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パンで涙を拭って 第八話前編 #創作大賞2025 #恋愛小説部門

電車を乗り継ぎ、私は一人、郊外にある《燈衣》の工房へと向かっていた。

「工房を、ですか? 構いませんが、PRに使えるような派手なものは、何もありませんよ」

見学の許可を願い出たとき、社長の和彦さんは戸惑いながらそう答えた。

「いえ。きっと今の《燈衣》が持つ最大の魅力は、製造現場にあると思うんです。ぜひ、見学させてください」

熱を込めた私の言葉に、和彦さんは目を細め、「そうですか」と、小さく微笑んだ。
そして、案内役まで買って出てくれたのだった。

電車が止まる。
そこは都会のコンクリートジャングルとは真逆の、どこまでも開けた田舎の風景。

季節は冬の入口。
灰色と茶色の混じった草木が、抜けるような青空と静かに対比しており、
まるで油絵の中に入り込んだかのような光景だった。

「橘さん」

隣から声がかかる。
振り返ると、スーツの上から作業着を羽織った和彦さんが立っていた。

「和彦さん……わざわざ駅まで?」

「お客人を迷わせるわけにはいかないと思ってね。ここから車で少しですし、迎えに来ました」

恐縮しながらも、その気遣いをありがたく受け取る私。
そして、駅前に停められた古いセダンカーへと案内される。

「どうぞ、乗ってください」

後部座席のドアを開けられ、頭を下げて乗り込む。
そして運転席には、当然のように和彦さんの姿。

「えっ、社長が運転を……!?」

「運転手を雇う余裕なんて、うちにはありませんから。気にしないでください」

そう言われても、クライアントの社長自ら運転とは、さすがに身が引き締まる思いだ。

エンジンがかかり、左右に揺れながら車が走り出す。
和彦さんはウインカーを出しつつ、少し声を弾ませながら言った。

「橘さんのご提案を伺ったとき、正直、身が震えましたよ。
口では“職人が主役”と言いつつ、実際は誰もライトを当てようとはしませんからね」

「《燈衣》の財産を考えたとき、ふと思ったんです。
今の時代から見れば“時代遅れ”とされがちなハンドメイド主義こそが、実は最大の強みなのだと」

――あの夜、朝美と別れたあと。
私は提案書を一から見直すことを決めた。

《燈衣》の歴史、意匠の系譜、素材、織りや染めの工程。
単に“知っている”では不十分だ。
“語れる”まで身体に染み込ませる必要があった。

そして見えてきたのが、《燈衣》の中核――“完全ハンドメイド主義”。

それは現代の効率重視の論理からすれば、経営の足かせになり得る。
だが同時に、他に類を見ない、揺るぎないオリジナリティでもあった。

《燈衣》は、日本でも数少ない、
全工程をひとつの敷地内で完結させる“完全内製型”の工房。

ここに“語るべき物語”がある。
そう確信した私は、まず“現場を知る”ことに舵を切った。

静子さんに相談すれば門前払いされるかもしれない。
そのため社長にだけこっそりお願いし、この日を迎えたのだった。

「銀行さんや取引先からは、ずっと“改善”を求められてきました。
でも、こうして我々の誇りを“財産”だと仰っていただけて、本当に嬉しいです。
ただ……ここまで来なくても、資料や写真ならいくらでも差し上げられたのに」

その言葉に、私は小さく首を振る。

「現場を見ずに語れるほど、このブランドは単純ではないと感じました。
《燈衣》が積み重ねてきた“本物”を、ただのコンテンツとして消費するなんて、あまりに惜しい。
どうすれば、“誇り”を“伝わる形”にできるか――
その答えを探すためには、まず私自身が、いち顧客としてここに立たなければならないと思ったんです」

本音半分、計算半分。私は、あえて感情を前面に出してそう言った。
今の私は、《燈衣》の社員たちにとって“外から来た厄介者”だ。
好かれなくても構わない。だが、敵視されては仕事にならない。
協力を得るには、信頼――あるいは、最低限の共感が必要だ。

同時に、現場を見ることが立案に必須なのは、間違いなかった。
空気、音、手の動き、素材の手触り――
今回はそれらを肌で知ることなく、「語るに値する物語」を、資料から得た想像で作るのは、難しいと判断したからだ。
だからこれは、戦略であり、私自身の納得のため。

……まぁ正直、少しだけ朝美に影響されている自覚もあるが。

「今の言葉、静子さんにも聞かせてあげたいです。
ご存知とは思いますが、今の事に一番反対していたのが、あの人でして。橘さんにも、いろいろ失礼があったかと……」

「いえ、そんなこと。静子さんのお気持ちも、よく分かりますから」

そう応じたあと、私は以前から感じていた疑問を口にした。

「もし差し支えなければ……お聞きしてもよろしいでしょうか。
静子さんは、燈衣に深い愛情をお持ちだと感じています。
ですが、それにしては、いまの会社の状況に対して、どこか距離を置いていらっしゃるように見えて……
再建への意識が、薄いといいますか……」

