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パンで涙を拭って 最終話 #創作大賞2025 #恋愛小説部門

読み終えた日記を、私は折り曲げるように閉じた。

読まなければよかった。こんなもの、何の救いにもならない。
どこまでも、朝美は——生きたがっていた。
明日を願い、私との旅を心から楽しみにしていた。
最後まで、ずっと、ずっと。

なのになぜ、彼女が死ななければならなかったのか。
どうして、事故なんかに遭わなければならなかったのか。

神様が天国にいるのなら、私は地獄でかまわない。
朝美を奪った奴の顔なんて、これっぽっちも見たくない。

シーツを握りしめる。白いうねりが何本も湧き上がり、私の周りを囲った。

......どうして、何故私は。

ーー泣く事が、出来ないんだ。

こんなにも私を想ってくれた人が死んだ。
その人が書き遺した日記を、たった今、読んだばかりなのに。

胸が締めつけられるほど苦しいのに、どうして涙ひとつ流れない。
「家族になりたい」とまで、言ってくれた人だったのに。
まだ、親の価値観に縛られているのか。
どこまでも——なんて、愚かな人間なんだ、私は。

どうして、もっと彼女と本音で語り合わなかったのか。
こんな形で、彼女の思いを知りたくなかった。
彼女の口から、まっすぐに聞きたかった。

本音でぶつかって、お互いの心を砕け合わせるべきだった。
たとえ傷つけようとも、私たちは、きっと分かり合えたはずだ。
だけど——遅すぎた。何もかもが、あまりにも遅すぎた。

こんなふうに、突然死が訪れるだなんて、どうして思えるだろう。
それが朝美に——私が一番、大切に思っていた人に降りかかるなんて。

私は膝へ何度も拳を打ちつけた。
悔しさと哀しさが、音を立ててこぼれ落ちる。

枕に突っ伏し、誰にぶつけたらいいのかも分からない怒りを、何度も、何度も吐き出した。

やがて、すべてを吐き出し尽くして、私は天井を見つめる。
蟻が這うような痺れが、首筋から背中を這い上がっていく。

何も考えられない。ただ、頭の痛みだけが、脈打つように訪れていた。

どうすればいいのだろう。
私は、これから——どう、生きていけばいいんだろう。

ただその思いだけが、波のように胸の奥から湧き上がり続ける。
眠気もなく、考えは巡るばかりで、時間の感覚がまったく掴めない。

そして、何百回目かの独り言をつぶやいていた時。
部屋に備え付けの内線電話が、けたたましく鳴った。
ベッドの頭元にあるそれを、私は感情なく手に取る。

「はい」

「橘様。恐れ入ります。ご朝食の時間を過ぎておりますが、いかがなさいますか」

朝食。もうそんな時間なのか。
言われてはじめて、部屋がわずかに明るくなっているのに気づく。
そんなことすら、気にも留めていなかった。

「今でしたら、混雑もまだ避けられますよ」

「ああ、そうですか。……では、行きます」

考えるより先に、口が勝手に動いていた。
無意識の反射で、言い慣れたやりとりを、なぞるだけ。

「承知いたしました。お待ちしておりますね」

その言葉とともに、受話器の音が途切れる。
......しまった。キャンセルするつもりだったのに。
このまま部屋にいようかとも思ったが、また電話が鳴るのは面倒だ。
仕方なく、行くだけ行くことにした。

——どうせ、何も食べられない。
朝食のチケットだけ渡して、すぐ戻ろう。

身だしなみも整えられないまま、最低限はだけた部分だけを隠し、私は会場へ向かう。

エレベーターで3階へ。
入り口では、ホテルのスタッフが笑顔で立っていた。

「おはようございます。ご宿泊のお客様でいらっしゃいますか?」

私は無言でチケットを差し出す。
それだけで、テラス席をご用意しておりますと、流れるように案内された。

——もう、帰ろうと思ってたのに。
今さら引き返せない空気に、舌打ちしたくなる。だが黙って従った。

「今日はとても良いお天気でございます。どうぞごゆっくり」

うつむいたままの私。
スタッフが引いてくれた椅子に、会釈もせず腰を下ろす。
目の前には、編みかごに積まれた数枚のブレッド。

——そういえば。
初めて朝美と会ったあの日、あの居酒屋の席で私は……
唯一、彼女にだけ打ち明けた秘密があった。

『パンのほうが、こう……誰かの血肉を分けてもらってる感じがしない? それを感謝しながら噛みしめると、なんか、美味しく感じるんだよね』

もっと他に言うべきことがあったはずなのに。
どうして、あんな取り留めのない言葉を。
籠の中身を手に取って、思わず、情けない笑みが漏れそうになった。

……その時。

透き通るような波の音が、強く私を呼んだ。
はっとして、横を向く。

そこには——
目を細めるほど眩しい、果てしない海があった。
そして、光とともに吸い寄せられるような、青い空が。
どこまでも静かに、美しく、ただ佇んでいた。

……一体、いつから。

目を見開き、そっと視線を落とす。
そうか。いたんだ。
ずっと、私のそばに。

ーー朝美。
私は、あなたと一緒に朝を迎えて、食事がしたかった。

もしテーブルで、涙を流してしまったら。
笑いながら、それをパンで拭って、食べてあげたかった。

それくらい、私は貴方の事を。

......握ったパンが、しょっぱく、湿っている。
多分それは、きっと。

潮風で、濡れたんだ。




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