パンで涙を拭って 第十六話 #創作大賞2025 #恋愛小説部門
「瑞稀」
その呼びかけが、私を凍らせる。
振り返ると、水底に沈む石のような顔をした姉が、じっとこちらを見つめていた。
「また......同じことをしているの?」
姿は成人しているのに、声だけが十代のまま。
その不一致が、余計に恐怖を焚きつけた。
——またって、何のこと。
言ったはずの言葉は、音にならず、空中に描かれた文字のように漂ったまま、誰にも届かない。
姉は一切の表情を変えず、ただ淡々と喋る。
「前にも言ったわよね。貴女の“趣向”はどうでもいいけど、私に迷惑はかけないでって」
足が、後ろへよろけた。
何重にも鍵をかけて閉ざしていた記憶が、音を立てて崩れ始める。
——私は、ただ。友達のために。
そう心で唱えた反論に、柚月姉さんはゆっくりと口元を歪めた。
「ただの友達のために、葬儀を上げて。部屋を片付けて、お墓まで面倒を見るの? それが、普通?」
“普通” という二文字が、心を酷く切り裂いた。
違うの。本当に、朝美のことは友達としてちゃんと見ていた。
一線は、弁えていたはず。
もうやめてよ。どうしていつも無関心なくせに、こんな時だけ。
「煩わしいのよね」
鉛筆の芯がポキリと折れたような、そんな調子。
そして歩み寄ると、人差し指で私の喉元を深く突いた。
「貴女に直接は聞けないお母さん。好奇の目で尋ねてくる他人。それらを相手するの、誰だと思ってる?」
喉の奥が張りつく。口の中は乾ききっているのに、全身から汗がにじみ出る。
「劣っているなら、せめて普通でいて。興味のない人間と話すのは、疲れるのよ」
はぁ、と小さなため息。
それだけの軽い感情で、どうしてこんなにも私を追い詰められるのだろう。
「いい目ね。泣かないその性格だけは、気に入ってるわ」
そうして、喉元に触れていた指をそっと離し、背を向けた。
「馬鹿なことはもうよして、早く日常へ帰りなさい」
そう言い捨てて歩き出す姉の背中を、必死で追う。
けれど、どれだけ走っても追いつかない。
姉さん。柚月姉さん。
馬鹿なことなんかじゃない。朝美を思うこの感情は、貴女に軽くあしらわれていいものじゃ——
声を張り上げようとするのに、喉から出た言葉は音を持たず、重く脆い塊となって地面に落ちていくばかりだった。
*
「皆さま、間もなく神戸空港に着陸いたします。
着陸に向け、シートベルトをしっかりとお締めください。
座席の背もたれとテーブルは、元の位置にお戻しください」
ハッと、震えるように目が覚めた。
額には冷たい汗が滲んでいる。
……なんだか、ひどく嫌な夢を見ていた気がする。
体調のせいかもしれない。
痩せ細った手首を見つめ、私はそう思った。
葬儀の日以降、ずっと味覚と食欲は戻らず、ろくに食事を摂れていない。
体重はすでに五キロ近く落ちていて、日に日に気力が奪われていくのを感じる。
どうしても出社しなければならなかったある日。
私の姿を見た部下達は言葉を失っていた。
山崎部長からは、病院へ行くよう諭されたが、従っていない。
だって、原因は分かりきっていた。
私はきっと、朝美のところへ行きたがっている。
本当なら、今日のこの旅行だって、キャンセルするつもりだった。
けれど、まだ読むことができない日記帳が、毎日私を責めるように視界の端に映り続けていた。
……だから。
重い腰を上げて、荷造りをし、無理やり自分を飛行機へ押し込んだのだ。
静子さんが、今の私を見たら——きっと、怒るだろうか。
彼女と話すことができた先週のあの時は、まだ私も比較的元気だった。
だからこうして、この旅行を予約することもできたが。
まさか、その後で自分がここまで崩れるとは、思ってもみなかった。
日を追うごとに増していく喪失感と、空腹による疲労。
それらがじわじわと、確実に私を蝕んでいった。
気がつけば、立ち直るという選択肢がどんどん遠のいている。
——この旅行が終わったら、本当に後を追うべきかもしれない。
そんな考えが、現実味を持って胸の内をよぎる。
朝美との、唯一のつながりだったこの旅が終わったなら。
息子を失った静子さんも、同じような気持ちだったのだろうか。
いや、彼女のほうが、もっと深く、もっと暗く沈んでいたのかもしれない。
......ふと、静子さんが言った言葉が、脳裏でこだました。
「その方が今、あなたに何を思っているのか……
どうか、よく考えてみて」