彼女の語る言葉には、会社に対する強い想いと愛情がにじんでいた。
けれど、それが経営の現場には結びついていない。
そのギャップに、私はずっと違和感を抱いていたのだ。

「ああ、分かりましたか。そうですねぇ、なんと例えたらよいか……」

ハンドルを片手で操作しながら、和彦さんは口元に手を当てる。
そして、遠くを見つめるような声でぽつりと話し始めた。

「子が授かれなかった彼女にとって、燈衣は“我が子”なんです」

「我が子、ですか? ならなおのこと、守ろうとするのでは」

そう返すと、和彦さんは寂しげに微笑み、ゆっくり首を振った。

「助かるか分からない治療をして、我が手でその晩節を汚すくらいなら――
きれいな“今”のまま、心中してあげたい。
たぶん静子さんは、そう考えているんです」

私は思わず眉をひそめた。正直、その考えは理解できなかったから。

「……それはあまりにも私情ではないでしょうか。
会社を信じて働いている皆さんにとっては、少し無責任にも感じられるかと」

「ええ。おっしゃる通りです。
でも、燈衣の人間はどこかで、静子の思いを理解しているんですよ。
長くこの場所で働き、同じ釜の飯を食ってきた仲間たちです。
会社も家族も、彼らにとってはきっと地続きなんでしょう。
そして、その家族の“長子”がそう決めたなら、黙って従う……
良くも悪くも、それが我々の空気なんです」

その言葉に、私は小さく息を吐いた。

会社は会社、家は家。感情と組織は分けるべき。
けれど、理解できないその“混ざり合い”が、彼らの中では常識なのだろう。

そんな中、ふと胸に浮かぶ疑問があった。

「では、和彦さんご自身は、皆さんと同じお考えなのですか?」

「いやぁ……私はちょっと違うかな。
燈衣は、私にとって“兄弟子”のような存在なんです。
中卒で飛び込んだこの業界で、糸の通し方から飯の炊き方まで、全部教わりました。
そんな兄弟子がいま、死にかけてる。
だったら弟弟子として、黙ってはいられませんよ」

それもまた、私にはない感覚だった。
でも――
静子さんの「心中覚悟」よりは、まだ理解できる気がした。

やがて、車が速度を落とし、緩やかな坂を下って敷地内へと入っていく。
窓の外に現れたのは、黒ずんだ瓦屋根と漆喰の壁が重厚な佇まいを見せる、旧本社の母屋だった。
その脇には、作業内容ごとに分棟された建物が、まるで長屋のように連なっている。

百年を超えてこの地で息づいてきた工房。
そこに漂う空気には、飾り立てる言葉など不要なほどの“重み”があった。

車を降りる。
磨き上げられた木の柱、燻された梁。そして、微かに漂う渋みのある香り――おそらく染料のものだろう。
そのすべてが、今なお脈打つ《燈衣》の心臓部だった。

と、そのとき。隣からよく通る低い声が響く。

「カズ。何勝手に部外者を連れてきてんだ」

「ギンさん。今日は休みって聞いてたのに」

和彦さんがそう呼んだその人物――工房責任者の増田銀二さん。
作務衣を着こなす、背筋の伸びた大柄な男性だ。
和彦さんよりも年上と聞いていたが、年齢を感じさせないほど頑健で、精気に満ちていた。

「初めまして。今回の燈衣広報PRを担当しております、橘瑞稀と申します」

一歩前へ出て、頭を下げながら名刺を差し出す。
増田さんは仏頂面のまま、無言でそれを受け取ってくれた。
――手で払いのけられる覚悟で体を強張らせていた分、その反応に拍子抜けしてしまう。

「静子さんは今日のこと、知ってんのか」

「いや、言ったら反対されると思って。内緒で来た」

ふう、と大きく息を吐く増田さん。
腰に手を当て、睨むような視線を和彦さんに向ける。

「そうやって、なんでも内緒で進めるから話がこじれるんだ。学習しろよ、テメェは」

「いやぁ……面目ない」

後頭部をかきながら気まずそうに笑う和彦さんと、それを呆れ顔で見やる増田さん。
――そのやり取りから、二人のあいだにある確かな信頼関係が見えてくる。
まるで、年の近い兄弟のような、そんな微笑ましさがあった。

「で、橘さんだったな。今日は何しに来た?」

スッと向けられた視線に、思わず体がこわばる。
怖いというより、“見透かされている”ような鋭さがあった。
まるで、厳しい学年主任の先生と話しているような、妙な緊張感。
慎重に言葉を選びながら、私は答える。

