パンで涙を拭って 第十一話 #創作大賞2025 #恋愛小説部門
澄んだ風とともに、その姿が目に入った。
彼女が纏っていたのは、薄桜色の訪問着だった。
白い肌をふんわりと引き立て、若い瑞々しさが一層際立っている。
裾にのみあしらわれた流水の紋様が、静かな動きを添え、それと地続きになるように、白地に銀の亀甲文様を描いた帯袋が、見事な合わせだ。
帯締めは薄灰。差し色にはならないが、華やかな着物の装いに対し、控えめに一歩退いたその存在が、むしろ全体の輪郭を引き締めている。
髪は、低くまとめた洋風の“夜会巻き”
本来この場にはそぐわない髪型かもしれない。
だがそれは、現代の女性が持つ品位を静かに主張しているようで――何も咎める言葉が、見つからなかった。
彼女――橘さんは、客付けに座布団がないことに目を止めた。
しかし気にした様子は一切なく、むしろほほ笑みを浮かべながら、その場へ静かに腰を下ろす。
手にしていた小さな紙包みを脇へ置き、背筋を正すと、茶碗へそっと視線を落とした。
「お招きに、感謝いたします」
礼に則った一礼。
その瞬間、この“茶室”という空間全体が、彼女の引き立て役へと変わった。
そしてゆっくりと紙包みを解き、一輪の紅梅を取り出す。
「よろしければ、置かせていただけますか」
その問いかけに、思わず気配が乱れた。
私の沈黙を“許し”と受け取ったのか、彼女は膝元の咲ききらぬ椿の隣へ、紅梅をそっと添える。
「……春が、すぐそこまで来ていますので」
ほんのわずかのことだった。だが、私は目を伏せてしまった。
不意を突かれたのだ。まさか、ここまで演出してくるとは。
咲かぬ椿に込めた、沈黙の意思。
それに寄り添うように咲き誇る一輪。
しかも選ばれたのは、冬の寒さのなか最も早く香り立つ花――梅。
その意味に、気づかぬはずがない。
対話の願いを、静かに、それでいて強く訴える手法。
華美すぎず凛とした花びらが、この侘び寂びの空間に溶け込み、
まるでそれを待っていたかのように、茶室は“完成”してしまった。
私は炉の前で一礼し、湯を汲んだ。
柄杓の水音が、わずかに跳ねる――普段なら決して起こらぬ誤差。
……いけない。
視界の端で揺れる、あの紅梅のせいだ。
あまりに穏やかで、あまりに強いその存在に、思わず意思が取られてしまう。
蓋置にそっと手を添える。
“語らぬものたち”に託したはずの思いが、震える指先に伝わり、また微かな音を立てた。
「……どうぞ」
差し出した茶は、苦くも甘くもない。ただ、それがどこまでも澄んでいて、こちらの心ばかりが騒いでいた。
橘さんは、静かに一礼して茶碗を取り上げる。
「結構なお点前でございます」
礼儀に、礼儀が返る。
そして静寂が、私たちを包んだ。
無言の決意を込めたこの部屋は、彼女の装いひとつで覆されている。
語るべきものは、もはや何ひとつ残されていなかった。
その静けさに、私は耐えかね、
形式に逃げるよう二服目へと手を伸ばそうとした――その時。
外で、獅子脅しが「コーン」と鳴る。
その音が、掛け軸の「無一物(むいちもつ)」を、わずかに揺らしたような気がした。
彼女は、すでに答えを示している。
それに気圧され、点前を崩した時点で、勝負は決していたのだ。
火の気すら薄れていく室内で、手を膝に置き、表情を崩す。
「……私の負け」
思いもよらなかったのか、橘さんが驚いたようにこちらを見る。
私はほんの少しだけ姿勢を崩し、場の空気を和らげるように微笑んだ。
「こちらの意地悪を、これほど見事に返されてしまっては……面目丸つぶれですね」
「い、いえ……そんなつもりでは……」
慌てる彼女に、軽く首を振って「気にしないで」と笑みを向ける。
「その服装と、紅梅の趣向は――あなたのご教養から?」
「はい……と言いたいところですが、実は友人に助けてもらいました」