——理性では、分かっているんです。
きっと朝美は、泣きながら私を責めているでしょう。
“そんなことをしてほしくない”と、泣いて止めるでしょう。
でも——もうその声は、私には届かない。
彼女はもう、私のそばに寄り添ってくれてはいない。
なら、私から向かうしかないのでは。
頭を振る。
いけない。どうしたんだ、私は。
こんなことを考えるような人間じゃなかったはずだ。
もっと冷静に、自分を客観的に見られる人間だった。
それが今は、どうして。
そう思っても、心の奥から湧き上がってくる思いは、収まる気配を見せない。
浮かんでは巡り、混ざり合い、思考はどこか支離滅裂になっていく。
まるで、それら全てから逃げるように。
私はもう一度、硬く目を閉じる。
夢か現実かも、わからぬままに。
*
空港を出ると、息が上がっていた。
ほんの少し歩いただけなのに、体力がまったくついてこない。
晴れているはずなのに、空は薄灰色の雲に覆われていて、どこかぼんやりとしている。
周囲のざわめきが、なぜか必要以上に耳に入ってくる。言葉の意味までは掴めないのに、音だけが刺さるように響いていた。
とにかく、ここから離れたい。
スマホを取り出し、次の予定を確認しようとする。
だが、画面の文字が目をすべっていく。
自分で打った内容なのに、頭に入ってこない。意味は分かるのに、その順序を組み立てられない。
——どう動けばいいのか、まるで分からない。
立ち尽くしたまま、私はその場に置いていかれているような気持ちだった。
このままじゃいけない。だけど、どうすれば?
そんな時だった。膝のあたりから、小さな声がした。
「おねーさん、どないしたん?」
見下ろすと、五歳くらいの女の子が、私の膝を指でつついていた。
長い髪を後ろで括り、広いおでこをきらきらと輝かせている。
「こら、夕美!」
すぐ横から、若い女性の声が飛ぶ。たぶん彼女の母親だ。
「急に声かけたらびっくりするやろ。すいません、お姉さん、ご迷惑おかけしてしまって……」
「いえ、大丈夫です……」
返すと、夕美ちゃんと呼ばれた少女が、にっこりと笑った。
「困ってることあるんやったら、言うてな? わたし、手伝うから!」
屈託のない、真っ白な言葉だった。
「なに言うてんの」と笑いながら、お母さんはその場を離れようとする。
でも私は、思わず声をかけてしまっていた。
「あ、あの……すみません。洲本という場所に行くには、どうしたらいいでしょうか」
ぴたっと、2人の足が止まる。
それから、急に距離を詰めるように私の方へ向き直った。
「洲本? お姉さん、洲本行くんですか?」
「淡路やん。ええなあ。うちもな、前よう行ってたんよ」
2人は急に賑やかになり、まるで親戚のような距離感で話しかけてくる。
そして、手を引くように私を案内しはじめた。
「ホテルはどこですか? ——ああ、それ、淡海リゾートのとこですね。
ならまず三宮まで出て……三宮行き方、分かります?」
「いえ、なんとなくは……」
「やったら、うちらもそっち行くから、一緒に行きましょ」
そう言って、お母さんは当然のように私を導いた。
ポートライナーという交通機関に、一緒に乗り込む。
その勢いに身を流されるよう、自然と足を踏み出していた。
「三宮駅に着いたら、高速バスのチケット取れますから。あとは、乗ってるだけで洲本まで行けますよ」
「ありがとうございます。こんなに親切にしていただいて……」
助けを求めたのは私なのに、この親子の行動に戸惑っている自分が、少し、情けない。
「全然ええよ、気にせんで」
「……あんた、なんもしてへんやないの」
そう言いながら、夕美ちゃんの頭をくしゃっと撫でるお母さん。
たしなめているようで、どこか愛情のこもったその口調と仕草が、遠く眩しく映った。
「いえ、夕美ちゃんが声をかけてくれたおかげで、本当に助かりました」
ふふ、と鼻を鳴らしながら、得意げに私を見上げる幼い顔。
「困ってる人、助けるのはふつうやもん」
普通。そう自信を持って言える純粋さを、私はいつ失ってしまったのだろう。
家族や世間が決めた普通しか、もう胸を張って口にできない。
「凄いね、夕美ちゃんは。本当に凄いよ」
湧き上がる様に出たその言葉。
「褒めすぎ」と言って、頬を染めるその顔が、なんとも愛おしかった。
「それにしてもお姉さん、ええ日に来ましたね。今日も明日も春晴れやし、淡路やったらきっと綺麗な景色、見えますよ」
