パンで涙を拭って 第九話 #創作大賞2025 #恋愛賞部門
「橘。この企画書の“目玉”――本当に、見直す気はないのか?」
山崎部長が眉間に皺を寄せ、低く問いかける。
「はい。ここだけは、どうしても譲れません」
即答すると、部長は疲れたようにため息をつき、手で顔を覆った。
入社以来、ずっと目をかけてくれた人だ。できるなら、困らせたくはない。
けれど、この“主軸”だけは、退くわけにはいかなかった。
「伝統文化を軸に、海外市場へアプローチ。
SNSで影響力のある若手を起用した和装展示。
動画配信に特化したCM制作……どれも完成度は高い。これだけでも十分、勝負できる」
一拍置いて、部長は声を落とす。
「だが、“技術を無償で開示する”というのを主軸に据えるのはリスクが高い。
製造工程についての秘匿性や特許への意識が強い燈衣にとって、撮影の許可だけでも異例の歩み寄りだ。
それ以上を求めるのは、過剰な要求だろう」
「それに、俺たちの仕事は“今あるもの”をどう魅せるかだ。
経営の深部に口を出すような提案は本来タブーだと、分かっているよな」
正論だ。いつもの私なら、即座に同意していただろう。
けれど、今回ばかりは――違った。
「その点は、承知しています。
だからこそ、この主軸が必要なんです。むしろ今の燈衣が――本当に伝えたがっているのは、“受け継ぐ覚悟”だと、私は思っています」
「……何?」
垂れた目元がわずかに鋭さを帯びる。
怪訝さの奥に、興味の色がにじんでいた。
「燈衣に限らず、伝統工芸が衰退している最大の要因は“後継者不足”です。
長年磨いてきた技術が、自分の代で途絶える――
それは、製品が売れないこと以上に、深い喪失なのではないでしょうか」
「もちろん、秘匿によって守られてきた価値もある。
ですが、その姿勢こそが、今の閉塞感を生んでいるのも事実です」
思い出すのは、
古株職人たちの沈黙に宿る諦めの色。
そして――昴君が見せた、あの眩しい笑顔。
「勘違いかもしれません。
けれど、プロとして私は判断しました。
今、燈衣が本当に必要としているのは、“技術を残したい”というその声を、外へ届けることです」
「だからこそ、この企画が必要なんです。
一生をかけて磨き上げた技を、次の世代へとつなぐために。
“自分の代で終わる”という静かな諦めに、風穴を開けるために」
「そうすれば、《燈衣》は、ただの老舗ではなく、
“意志を継ぐ企業”として業界の象徴になれる。
そして、それを実現する力が、この会社にはあると――私は信じています」
私はひと息ついてから、頭を下げるように言った。
「だから、お願いです。
ここまで来て別の人に任せる訳にはいかない。
もう一度、私をアカウントマネージャーに戻してください」
言い終えた瞬間、部長の口元がわずかに持ち上がる。
「ずいぶん熱く語るじゃないか。
いつものように数字で押すんじゃなくて、感情論で来るとはな」
「もともと、“いろいろ”理不尽な案件でしたから。
だったら、いつもと逆の手で勝負してやろうって、開き直っただけです」
少し愚痴を混ぜた私に、部長はクスッと笑う。
「そう言うなよ。優秀な若手を何人も付けたつもりだ」
――やはり。佐々木君たちの配置は、この人の采配だったのか。
「実を言うと、社内では“お前に続けて任せたい”って声が多いんだ。
まあ……やりたがる奴がいないってのも本音だけどな」
「ただし問題は、クライアント側の実質責任者――静子さんだ。
激怒している彼女を納得させられない限り、こちらとしても、お前を再任させて摩擦を生むわけにはいかない」
やはり、最後の壁は彼女か。
だが、それに備えての布石は、すでに打ってある。
「現在、社長の和彦さんが、私から静子さんへ直接説明する機会を調整してくれています。
その時に、何としてでも説得してみせるつもりです」
そう――
実はこの企画を提出する前、私は一足先に、和彦さんへだけ直接会って説明を終えていたのだ。
*
夜、従業員が帰ったあとの燈衣本社内。
通された応接間の中は、和紙張りのランプがほのかに灯り、静かな木の香りが空気に漂っている。
重厚な欅のテーブルを挟んで向かい合うのは、私と和彦さん。
使い込まれた茶色の革張りソファに身を預けたまま、彼は黙って印刷された企画書に目を通していた。
やがて、書類を静かに置き、掠れた声が漏れる。
「……橘さん。これは、さすがに……」
いつも穏やかに笑っているその顔に、曇りが差していた。
「言いたいことは分かっています。ですが、これが私の考える最良のPR案です」
「……このメイン部分、理屈は分かります。だが、“技術を無償で提供する”というのは――私たちが培ってきたものを、安売りすることになりかねません」
その声には、わずかに怒気がにじんでいた。
きっと私の案が、和彦さんの中にある“職人としての矜持”に触れてしまったのだろう。
でも――私にも、譲れないものがある。
燈衣が本物だからこそ、私も覚悟を決めた。
いつものPRノウハウを捨ててでも、知恵を絞り抜いた企画なのだ。
背筋を伸ばし、彼の目をまっすぐに見つめる。
私の矜持を、ここで伝えるために。
「和彦さん。今回、貴方が本当に求めているのは――
燈衣の“売上を伸ばす”ことですか?
