パンで涙を拭って 第8話後編 #創作大賞2025 #恋愛小説部門
自宅のデスク脇、スマホのスピーカーから朝美の言葉がやわらかく届く。
「すごい。着物って、そんなふうに作られてるんですね」
鈴のように澄んだその声に、私は笑みを浮かべながら相槌を打った。
「うん。知識としては分かってたけど、実際に現場を見るとね、解像度がまるで違う。おかげで企画案も、だいぶ形になってきたよ」
朝美とは私が忙しいせいでなかなか会う予定が立てれず、最近はこうして電話やメッセージでやり取りを続ける日々だ。
関係が途切れないよう、意識して繋ぎ留めているような、そんな日常。
私はキーボードに手を置いたまま、今日体験した空気を言葉に変えていく。
どうすれば、あの熱や湿気、匂いまでもが、画面越しに伝わるだろう。
どんな言葉を選べば、伝統の重みと職人の手が響くだろう。
誰に、どの仕事を振るか。構成、配信媒体、予算配分──次々と考えながらも、
朝美との会話が静かにその思考の底に流れている。
《燈衣》という名は出さず、内容も守秘義務の範囲を超えぬように。
言えることと言えないこと、その境界を守りながら、
私は、彼女とのこの時間をささやかに楽しんでいた。
「そういえば、他の方たちは瑞稀さんにどんな反応だったんですか? さっき話してくれた若い子は、ずいぶん好意的でしたよね」
「うん、あの子はね……でも、他の人たちは、ちょっとだけ――複雑だったかも」
その後、私は予定通り、他の工程も順に見学させてもらった。
けれど、自己紹介をした瞬間、空気が明らかに変わった。
投げかけられる視線は冷たく、会話は必要最低限。こちらが問いかけても、返ってくるのは刺すような一言か、あるいは沈黙だった。
静子さんの広めた私への悪印象――というよりも、あの職人たちにはそもそも、生半可な外部の人間に現場を掻き回されること自体が、強いストレスであり、嫌悪の対象なのだと感じた。
きっとそれは、伝統を守るという矜持が生んだ、保守的なものと、もう余計な事はしないという諦めから来ているのだろう。
和彦さんと増田さんが間に入ってくれたおかげで、作業の要点は一通り押さえることができた。
けれど、その場に確かに存在していたはずの“体温”や“本音”までは、ほとんど汲み取れなかった。
このままではいけない――そう、静かに思った。
彼らの信頼を得ないままでは、どれほど言葉を尽くしても、どれだけ映像を磨いても、《燈衣》の“本質”には届かない。
ただ表面をなぞっただけの、空虚な“宣伝”で終わってしまう。
それに、もう一歩。
顧客の心を掴む、強烈な“武器”が欲しかった。
展覧会や衣装モデルといったキャッチーな仕掛けも、もちろん必要だ。
けれど、それだけでは足りない。
《燈衣》という企業に、もっと深く潜り込むような没入感――
その“何か”が、指先に触れそうで、まだ掴みきれずにいる。
そのもどかしさが、どうにも歯痒かった。
「今まさに、私がどうやって克服しようか悩んでることと、一緒ですね」
そう言って、朝美が笑った。
「職場での関係は、あれからどう?」
「毎日、気づかされることばかりです。
“皆んなで仕事を回す”って、思っていたより、ずっと難しい。
今この作業を頼んでいいのか、それとも自分で片づけたほうが早いのか――。
そんなことばかり考えていたら、あっという間に時間が過ぎていって」
そう語る朝美の声は、どこか楽しげで、生き生きとしていた。
「すごいな。もうPDCAサイクル回してるんだ」
「そんな大それたものじゃないですよ。ただ、人との関わりって、本当に大事なんだなって、あらためて思ってます」
一拍置いてから、彼女はぽつり、ぽつりと語りはじめた。
「誰かの考えを受け取ったり、逆に自分の想いを手渡したり……
目に見えないし、触れることもできないけど、そういう“心の部分”をつなげるのが、
本当のコミュニケーションなんじゃないかって」
その言葉に、私はふと手を止めて、椅子の背に身を預ける。
朝美の“得たもの”を、ちゃんと受け取ろうと思ったから。
「入居者さんへの接し方も、少し変わったんです。
前は、“できないなら全部やってあげなきゃ”とか、“話を聞いてほしいなら、ずっと相手にならなきゃ”って思い込んでいて……
でも、それって私の“こうあるべき”っていう、エゴだったんですよね」
彼女の声は穏やかで、やわらかく、静かに続いた。
「でも、できないことの中にも、補助すれば“できるようになること”がある。
