パンで涙を拭って 閑話 【おじさん達の雑談】 #創作大賞2025 #恋愛小説部門
端のよれた暖簾をくぐり、馴染みの店に入る。
カウンターしかない狭い空間には、すでに一杯やっている和彦の姿があった。
ちらりと銘柄を見ると、呑んでいるのは田酒。
俺はふん、と鼻を鳴らして隣に腰を下ろす。
「最近はメールって便利なもんがあるんだ。わざわざ人づてに手紙なんぞ、よこしやがって」
「いやー、いま静子さんに携帯取られちゃっててさ」
俺は瓶ビールを注文しながら、和彦の言葉に反応する。
「橘の嬢ちゃんの件か」
「うん。どうも彼女、話し合いの場を茶室に指定したらしくて。こっちから助言できないように、連絡手段を封じられた」
「そりゃまた。誰も彼も、お気の毒に」
運ばれてきたビール瓶を手に取り、グラスを構える。
泡と液体のバランスを見極めながら注ぎ、一口でぐいと飲み干す。
「まあ、あの嬢ちゃんなら問題ないだろ。きっと上手くやるさ」
「ああ。僕もそう思ってる」
しばし無言で酒をあおる二人。
和彦がだし巻きを頼んだので、俺も揚げ出しを追加する。
「昴がこっちに来て、もうどれくらいになるかな」
「あぁ? アイツが高2の頃だったから……3年ぐらいか」
急な話題に少し首を傾げつつも、俺がそう答えると、和彦がグラスを傾けながら呟いた。
「そうか、もうそんなに……頑張ってるよな、アイツも」
「その“頑張ってる”って言葉が、軽く感じるくらいにな」
昴は、俺の遠い親戚筋の子だ。
昔から足が速くて、やんちゃなガキだった。
年に数回しか会わない俺のことを、なぜか気に入っていて、よく膝に乗ってきたもんだ。
その脚を活かして陸上部に入り、短距離で成績を残し、スポーツ推薦で高校へ進んだ。
だが二年のとき、アイツは馬鹿をやらかした。
クラスで虐げられていた子を庇い、加害者の悪ガキ共に「やめろ」と言ったらしい。
当然、面白くないのはそっちだ。
連中は、被害者の財布を昴のバッグに忍ばせ、冤罪を仕立てた。
もちろん昴は否定した。
だが思わぬ展開で、“被害者”本人が「昴に暴力を受けていた」と証言したのだ。
ここからが悪かった。
言われなき非難に晒された昴は、怒りのまま自分をハメた奴らのもとへ乗り込み、全員をぶん殴った。
結果、暴行事件の加害者として停学。
引きこもっていたところを「なんとかしてやってくれ」と頼まれて、俺が預かることになった――というわけだ。
「昴が最初に来たときのこと、今でも思い出すよ。斜に構えて不貞腐れてたあの子を、あんたいきなりぶん殴ったんだもの」
和彦の言葉に、口の中の揚げ出しが苦くなる。
「……やりすぎたとは、反省してるよ」
カラカラと笑う和彦を横目に、俺は黙って二口目を摘む。
――来たくて来たわけじゃねぇ、とポケットに手を突っ込んで吐き捨てた昴の頭を、
俺は即座に殴りつけた。
「これから迎えてくれる人たちに向かって、その態度はなんだ、テメェ!」
続けざまに胸ぐらを掴み、額をぶつけて怒鳴りつける。
「お前に何があったかは聞いてるし、同情もしてやる」
「だがな。お前が正しいと思ってそうしたんなら、結果がどうあれ、噛み殺して飲み下せ。後悔ばっかしてんじゃねぇ!」
「他人に偽善者だって、笑われっちまうぞ馬鹿野郎」
……よくもまあ、我ながら子どもに言うセリフじゃなかったよな。
思い出すたび、気が沈む。
「あんた優しいけどさ、昔っから口が悪すぎる」
だし巻きを突きながら、和彦が笑った。