そう言って、恥ずかしそうに頬を緩める橘さん。
「よいご友人をお持ちですね」
「ええ。私にはもったいないくらいの、素晴らしい女性です」
ふわりと緊張が解け、赤らんだ頬をこちらに向けながら、彼女は照れくさそうに、可愛らしくそう言った。
*
あの、朝美と作戦を練った夜。
私たちは電話越しに、ずっと難しい顔をしていた。
「そもそもなんなのよ。茶室でビジネスの話がタブーって」
「知ってる人しか知らない、“マナーの世界”ではありますけどね。
でも――その場所をあえて指定してくるってことは、
相手がそれを尊重する意思があるかどうかを試してる、ってことなんじゃないでしょうか」
朝美の説明によれば、
茶の湯の席では“一期一会”の精神が何より重んじられるという。
また“非日常”を尊ぶ空間ゆえ、利害関係や現実の喧騒を持ち込むのは無粋とされているのだ。
だからもし、いつものように勇足で乗り込めば――
私はその世界を荒らす“無礼者”として、相手にされなくとも文句は言えない。
……なんともまぁ、静子さんらしい。
古典的で、効果的な罠だと思った。
「説明することすらダメなら、もう八方塞がりじゃない」
投げ出すように椅子に身を預け、私は天井を見上げた。
「交渉を持ちかけた時点で、“負け”ですからね」
「……いっそさ、全部無視して企画書を広げて説明しちゃおっか。
熱意で押せば、案外なんとかなるかも」
お互いに、ふっと笑いがこぼれた。
やけになっている自覚はあった。
でもそれでも――こうして話すことで、少しだけ救われていた。
「それにしても、よくそんなこと知ってたよね、朝美」
「た、たまたまです。その……通ってた学校で茶道の授業があっただけで」
「ふぅん……」
私は唇に手を当てながら、小さく相槌を打った。
私の通っていた学校にも茶道部はあったが、授業で習った記憶はない。
わざわざそんなことを教える学校というのは、もしかして――彼女は私立通いだったのだろうか。
「貴女、もしかして……いいところのお嬢さん?」
「そんなこと、ありませんよ。ほんとに、普通の学校でした」
少し慌てたように笑う朝美。
話を逸らすような口ぶりだった。何か、触れてほしくない事情でもあるのだろうか。
たしか、家族との仲は希薄だと言っていた気がする。
それ以上は詮索しなかった。
私にも、身内のことで語りたくない過去はある。
そっと、話を戻す。
「サイトでヒントを探しても、“茶室でビジネス交渉はタブー”ばっかり。そんなことは知ってるのよ」
「“態度で誠意を伝えましょう”……と書かれていても、それはあくまで最低限の礼儀。
評価されるものではありませんからね」
同じところを、延々とぐるぐる回っているような感覚だった。
こういう“正解のない”議論は、あまり好きじゃない。
でも、どうにかしなければ、これまで積み上げてきた努力が、すべて水の泡になる。
「もう、服の生地に企画書全部プリントして着て行こうかな。喋れないなら“これ読んで”って指差してさ」
自分でも、らしくない発想だとわかっている。
でも、口に出してしまった。
苦し紛れの冗談に、自分で嫌気がさす。
「……ごめん。くだらないことばっかり言って」
私の謝罪に、朝美はむしろ食い気味に返した。
「いえ! さすがですよ、瑞稀さん。それです。それしかありません」
「えっ……ちょっと本気? 今の、冗談だったんだけど」
「いえ、本気です」
彼女の声が一段明るくなり、勢いづく。
「なんで今まで気づかなかったんでしょう。
言葉が届かないなら――“装い”で語ればいいんです。
きっと向こうも、同じように“構えて”くるはずですし」
「心情を、視覚で魅せませんか」
その提案に、胸が高鳴った。
“語れないもの”を、衣装と演出で“PR”する。
