パンで涙を拭って 第六話 #創作大賞2025 #恋愛小説部門
車内に乗り込むと、私はまず小さく頭を下げた。
「長くお待たせしてしまって、すみません。ありがとうございます」
恐縮しながら言うと、運転手の男性は「いえいえ」と手を振って笑う。
その仕草に、ほんの少しだけ、自分が赦されたような気がした。
私は静かに呼吸を整えてから、行き先を告げた。
「田園調布警察署まで、お願いできますか」
「承知しました」
タクシーが静かに走り出す。
流れていく車窓の風景を、ぼんやりと眺めながら、ふと思い出す。
――加藤さんに連絡を入れなきゃ。
重たい指先でスマートフォンを操作し、式場の連絡先を呼び出す。
コールボタンを押すと、すぐに係の人が応答した。
「もしもし、そちらでお世話になっている橘と申します。加藤さんへ伝言をお願いできますか? 戻れるのは十九時前になりそうだと」
電話を切り、画面に残った着信履歴を見つめる。
見覚えのない番号が一件。検索すると、「グレイスホーム日暮里」という文字が浮かび上がった。
都市型の民間介護施設――きっと、朝美の職場だろう。
その番号にかけ直すと、耳に飛び込んできたのは、少し甲高い中年女性の声だった。
「はいー、グレイスホーム日暮里です」
「橘瑞稀と申します。先ほど頂いていたお電話について、折り返しました」
「ああ、朝美さんの件ですね。少々お待ちください、施設長におつなぎしますね」
保留のあと、電話口が落ち着いた声の男性に切り替わった。
「はい、お電話代わりました。吉崎と申します」
「橘です。先ほどは出られず、失礼いたしました」
「いえいえ、お気になさらず。警察の方から事情は伺っております。高橋さんの件ですね」
「はい。実は、親族の都合により、私が喪主を務めることになりまして……。
それで、ご参列のご意向を伺えればと思い、ご連絡いたしました」
「そうでしたか……それは橘さんも、大変ですね。
明後日でしたよね?
職場から大勢での出席は難しいのですが、私が職員を代表して伺わせていただいてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです。ありがとうございます」
そう答えたあと、一拍だけ間を置いて、私は少し声を落とした。
「……差し支えなければ、教えていただけますか。
朝美は、職場ではどんなふうに思われていたのでしょうか?」
「そうですね……。最初の頃はあまり他の職員とも関わらず、黙々と仕事をこなすタイプでした。
でも最近は本当に変わってきていて、自分から積極的に声をかけたり、職場の雰囲気を引っ張っていくような存在になっていました」
「ですから、今回の件は職場全体にも大きな衝撃でして……。皆、とても落ち込んでいます」
吉崎さんの声に、私は嘘を感じなかった。
その言葉に、わずかに救われた気がして、私はもう一つ尋ねた。
「朝美は……職場で、プライベートなことを話すことはありましたか?」
「いえ、それはほとんどありませんでした。ご自身のことは、あまり語らない方で。……でも」
少し声を和らげて、吉崎さんは続けた。
「もう少し時間があれば、いつか話してくれる日が来たのかもしれません。……残念です」
その言葉に、胸が詰まった。
――もう少し時間があれば。本当に、その通りだ。
「私も……今回の事故は、心から残念に思っています」
自分の声が、かすかに震えている。それに、少し驚いた。
電話の向こうで、吉崎さんは微笑んだような息を漏らしながら、穏やかに言う。
「高橋さんは、素敵なご友人をお持ちだったのですね」
「……ありがとうございます」
「それでは、明後日の告別式のお時間が決まりましたら、改めてご連絡ください」
視線を落とすと、膝の上に置かれたノートが目に入った。
表紙には「日記」とだけ記され、番号が振られている。
ここには、彼女を知る手がかりが詰まっているのだろう。
……けれど今の私には、それを開く勇気がなかった。
もし、朝美が綴った心の叫びを読んでしまったら、どこまでも深く引っ張られてしまいそうで。
そうなれば、多分もう、何も出来なくなる。
「お客さん、着きましたよ」