「……俺の話はもういい。お前が呼んだんだ。何か話したいことがあるんじゃねぇのか」
「ああ」
湯呑みをそっと置き、和彦が正面を見据えたまま口を開く。
「実はさ、橘さんから“社長自ら考えた着物を仕立てないか”って話をもらってて。返事は……まだ保留にしてるけど」
「……できんのか」
問いかけに、和彦は首を横に振り、小さくため息を漏らした。
「未だに、手が震えるよ」
俺は腕を組み、カウンターに体を預ける。
元々、和彦は先代すら舌を巻くほどの和裁士であり、図案家でもあった。
だが、出産の件以来、仕事が出来なくなってしまったのだ。
「あれはお前のせいじゃないだろ。気にしすぎだ」
「……でも、息子を殺す方を選んだのは僕だ。静子さんが怒ったのも、当然だよ」
重たい空気を振り払うように、俺は酒をあおる。
苦いだけで、ちっとも美味くない。
和彦いわく、自分の妻が“子どもだと思っている存在”に触れることへの罪悪感が、いまも手を震わせるらしい。
道具を持つことすらままならず、そのまま何年も経つ。
もし、こいつが《燈衣》の工房に残っていたなら――
この会社は、ここまで落ち込まずに済んだんじゃないかと思う。
それほど、今隣にいる男は“天才”だった。
「“兄弟子”なんて言葉で誤魔化してる自分が、情けないよ」
「その思いだって、嘘じゃねぇだろ」
冷えた揚げ出しをひと口放り込む。
冷たい出汁が、口の中にじんわりと広がった。
「俺は結婚してねぇし、偉そうなことは言えねぇが」
「……自分の嫁が愛した存在を大事にするのも、亭主の務めなんじゃねぇのか。
罪の意識で逃げ続けるってのは、静子さんにも、燈生君にも――不誠実だろ」
そう言い終えると、和彦は、ささくれを剥がすような顔をしながら眉を持ち上げた。
「厳しいこと言うなぁ、銀さんは」
その言葉に、たまらず舌打ちが漏れる。
「大体な、その酒を飲んでる時点で、お前の中じゃもう決まってんだろうが。
最後の一押しが欲しくて、俺をダシに使いやがって、馬鹿野郎」
「あら、まだ覚えてたんだ」
恥ずかしそうに首筋を掻く和彦。その肩を、俺は軽く小突いた。
「当たり前だ。大仕事の前は、決まってそれだったろ。
何度付き合ってやったと思ってんだ」
和彦が「いやぁ」と笑いながら、空いたグラスに自分が飲んでいた酒を注いでくる。
「新しいのに注げよ」
「別に気にしないでしょ、アンタは。……ほら、乾杯」
差し出された湯呑に、俺はグラスを軽くぶつけた。
カツン、と涼やかな音が鳴る。
「相変わらず、回りくどくて女々しいな、テメェはよ」
「そっちこそ、いつまで経っても口と態度が怖いままだ」
ふっ、と吐き出すように息を漏らす。
「惚れた女に振られても治らなかったんだ。俺ぁ、一生このままだよ」
和彦が笑った。
「なんで静子さん、銀さんを選ばなかったんだろうね」
「知らねぇよ。……まあ、俺にはお前みたいな線の細さがなかったからな。
ガサツな男はきっと、好みじゃなかったんだろ」
肩で笑い合う俺たち。
そのまま、今まで空いた時間を埋めるように、一杯、また一杯と、酒と言葉を酌み交わす。
やがて夜が白み始め、店の外へ出ると、冷え切った空。見事な朝日が昇り、俺たちを照らした。
それを見て、思わず祈る。
――もし、神様ってやつがいるなら。どうか、こいつを許してやってはくれねぇか。
自分の息子に、着物の一枚仕立ててやることぐらい――構いやしねぇだろ。
足取りはおぼつかず、体もボロボロ。
でも俺たちは、肩を貸し合いながら、千鳥足でゆっくりと帰路を歩いていった。