話を聞くにしても、ただ受け取るんじゃなくて、“何を伝えたいのか”に意識を向けると、
会話がなくても、相手の気持ちが自然と伝わってくるんです」
「そうしたら、仕事の段取りも不思議と早くなって。
“つながる”って、すごい力だなって思いました」
そこまで聞いて私は目を閉じ、静かに息を吸った。
素直に、朝美のことをすごいと思った。
人に何かを言われたからといって、自分のやり方を変えるのは、そう簡単なことじゃない。
まして、それを実行に移し、自分なりの“答え”を見出すなんて。
少しは、燈衣の古株たちにも見習ってほしい。
……そう思っている時点で、私自身、まだ本当の意味では歩み寄れていないのだろう。
「企業が“家族”って考え方が、どうも、よく分からないんだよな……」
「家族、ですか?」
しまった、と思った。
心の中のぼやきが、そのまま口をついて出てしまった。
「いや、その……今回PRを担当する企業さんの従業員たちがね、職場を“家族みたいなもの”って捉えてるらしくて。
その感覚が、どうにも私には、しっくりこないんだよね」
「それだけ、繋がりが強いってことなんでしょうか」
確かに、そうなのかもしれない。
けれど、私は思う。
“家族ほどに強い繋がり”というのは、企業組織としては、あまり健全とは言えない。
それはなぜか――
情が、論理を上回ってしまうからだ。
たとえば、本来見直すべき非効率も、
「ずっとあの人がやってるから」で放置される。
評価や配置も、実力や適性より「昔からいるから」が優先されてしまう。
そんな空気が蔓延すれば、外からの風は入りにくくなる。
きっと昴君のような新しい人材も、いずれ居場所を失ってしまうかもしれない。
さらに厄介なのは、
「家族なんだから無償で頑張るべき」という、暗黙の強制。
長時間労働も、「当然」で片づけられれば、断れなくなる。
“支え合い”の顔をした“同調圧力”は、気づかぬうちに、消耗と犠牲を連鎖させる。
組織に必要なのは、親しさじゃない。
信頼と対話、そして敬意と適切な距離感だ。
それがなければ、“家族”はすぐに、“閉じた村”に変わってしまう。
朝美の唸るような声がスピーカー越しに届き、私は思わず問いかける。
「どうしたの?」
「いや、その……職場を“理想の家庭”みたいに築きたいっていう感情、
どこかで分かる気がしてしまって。私」
「え、そうなの?」
反射的に返しながら、私は少しだけ眉をひそめていた。
父の冷徹な合理。
母の、姉にだけ注がれた過剰な愛情。
そして、異常なほど他人に無関心だった姉。
――そんな家庭で育った私にとって、“家族”という言葉は、
どこか息苦しくて、どこか冷たくて、そして少し、諦めの象徴でもあった。
それを別の場所で“やり直したい”なんて、一度たりとも思ったことはない。
「……いや、私もその、引かないでくださいね?」
照れくさそうに笑いながら、朝美が続ける。
「私のほうも、家庭環境がちょっと特殊というか、希薄というか……
だからなのかもしれませんけど、
入居者さんたちに接していると、ふと父性とか母性みたいな感情が芽生える瞬間があるんです。
……今思うと、それで入り込みすぎてしまって。
距離感を、間違えたこともあったなって」
「そう……なんだ」
会話の流れとはいえ、朝美のプライベートな部分に触れてしまい、私は少し戸惑う。
けれど同時に、身近に《燈衣》の従業員たちと同じ価値観を持つ人がいたという事実に、どこか新鮮な気持ちになっていた。
「瑞稀さんって、そういうの、全然なさそうですよね。
職場とプライベート、ちゃんと分けてる感じがします」
「そんなことないよ。
ほら、今だって、仕事を自宅にまで持ち込んじゃってるし。全然、分けられてない」
仕事と生活が混ざっている――
その点において、私も《燈衣》の人たちも、きっと同じだ。
違うのは、そこに向ける“意識”だけ。
そう思うと、どこか遠くに感じていた職人たちの姿が、ほんの少しだけ、近くに見えた。
そこで、もう一歩、踏み込んで考えてみる。
では、彼らがその“仕事”に抱いているモチベーションや、譲れない意識とは一体なんなのか?
私の場合は、とにかく数字を出すこと。
クライアントを儲けさせ、ブランドイメージを磨き上げる――それがすべてであり、私の原動力だ。
自己の持てるすべての能力を注ぎ、一つの企業をプロデュースして輝かせる。
それは本当にやりがいがあるし、心から楽しいと感じられる仕事だ。
もちろん、出世欲だってある。
けれど、私の仕事への取り組みの本質は、そこじゃない。
では、職人たちは?