その声に我に返る。気づけば、目的地である警察署の前にタクシーは停まっていた。
運賃を支払おうと財布に手を伸ばすと、「あとでまとめてで大丈夫ですよ」と運転手さんが笑って断る。
「待ってますから。ご用件、ゆっくり済ませてきてください」
その温かな言葉に、私は小さく頭を下げ、タクシーを降りた。
警察署の自動ドアをくぐり、中へと進む。受付の窓口で、吉村さんが在署しているかを尋ねると、「少々お待ちください」と言われ、案内されたソファでしばらく待つことに。
やがて、奥の廊下から大きなお腹を抱え、小走りでやってくる吉村さんの姿が見えた。
「橘さん、お待たせしてすみません」
「いえ、こちらこそ。突然お時間を取らせてしまって」
私は持参してきた朝美の遺留品を差し出す。
「こちら、朝美の貴重品と……彼女が書いていたと思われる日記のノートです。もしかしたら、遺書のようなものが書かれているかもしれません。念のため、お渡ししておきますね」
「承知いたしました。ご協力、ありがとうございます」
少し躊躇いながらも、私は尋ねる。
「……あの、ひとつだけ。これらの品って、後日返却されるのでしょうか? お金のことは構いません。ただ、その日記だけは……できれば私が、預かりたくて」
吉村さんは顎を軽く引き、穏やかに微笑んだ。
「今回の件、事件性はないと見られています。中身を確認して捜査対象でなければ、早ければ明後日には返却できると思いますよ」
明後日。奇しくも、朝美の告別式の日だ。
「そのときご連絡をいただければ、取りに伺います」
そう伝えて軽く一礼し、私は玄関へと向かった。
「橘さん」
背後から呼び止められ、振り返る。
声の主は吉村さんだった。
「本当にお疲れかと思います。どうか、ご無理なさらず。倒れないよう気をつけてくださいね」
その言葉に、私は前を向いたまま、そっと微笑んで答える。
「はい。いつもお気遣い、ありがとうございます」
そう返して、私はタクシーに乗り込んだ。
行き先を告げ、背もたれにもたれかかる。気持ちを切り替えて、頭の中で式の段取りをひとつずつ確認していく。
そのとき、スマートフォンが震えた。画面に表示されたのは、式場からの着信だった。
――何かあったのだろうか。
少し緊張しながら応答すると、電話の向こうから聞こえてきたのは吉崎さんの声だった。
「橘様、いまこちらへ向かわれているところでしょうか?」
「はい。つい先ほど、出たところです」
私がそう答えると、吉崎さんは一拍置いて、柔らかく切り出す。
「実は……当式場には、宿泊設備もございます。本来は事前予約が必要なのですが、きっと橘様もお疲れかと思いまして。もしよろしければ、お着替えなどだけお持ちいただければ、今夜はこちらでお休みいただくことも可能です」
その申し出に、思わず声が漏れた。
「……助かります」
まさに渡りに船だった。
正直、打ち合わせ後に家に帰る気力は残っていなかったから。
「では、お部屋をご用意しておきます。どうかお気をつけてお越しください」
その後、私は式場へ戻る前に一度自宅へ寄ってもらうよう、行き先を変更した。
しばらくして、マンションの前にタクシーが停まる。
「すみません、一旦ここでお支払いしますね」
決済を済ませ、私は自宅の部屋へと向かう。
電気をつけると、白と灰色を基調とした空間が照らし出された。モデルルームのように整えられた部屋だ。使い込まれた痕跡はなく、すべてが定位置に収まり、余計な色も音も排されている。
リビングの中央には、ガラスのローテーブルと細身のレザーソファ。足元にはグレージュのラグが敷かれている。
壁際には観葉植物の一つもなく、代わりにブラックアイアンの棚が無機質に佇んでいる。並んでいるのは、仕事で使う資料と、背表紙の地味な文庫本ばかりだ。
効率と快適性だけを優先した、生活感の乏しい部屋。
綺麗で、無駄がなくて、冷たかった。
朝美の部屋とは真逆の、無個性な空間。
もし、今この瞬間に私が死んだとしても――
この部屋を見た誰かは、それだけで、私の人間性を知った気になるのだろう。
几帳面な人だったんですね。
仕事熱心で、真面目で、無駄のない暮らしを好んでいたのでしょう――
そんな言葉が容易に浮かぶ。
私は思わず、自虐めいた笑みを漏らした。