それは、私にとってまさに十八番だった。
すぐに、静子さんの人物像を改めて精査する。
――伝統を重んじ、強い信念を持つ人。
会社を“子”になぞらえるほどの深い愛情を持ちつつ、同時に“共に沈む”覚悟すら語るという矛盾。
そして、会いたくもないであろう私にわざわざ茶席の場を設ける、筋の通った義理堅さ。
その印象を朝美とも共有し、次は“彼女がどんな演出で挑んでくるか”を想定する。
きっと、茶室そのものを“拒絶”の象徴として仕上げてくるはずだ。
ならば――私の側は、“打ち破る”ではなく、“調和し、昇華する”をテーマに据えるべきだと決めた。
さっそくPCを開き、着物の柄や意匠の意味を調べ始める。
“春”を伝える想いを軸に、薄桜色の訪問着を選択。
柄には、伝統を否定するのではなく“溶け合う”意志を込めて、柔らかな流水文様を。
合わせる帯袋は、吉祥文様の“亀甲”――“縁起の継承”と“未来”の象徴だ。
髪型は朝美の強い勧めで“夜会巻き”に決まった。
曰く「そのほうが、瑞稀さんらしさがよく出る」らしい。
最後に、何かもう一押しが欲しくて悩んでいた時、
「小道具を持ち込んでみてはどうでしょう」
という案で意見が一致する。
では、何を持っていくか。
その検討の途中で、朝美がぽんと手を打つ音が聞こえた。
「花を持参しましょう。
形式からはかなり外れますけど――今回なら、きっと効果的な演出になります」
私たちは調べた。
そして、“これだ”と思えるものに出会う。
論破がしたいわけじゃない。
ただ、対話の扉を開きたかった。
私の提案は、“対立”ではなく“寄り添い”
ともに新しい調和を築くためのもの。
その思いを、少しでも伝えられたら――
その思いすべてを内包していたのが、紅梅の花。
それは、言葉の届かない場所で咲かせる、ささやかな願いを表してくれていた。
細かな作法や段取りも整理し終え、ようやくひと息つく私達。
「ここまで詰めたけど……静子さん、ちゃんと気づいてくれるかな」
つぶやくような問いに、朝美は即座に答えた。
「わざわざ“茶の湯”の場を選ぶ人です。
裏を返せば、人よりもずっと鋭い観察眼と教養をお持ちということ。
きっと、全部察してくださいますよ」
その言葉に、私も自然とうなずく。少し肩の力が抜けた。
「……にしても、レンタル代がなかなかの額だな。経費で落とせるかしら」
思わず漏れた独り言に、明るい笑い声が重なる。
やっと、まともな冗談が言えるくらいには気持ちが軽くなっていた。
「お化粧は、どうします?」
「それは自分でやるつもり。実はね、メイクにはちょっと自信あるの」
そう言いながら、電話の向こうにいる朝美の顔を思い浮かべる。
「朝美にも、今度教えてあげようか。貴女、可愛いんだから。化粧したら、もっと素敵になるよ」
「そんな……別にいいです、私は。
お化粧品が、もったいないですし……」
早口で遠慮するその声に、私はふっと微笑む。
「そんなこと言わないで。
いつか一緒にやろうよ。ちゃんと教えるから。ね?」
「……わかりました。
でも、そのとき、もし変な顔になっちゃっても――笑わないでくださいね?」
くすっと、自然に笑みがこぼれる。
「大丈夫。最初は私がやってあげる。飛びきり綺麗にしてあげるから」
くだらない雑談を重ねて、そろそろ電話を切ろうとしたとき――
朝美が、改まった声で言った。
「瑞稀さん。何度でも言います。
貴女なら、きっと大丈夫です。きっと、説得できます……どうか、頑張ってください」
「ありがとう」
私は短く返し、その言葉を、そっと胸の奥にしまった。
――迎えた今日当日。
出来れば着物は燈衣で揃えたかったが、静子さんにもしバレてしまっては元も子もない。
この“勝負”は、入室した時点で勝敗が決まる。
もし万一、静子さんが準備した茶室のあつらえが、私達の想像する真逆なら。