「……今回は、一般向けのPR企画に向けて、工房の仕事を実際に拝見したく参りました。
企画案のメインである職人さんが、普段どんなお仕事をしているのか、直に知る必要がありまして」

ふんっと鼻を鳴らす増田さん。
何か気に触る事を言ってしまったのかと息を呑むと、隣にいた和彦さんが朗らかに笑った。

「ギンさん。その怖い顔よしなって。橘さん萎縮しちゃってるからさ」

「うるせぇ、生まれつきだよ。別に怒っちゃいねぇ」

くるりと背を翻し、工房の入り口へ歩き始める増田さん。

「現場を離れて長いカズの説明じゃ心配だからな。俺も一緒に案内してやる。でもな、ウチの奴ら皆、あんたの事苦手なんだ。ま、そういう空気だってことは、分かっててくれや」

その言葉にはい、とだけ返事をして、私は増田さんの後を追いかけた。

目の前の大きな扉が開かれる。
すると、冬の冷気を吹き飛ばすような、猛烈な湿気と熱気――それに、鼻を刺すような酸味のある匂いが顔を叩きつけ、思わず目を瞑った。

徐々に目を開くと、湯気を立てる鉄製の大釜の中で、染められた反物を巻いた大きな桶を、何度も潜らせている若い青年の姿が目に入る。

額には大粒の汗。両腕は太く、濡れたゴム手袋の中で動く手は、桶をひっくり返しては染料に沈める作業を、波打つように、しかし一点の迷いもなく繰り返していた。

「ここは……桶染めの工程、ですか?」

私の問いに、増田さんが口を開いた。

「勉強してんじゃねぇか。そうだ、あの桶に反物を巻きつけて、何度も染める。
ぼかしや滲み模様は、その圧力と回数の積み重ね。出来は勘と腕次第ってわけさ」

「……なるほど」

作業者の手元に目を向けると、手袋の内側から水があふれ出ているのに気づく。

「えっ、あれって、汗……?」

「違うよ。あれは“熱対策”だ。染料は熱いからな。手袋を二重にして、そのあいだに水を張ってるんだ。そうすると、火傷しねぇで済む」

「なるほど……」

しばらくのあいだ、私は息を呑んでその作業に見入っていた。

その姿はまるで、祭り囃子の太鼓を打ち鳴らす奏者のような、緻密さと荒々しさを兼ねた力強さがあった。

力のこもった腕には、濡れた作務衣の上からでも筋肉の起伏がわかる。
ただ布を染めるのではない。
布を“ねじ伏せ”、染料と“対話”し、経験と体で模様を“引き出す”――そんな行為。

模様の仕上がりは、布を解くまで誰にもわからない。
全ては職人の勘と体力、そして目に見えない“経験の積み重ね”が成すものだ。

動画では何度も見たはずだったが。
けれど、実際の空気、温度、音、匂い――
この場所でしか伝わらない“何か”が、間違いなくそこにはあった。

ザバン、と染料から桶を出し茶色の液体の中へそれを鎮める。
さっきから工房内に漂う、穀物酢を濃くしたような酸っぱい匂いが、より強く広がった。

「あれは、何につけているんですか?」

増田さんが一言、「色止めだ」とだけ告げる。

「染めたあとそのままにしとくと、色が流れて台無しになるんだよ。
だから最後に、こうして布に色を“焼きつける”まぁ、これまで込めた魂を閉じ込める仕上げの場面だな」

その後、色止めを終えた桶は、隣に据えられた熱湯の釜に数度くぐらされ、下に水が張られた置き台へと移された。

「社長と銀二さんに見られてるから、手元が狂いそうでしたよ」

汗止めの鉢巻きを外しながら、さっきまで作業をしていた青年が、照れ笑いを浮かべてこちらへと歩いてくる。

高齢化が進む現場の中で、若手の姿は新鮮だ。
そう頭の中で思っていると、和彦さんが彼に向き直り、私を紹介する。

「昴。こっちは今うちの広報を担当してくれてる橘さんだ」

「はじめまして、橘瑞稀と申します」

そう名乗って頭を下げると、昴と紹介された彼は手を叩いて「ああ」と声をあげた。

「……このお姉さんっすか。静子さんが、めっちゃ毛嫌いしてるって言ってた人。ブランドを安売りしようとしてるって」

不意に投げかけられたその言葉に、私は少しだけ顔を強ばらせた。
なるほど。そうやって社内では私のことが伝えられているのか。
静子さん、ずいぶんうまく“敵役”を仕立てたものだ。