イメージだけで語るなら――
自分の手でつくり上げたものが誰かの手に渡り、喜ばれること。それが彼らの喜びなのだと、ずっと思っていた。
だとすれば、製品を外に出す機会を奪われる今の状況は、苦痛で仕方ないはずなのに。
どうして、あんなにも現状に諦観しているのか。
もしかして――
私の考え方そのものが、根本からズレているのかもしれない。
腕を組み、思考を巡らせる。けれど、答えは出ない。
「どうかしました? 瑞稀さん」
しばらく沈黙していた私を、朝美がそっと気遣ってくれる。
今、頭の中に渦巻いていたことを、少しだけ話してみようと思った。
「朝美はさ、仕事をする上で、“これだけは大事にしたい”って思ってること、ある?」
「一番大事なこと……ですか」
朝美は首を傾げるように考え込む。
問いかけが漠然としすぎていたかもしれない、と私は内心で反省した。
「別に“これが一番”って決めなくてもいいよ。
仕事に対する“哲学”とか、“やりがい”みたいなものでも」
迷いながらも、朝美は言葉を選ぶように、静かに答えてくれた。
「担当している方に頼られると、やっぱり嬉しいです。
“誰かの役に立てている”って実感が、一番の支えかもしれません」
少し間をおいて、彼女は続ける。
「……でも、最近は少し変わってきました」
「さっきも言ったことなんですけど――
誰かの考えを受け取って、自分の想いを手渡す。
その循環が、今はすごく尊く感じるんです」
私は気づけば、わずかに身を乗り出していた。
朝美の言葉が、自分の中にあった違和感に、ぴたりと重なった気がした。
「それって、どうして?」
「うまく言えないんですけど……“役に立つ”だけだと、その場しのぎで終わっちゃうんですよね。
でも、そこに“気づき”とか“学び”を挟むことで、お互いに変化が生まれるんです。
視野が広がったり、自分で動こうとしてくれたり……」
「だから、仕事の段取りが早くなったのも、たぶんこの“循環”のおかげなんだと思います」
脳裏に、あの時見せた昴君の笑顔が浮かぶ。
彼は、自分の技術が誰かの目に届いたことで、あんなにも嬉しそうだった。
もしかして――《燈衣》の職人たちが抱えている一番の悩みって。
ばらばらだった思考の断片が、一本の線でまっすぐにつながる。
ずっと探していた“芯”――顧客の心を動かす本質は、きっとこれだと確信した。
だが、そのアイデアは、私の担当領域を明らかに超えている。
社内で提案しても、間違いなく却下されるだろう。
……それでも、他の道は考えられなかった。
《燈衣》というブランドを、もう一度息を吹き返させるためには――
これしかない。
もやのかかった頭が晴れていく。
私は静かに深呼吸し、キーボードに手をかけた。
作業を始める前に、電話越しの朝美にそっと言葉を送る。
「ありがとう、朝美。あなたのおかげで、また一つ救われた気がする」
「えっ……そんな、私、何もしてませんよ?」
「そんなことない。本当に、あなたとの会話は得るものばかりだわ」
「そんな、瑞稀さんからそう言って貰えると、嬉しいです……」
照れたように笑う声が、スピーカーから優しく響いた。
「仕事がひと段落したら、絶対に会おう。ちゃんと予定、合わせるから」
「はい! 早く瑞稀さんにお金も返さないといけませんし」
私はくすりと笑う。
「いいのよ。あれは、あなたに“あげた”お金なんだから」
「そういうわけにはいきません。ちゃんと下ろして、無くさないようにしまってあるんです。えっと……確か、ここに――」
次の瞬間、何か紙の束が崩れ落ちるような、大きくて乾いた音が耳を打つ。
「今の音……大丈夫?」
「は、はいっ。ちょっと机の上の書類が落ちちゃって」
焦り気味の声に、私は少しだけ違和感を覚えつつも、軽く流した。
「本か何か置いてたの? ちゃんと片づけなきゃダメよ」
「そ、そうですね……そろそろ、いろいろ整理していかないと」
えへへと笑う朝美。
その声音に、私の胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
それを隠すように、少し年上の“姉”としての顔で、私は穏やかに笑い返した。
「じゃあ、また時間が合えば、電話しましょ。……そろそろお休み」
「はいっ! おやすみなさい。お仕事、頑張ってくださいね」
「朝美もね」
通話を切る。
両頬を軽く叩いて、私は気合いを入れる。
そして、勢いよくキーボードを打ち始めた。
――この想いを、形にするために。
*
そして後日。
私が提出した企画書は、関係者上司と静子さんの猛反対によって棄却され。
それと同時に、プロジェクトのアカウントマネージャーを外れるよう、正式な通達が下ることとなった。