それとも、“名を広げる”ことですか?」
そう問い終えると同時に、胸の鼓動がひとつ跳ねるのを感じた。
沈黙が響く。欅のテーブル越しに、息遣いまで聴こえるように。
やがて、彼は眉間に皺を寄せながら、口を開く。
その声は、私の問いかけよりもずっと静かで、しかし確かな重みを帯びていた。
「......以前、私が燈衣の事を“兄弟子”だと表現したのを、覚えていますか」
「はい。車内での会話で、お聞かせ頂きました」
指先をさすりながら、和彦さんはどこか寂しそうに唇を噛んだ。
「私は、燈衣という“兄弟子”の名に、絶対の信頼と自信を持っています。だから、世間が知ってさえくれればお客様達はまた振り向いて貰える筈だと、そう思っていました」
「しかし、その考えは間違っていた。全盛期とは比べ物にならないほど客足が遠のき、時代遅れと揶揄されている現状に、きっとただ、目を背けていただけです」
ぎゅっ、ときつく拳を握り締める和彦さん。
前を向いた眼差しには、強い決意があった。
「弟弟子として、兄に頼るのはもう終わりにします。
今の私は――曲がりなりにもこの会社の社長ですから。
枯れかけた名を守るより、新しい名を起こすことが、私の責任です」
「……燈衣が生まれ変わるために。
愛すべき兄の介錯は、この手でやります」
そう言い終え、ふっと我に返ったように拳をほどくと、和彦さんは小さな照れ笑いを浮かべ、首筋をかいた。
「この年になって“独り立ち”の決意を語るとは……まったく、恥ずかしい話ですね」
「いえ、そんなこと……」
少し前の私なら、もしかすると和彦さんの決断を“その程度”のものだと、どこかで軽んじていたかもしれない。
けれど今は違う。朝美と出会って得た価値観、そして燈衣の現場に触れた今――それが、どれほどの勇気を要することか理解している。
先代たちが築いてきた伝統と歴史を、自分の手で壊すという決断。
しかも、それをしたからといって、必ず再生できる保証などどこにもない。
下手をすれば、燈衣を汚した張本人として、社員にも顧客にも、裏切り者として責められるかもしれない。
それでも和彦さんは、安寧を捨て、賭けに出たのだ。
たとえ崖っぷちとはいえ、大切に抱えてきたものを手放して前に進むというのは、誰にでもできることではない。
――この人は、間違いなく“社長”の器を持った人だ。
そして、最後に残された――ただひとつの難題。
「静子さんには、なんとご説明されるおつもりですか?」
おそらく、すんなりと受け入れてくれることはない。
だが、彼女の理解を得なければ、この企画が前に進む事は無いだろう。
「妻には、私から説明します。――いざとなれば、経営から退いてもらうことも視野に入れて」
即座に、私はそれを否定した。
「いえ、和彦さん。それは悪手です。
静子さんは、先代の血を引く“燈衣”そのもののような存在。
そんな彼女を退かせれば、社内は確実に分裂します。
そうなっては、とても『再生』どころの話ではありません」
「……では、どうすれば?
妻の気持ちは私以上に強く、複雑です。
説得は、ほぼ不可能でしょう」
今度は、私が拳を握る番だった。
クライアントに理解を得る。それは、私の仕事だ。
ならば、責任を持ってやり遂げなければならない。
第一回目の説明以降、静子さんにはずっと避けられたままだ。
言いっぱなしで背を向けられたまま――それで終わるなんて、どうしても納得できない。
「和彦さん、おそらくこのままいけば、私はクライアントからの反感を買った社員として今の立場から下されるでしょう」
「和彦さんにはそのタイミングで、私と奥様が一対一で話せる場を設けて頂けないでしょうか」
握り締めた手の中に、爪が食い込む。
決意が逃げないよう、より深く力を込めて私は言った。
「必ず、説得してみせます」
*
山崎部長が、ゆっくりと椅子にもたれかかる。
「……なるほどな」
声には、どこか楽しげな響きがあった。
「この状況、ちゃんと準備してきた上での勝負ってわけか」
私は黙ってうなずく。
部長は椅子を離れ、スーツの襟を整えながら背筋を伸ばした。
「なら、思い切りやってこい。お前の処遇は、それまで何とか保留にしておいてやる」
「ありがとうございます」
深く頭を下げ、そのまま部屋を出る。
自席へ戻る途中、社用スマホが震えた。
通知に目をやると――差出人は、まさかの静子さん本人だった。
『PR内容のご説明の件、今週土曜日は如何でしょうか。拙宅の茶室にてお時間取れます。ご検討のほど、お願い申し上げます』
思わず、歩みが止まる。
すぐさま返信を打ち込んだ。
『ありがとうございます。是非、資料を持って伺わせていただきます。貴重なお時間、心より感謝申し上げます』
送信ボタンを押すと、私は歩幅を少し広げてチームの元へ向かった。
デスク前に戻ると、部下たちが一斉にこちらを振り返る。
佐々木君が真っ先に駆け寄ってきた。
「橘さん……部長とは、どうでした? 本当に、プロジェクトから外されるんじゃ……」
不安の色を滲ませたその顔に、私はひとつ息を吐く。
そして、さっと髪をかき上げて笑った。
「何言ってんの。
来週から本気出すわよ。うだうだ言ってないで、準備!」
佐々木君の顔に安堵の笑みが広がる。
「はいっ」と返事が響き、チームが再び動き出す。
――待たせてしまって、ごめん。
ようやく、ちゃんと“前に進める”。
土曜日が、待ち遠しくてたまらなかった。