「歯に衣着せるって言葉、知らねぇのかお前は」

すぐさま、増田さんが昴君の頭を小突く。
「いってぇ!」と声をあげて、彼は大袈裟に頭をさすった。

「銀二さん。今ってそういうの、パワハラって言うんですよ? ご存知?」

「うるせぇ。若いもんの無礼を黙って見てられるか」

「口で言ってくれればいいじゃないっすか。わざわざ殴ることないのに」

昴君はそう冗談めかして言いながらも、その声音には、どこか柔らかな色が混じっていた。

「橘さん、でしたよね。俺はまあ、皆と違って……《燈衣》のブランド、マジでバズらせてくれたら嬉しいっすよ。
正直、この場所以外で働くとか、マジ勘弁なんで。履歴書とか、ちゃんと書ける気もしないし」

「転職が面倒なだけじゃねぇか、バカタレ」

増田さんが再び、ぽかりと肩を小突いた。
「いってぇなあ」と昴は笑いながら肩をさすり、それでもどこか、うれしそうだった。

「……冗談っすよ。俺、本気でここが好きなんで」

その言葉に、思わず私は微笑んだ。
軽薄に見えて、根はきっと素直で、年上に可愛がられるタイプ。
彼の存在が、ほんの少し、この場の空気を和らげていた。

「昴。せっかくだから桶搾りを解いて、染め上がった反物、橘さんに見せてあげてくれ」

「了解っす」

昴は手際よく、桶を固定していた金具を外し、上蓋を外して中身を水中へと広げていく。

「……え、すごい」

思わず、息とともに声がこぼれる。

広がった反物には、白抜きの模様がくっきりと浮かび上がり、その周囲を彩る赤の染料が、美しい滲みと彩度を保ったまま、まるで呼吸するかのように揺れていた。

染め残された部分の純白が、むしろ一層、色の存在感を引き立てている。

初めて見る私にも、それが見事な仕上がりであることは、一目でわかった。

「まぁまぁだな」

そう言った増田さんへ、昴君は抗議の声を上げる。

「いやまぁまぁって、めっちゃいい出来でしょこれは! 銀二さん、嫉妬しちゃって逆に褒めれない?」

「染料でその分厚い面の皮洗ってやろうか?昴」

じゃれ合う二人へ、まぁまぁと言って間に入る和彦さん。

「橘さんは? どう思うこの出来」

昴くんにそう問いかけられ、私は素直に称賛を口にした。

「とても綺麗な仕上がりだと思います。ぼかしによる不規則な色の揺らぎ、濃すぎず薄すぎない絶妙な発色。そして染め残しも見当たらない。完璧です」

昴君は右腕を突き上げ、「よっしゃ!」と声を上げる。

「どうっすか銀二さん! これが“消費者様”のお声っすよ? そろそろ一人前って認めてくれてもいいんじゃないですか?」

「嬢ちゃん、こいつは褒めるとすぐ調子に乗るんだ。嘘でもいいから、ちょっとくらい貶してくれ」

貶せと言われても、どうにも難しい。
桶搾りは長年の修行が必要と聞く。その工程を、見た目には二十歳そこそこの青年が担い、しかもこの仕上がり――。心から、すごいと思った。

「そういやさ、他の工程はもう見たんすか? 着物の下絵描きとか、図案の設計とか。面白いとこ、まだまだありますよ!」

まるで子どものように目を輝かせる昴くん。
それはきっと、自分たちが培ってきた技術を、誰かに“見てほしい”という純粋な気持ちの表れなのだろう。

「他の現場はな......年齢層も高いし、静子さんと付き合いの長い連中が多い。嬢ちゃんは疎まれるかもしれんと思って、とりあえず避けたんだ」

なるほど。だからまずは昴君のいるこの場へ案内されたのか。

だが――それは、私にとっては、余計なお世話だった。

「増田さん、気遣ってくださってありがとうございます。でも、今日は《燈衣》の“すべて”を見せてくださいとお願いしています。
嫌われても、疎まれても構いません。
納得するまで、自分の目で見て、耳で聞いて、確かめたいんです。《燈衣》というブランドの“本質”を、きちんと伝えるために」

言い切ったあと、三人の視線が自然と交錯し、それから一斉に私へ向けられた。

……私、なにか変なこと言っただろうか。

「プロっすね、橘さん」

「気の強さは、静子さんにも負けてねぇな」

「ええ。だからこそ、任せられるんですよ」

くすくすと笑う三人を前に、私は不思議そうに首を傾げた。
面白いことなど、なにも言っていないつもりだったのに。

「冷めてるように見えて、芯はずいぶん熱いな。気に入ったよ。
今日は《燈衣》の“秘伝”、惜しみなく教えてやる」

――こうして私は、一日かけて職人たちの手仕事を辿り、
工房を出る頃には、空はすっかり夜の色に染まっていた。

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