この華美な格好は無粋で失礼と一蹴されてしまうだろう。
襖を引く手が汗ばんでいる。
大丈夫、きっと上手くいく。
だって、朝美が応援してくれているんだもの。
指先に力を込め、私は静かに取っ手を引いた。
*
そして今。
私の想いは無事に静子さんへ届き、
こうして――会話の場が成立している。
「静子さんのご人柄や、今日この場に込められたお気持ちを想像し、友人とともに、この装いを考えました」
「けれど、お招きいただいた立場でありながら、これほどまでに“意匠”を込めた装いで臨んでしまったこと、誠に申し訳なく思っております」
それは、心からの言葉だった。
たとえ他に手段がなかったとしても、本来このような“攻めた”演出は、礼を欠いた行為にほかならない。
その謝罪を、静子さんは穏やかに、しかし深く受け止めてくれた。
「とんでもないわ。それほどまでに私のことを思い、考えてくださったのなら――これほど嬉しいことはありません」
そして静子さんは、ゆっくりと頭を下げた。
「こちらこそ。わざわざ私のもとへ足を運び、歩み寄ってくださったことに感謝いたします。そして、説明の場としてこの茶室を選んだ非礼についても……どうか、お許しください」
完璧な所作だった。
その一礼に込められた厚み――人としての深さに、私はただたじろぐしかなかった。
「でもね、それでも――貴女に全てを託すには、不安もあるのよ」
その表情は、どこか痛みを帯びていた。
険しく、そして、寂しさを宿していた。
「“技術の無償伝承”その理念がどれだけ尊いものかは、わかっているつもり」
「しかし、ここまで守り育ててきた〈燈衣〉の技が散り散りになってしまうのではないか、という――その恐れが、拭えないのです」
私は、真正面からその思いを受け止め、そして応えた。
「静子さん。差し出がましいのは承知のうえで、どうか、言わせてください」
「代々の先人が磨き上げ、そして貴女がここまで育てあげた〈燈衣〉の懐は――決して浅いものではないはずです」
「技術を分かち合った先には、きっとまた〈燈衣〉の職人たちが新たな価値を生み出してゆく。
そして、その意思と誇りを継いだ誰かが、知らぬどこかで、また別の〈燈衣〉を花咲かせてくれると、私は信じています」
手のひらに滲むのは、緊張ではない。
“そうなる”という確信が、体温をじわりと上げていた。
「そうして、貴女たちの歩んできた道は――やがて“印”として、尊敬と憧れの象徴になる。
私は、そう信じてこの提案をしているんです」
いけない。
もっと具体的に、どうしてそうなるのかを論理的に説明する筈だったのに。
熱く流れた血のせいで、気持ちをそのまま押し出してしまった。
笑われてしまうかな。そう思い視線を下げると、静子さんの右裾が、そっと持ち上げられていた。
「......ありがとう、橘さん」
赤らんだ目元。その理由に、心を寄せた。
「燈衣と共に生きる覚悟が今、固まりました。どんな姿になっても、どんな結末になろうとも、決して後悔はしません」
「“燈生”が歩む道を、“親”として、最後まで支え、見守らせて頂きます」
すとんと、肩の力が落ちた。
こわばっていた体が、徐々に緩んでゆく。
遂に、やった。これでようやく前へ進めるのだ。
気の抜けた様子が伝わってしまったのか、静子さんが目を細めている。
「し、失礼しました」
「いえいえ、構いません。よければもう一服、如何?」
恐縮しながら私は是非と返事をする。
すると彼女は、少しからかうように笑い、火箸をとった。
「一つ、文句をつけさせていただくなら」
そう言って、囲炉裏の灰をスッと掻き回す。
「貴方、完璧すぎるわ。それじゃあ“これから”が、続かないじゃない」
なんと、まあ。
格の違いを見事に見せつけられ、私はただ、頭を下げるしかなかった。