——そうなんだ。この天気は、そんなに綺麗なのか。
今の私には、晴れも曇りも、雨でさえ同じに思える。
「そうですね」と曖昧に返しながら、2人の明るさをただ見つめていた。
その後も、淡路島や洲本での遊び場や名産について、親子は楽しそうに話してくれる。
私は相槌を打つことしかできなかったが、2人は気にする様子もなく、ずっと笑顔で接してくれた。
やがてライナーは三宮駅に到着し、車内を降りて高速バスのチケット売り場へ向かう。
「本当に、ありがとうございました」
購入したチケットを手に、私は深く頭を下げた。
「大丈夫ですよ」とお母さんは明るく返し、夕美ちゃんが足元へと近寄ってくる。
「旅行、楽しんでな!」
私は笑顔をつくり、「うん」とだけ言って、彼女の肩に手を添えた。
それが、精一杯だった。
2人と別れたあと、バスターミナルでしばらく待っていると、乗るべきバスが到着した。
洲本まで、90分ほどの道のりらしい。
プシューと甲高い音をたてて発車するバス。
整然とした街並みが後ろへ流れ、高速に乗る頃には、海と山が車窓に広がりはじめた。
「まもなく洲本です」
自動音声に、反射的に体が動く。
荷物を抱えて立ち上がり、他の乗客が降りるのを待ってからバスを降りた。
外に出ると、潮と少し生臭さを含んだ空気が鼻をつく。
——これが、磯の香りってやつだろうか。
少し苦手かも、とひとり笑う私。
辺りを見渡し、適当なタクシーに乗り込む。
ホテルの名前を告げると、運転手はすぐに理解してナビも使わず走り始めた。
夕美ちゃん親子といい、このあたりで“淡海グループ”のホテルというのは、よく知られているのだろう。
「ようこそ洲本へ」と書かれたアーチ型の看板を抜けると、海沿いに松の木が立ち並ぶのが見えた。
「こんなの、あるんだ……」
思わず漏れた私の声を、運転手さんが拾う。
「千本黒松いうてね。このへんの名物ですよ。夏でも松の陰があって涼しいし、散歩道も気持ちいいんです」
私は頷いた。あとで、少し寄ってみてもいいかもしれない。
車が進み、大きなホテルの前で停まる。
料金を支払い、車を降りると、すぐに従業員が荷物を受け取りに来た。
「ご宿泊のお客様でしょうか? お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「橘です。橘瑞稀」
受付名簿を確認すると、スタッフは私を中へと案内してくれた。
ロビーでの受付を済ませ、チェックインまでしばらく時間があると告げられる。
ラウンジで待ってもいいが、せっかくならと外に出て、さきほど車窓から見えた松林を目指す事にした。
出かける前に、バッグからあの日記を取り出す。
気持ちだけでも——朝美と一緒に歩きたくて。
10分ほど歩くと、生い茂る松林が目の前に広がってきた。
木陰のベンチに腰を下ろし、海を眺める。
美しいはずの景色。しかし、空は青くなく、海もどこか濁って見える。
白浜と老松が織りなす風景も、ただ視界が散らかっているようにしか感じられない。
髪をかき上げる。潮風に乗った飛沫のせいだろうか、少し湿って、ベタつく気がした。
——私、全然楽しめてない。
手元の日記帳をそっとなぞる。
綺麗な景色を見れば、少しは気が晴れるかと思っていた。
けれど、現実にあるのは、ただ「自分が病んでいる」というはっきりした事実だけ。
ここなら——1ページ目だけでも読めるかもしれない。
そう思ったが、やっぱりダメだった。
吐き出しかけたため息が、潮風に押し返される。
まるで、意気地のない自分を咎められているようだ。
——こんなんじゃ、ダメだよね。
夕美ちゃんの「楽しんでな」という声が、波の音にまぎれて届いた気がした。
朝美もきっと、その言葉に、小さく頷いているのだろう。
私は頬を、パチン、と二度叩く。
——いい加減、足を前に出さなきゃ。
ここへ来るまで、本当にたくさんの人に助けられ、支えられてきた。
いつまでも俯いたままでは、失礼だし、申し訳ない。
……いや、そんなのは、言い訳だ。
私はただ、彼女を知る勇気が持てずにいるだけ。
体についた砂を払い、立ち上がる。
それと同時に、手元の日記をぎゅっと握りしめた。
——しっかりしろ。
私は、朝美を“弔う”ためにここに来た。
そのために、この旅を選んだのだから。
砂浜に、小さくブレた足跡を刻みながら、私はゆっくりとホテルへと戻っていった。