それも、確かに私の一部ではある。
けれど、すべてではないのだ。
死んだあとでさえ、人は“わかりやすい型”に当てはめられる。
理解しやすく、語りやすい「人間」として、角を削られ、丸められてゆく。
そう考えたとき、朝美の“ゴミ屋敷”のような部屋は、むしろ、最も人間らしい場所だったのかもしれないと思った。
彼女の身に何が起きていたのか。なぜ、あの部屋はあのような有り様だったのか。
そして、なぜ――あの寝室だけは、あんなにも整えられていたのか。
その理由はきっと、“誰もが理解できる型”の中には存在しない。
そんなことを考えながら、私は黙って、宿泊の支度を始めた。
下着と部屋着を、小さめのキャリーケースに詰める。
必要最低限の消耗品。そして、私がいちばん大切にしている化粧道具一式。
壊れないよう丁寧に袋へ包み、それだけは手荷物バッグに入れて、立ち上がる。
「あ、そうだ」
思い出して、急用時に備えて置いてある現金封筒から、二万円を取り出した。
今日一日、ずっと付き添ってくれたタクシーの運転手さんへ。
少しくらい上乗せしなければ、申し訳ない気がした。
戸締まりを終え、下で待っていてくれた車へ乗り込む。
行き先は、最初に呼んだ式場だと告げた。
やがて到着すると、私はあらかじめ用意していた現金をそっと差し出す。
「運賃とは別に、これ……本日一日、ずっとお世話になりましたので」
驚いたように目を見開いた運転手さんは、すぐに表情を崩し、小さく首を振った。
「お気持ちは嬉しいですが、こういうのは受け取れない決まりでして」
そう言いながら、ふと天井を見上げて、照れたように笑う。
「ほんとはね、料金メーターをリセットして“お代は入りません”って、粋に言いたかったんですけど……勤め人の分際では、それもなかなか」
「いえいえ、そんな。それこそ、お気持ちだけで十分です」
車内に、柔らかな声が広がる。
きっとお互い、相手を気遣っていたのだ。
私は手にしていた現金で運賃を支払い、「お釣りは要りません」と伝える。
「せめてこれくらいは。……本当にありがとうございました」
彼は困ったように笑いながら、小さく頭を下げた。
「また機会があれば、ぜひ乗ってください。どこへでも参りますので」
「はい。ぜひ、また」
タクシーを降りると、背後でドアが静かに閉まる音がした。
そして車は、音もなく走り去っていく。
その姿が角を曲がって見えなくなるまで見送ってから、私は式場の中へと歩き出す。
中に入ると、加藤さんと、もう一人見覚えのない若い女性スタッフが並んで立っていた。
「お疲れ様です、橘様」
加藤さんが笑顔で声をかけてくれる。
「すみません、遅くなってしまって。あの……こちらの方は?」
「私の勤務時間がちょうど終わりまして。こちら、後を引き継いだ者になります」
横にいた女性が一歩前に出て、丁寧に頭を下げる。
「土井杏と申します。加藤より引き継いでおりますので、このあとのご相談は私が担当させていただきます」
背筋を伸ばし、はっきりとした口調で自己紹介する土井さんに、私は「よろしくお願いします」と応じ、加藤さんの方へと身体を向けた。
「加藤さん、宿泊のご配慮も含めて……色々と、本当にありがとうございました」
「いえいえ、もったいないお言葉恐縮です。何かございましたら、私のほうでも対応いたしますので、どうかご遠慮なく」
そうして私は土井さんと、明日の段取りについて簡単に打ち合わせを済ませる。
呼ぶ人も、やるべきことも、すでに心の中では決まっていたから、思ったよりも早く終わった。
案内された宿泊の部屋は和室で、畳の香りがほんのりと体を包む。
シャワールームで今日一日の汗を洗い流し、着替えを終えると、布団を敷いてそのまま横になった。
体が液体のように沈んでいく。
こんなふうに、全身の力が抜ける感覚は――どれほどぶりだろう。
想像してたより、ずっと疲れていたのかもしれない。
きっと隣の式場では、朝美が静かに横たわっている。
もう声をかけることも、触れることもできない距離で――
私も目を閉じた。
今日一日の出来事が、頭の中をぐるぐると巡っている。
けれど、その思考もやがて滲んでいき、私は静かに、眠りへと沈んでいった。
