があると言っている。
株式市場とは、その悪意を理解したうえで、それでもなお参加する場所なのだと思う。
それを悪意と定義できないならば、この世に悪意は存在しない。
もちろん、すべての市場参加者が悪人だと言いたいわけではない。
長期投資家もいる。
企業を応援している人もいる。
真面目に分析している人もいる。
市場に流動性を提供している人もいる。
だが、それでも市場全体を見れば、そこには明確に奪い合いの構造がある。
自分の利益を追求するということは、時に他人の損失を必要とするということでもある。
誰かが強気にならなければ天井は作れない。
誰かが絶望しなければ底は作れない。
誰かが間違えなければ、大きく儲けることはできない。
この構造を、ただ「需給」と呼ぶのは簡単だ。
しかし実際にそこで起きていることは、もっと露骨だ。
金を奪い合っている。
相手の判断ミスを待っている。
相手の恐怖を利用している。
相手の欲望を利用している。
相手の限界を探っている。
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