パンで涙を拭って 第15話 #創作大賞2025 #恋愛小説部門
衣擦れの音が、肌に伝わる。
身にまとうのは、装飾を一切省いた黒無地の着物と帯。
だが、その“何もなさ”が、かえって清らかで美しいとさえ思えた。
「帯は名古屋帯にしてあるわ。少しでも身体の負担が軽くなるように」
静子さんの声はやわらかく、それでいて、どこか凛としている。
帯を締める手つきが、さらに一段と丁寧になっていく。
「喪の帯は、華美であってはならない。でも——あなたを守る鎧にもなるのよ。
だから、しっかりと結ぶわね」
きゅっと締められる感覚と共に、与えられた思いやりが胸の奥へと広がっていく。
最後に、鏡の前へと立つ。
黒一色の装いに、化粧気のない顔。
けれどそこには、“別れの場に立つ者”としての覚悟を纏った、今の私が映っていた。
静子さんは背後からそっと帯の形を整え、ひと言だけ、静かに告げる。
「……よく、お似合いよ」
私は、小さく、深く頭を下げた。
「いってらっしゃい。大丈夫。ちゃんと、あなたは背筋を伸ばしているわ」
それは慰めではなく、確かな信頼の言葉。
私は廊下へ出て、静かに歩き出す。
喪服のすそが、足元で緩やかに揺れた。
*
告別式の会場は、小さな式場の一室だった。
生花は控えめで、飾られているのは白百合だけ。
遺影は、あえて置かなかった。
参列者は、私と朝美の職場の方だけ——という事情もあるけれど、
今の彼女の姿が、きっといちばん綺麗だから。
それだけで、充分だった。
音楽もない静かな部屋に、遠くの方から靴音が響く。
現れたのは、喪服を着た初老の男性。
その手には、小さな紙袋が握られている。
黒縁の眼鏡がわずかに動き、私の姿を見つけて足を止めた。
「こちら……高橋朝美さんの、告別式でしょうか」
私はその声に振り向き、丁寧に会釈をする。
「はい。私、喪主を務めます橘瑞稀と申します。
朝美の職場の方でいらっしゃいますか?」
「ええ。同じ施設で働いておりました、吉崎と申します。
このたびは……ご愁傷さまでございました」
吉崎さんは、深く一礼した。
私も静かに頭を下げ、言葉を返す。
「急なご連絡だったにもかかわらず……ご足労いただき、ありがとうございます」
「とんでもございません。こちらこそ、お招きいただき、まことに感謝しております」
そう言って、彼は手にしていた小さな紙袋を差し出した。
中を覗くと、白い封筒がいくつも入っている。
「……こちらは?」
「朝美さんと親しくしていた同僚や、施設の入居者の方々が——
参列できない代わりに、お手紙を書かせていただいたんです」
その言葉を聞いた瞬間、手にした紙袋の重みが、よりずっしりと心にのしかかる。
これは、朝美が日々、懸命に生きてきた証。
彼女が誰かの心の中で、確かに“存在していた”という証明だった。
「お花にするか迷ったのですが……
こちらの方が、想いが届く気がしまして」
「……ありがとうございます。朝美も、きっと喜んでいます」
「中をご覧になりますか?」と問われたが、私はそっと首を振った。
きっと、どれも真心のこもった手紙だ。
だからこそ、それを自分の手で開いてしまうことが、どこかためらわれた。
朝美に向けられた言葉は、あくまで彼女とその人のあいだにあるもの。
——私は、ただ、預かるだけでいい。
土井さんと加藤さんが、私の近くへそっと近づく。
「橘様、そろそろ式を始めてもよろしいでしょうか」
土井さんの言葉に、私は静かに頷く。
ほどなくして、加藤さんの司会で開式の辞が始められた。
黙祷。そして、献花へ。
吉崎さんは、一つ一つの所作を丁寧に行っていた。
まるで、ここに来られなかった人たちの分まで、背負うように。
私は白い花と一緒に、預かった手紙の束を、朝美の顔の横にそっと置いた。
——向こうで、ゆっくり読んでね。
心の中で、そっと声をかける。
やがて閉式の辞が述べられ、告別式は静かに幕を下ろした。
出棺までの流れも、粛々と終わる。
吉崎さんとは、最後に少しだけ世間話を交わしてから別れた。
誰もいなくなった式場に、一人残される。
あとは、遺骨を受け取りに行くだけ。
それで、葬儀はすべて終わるはずだった。
けれど——私の中では、なに一つ終わっていなかった。
*
用意された車に乗り込み、火葬場へ向かう。
小一時間ほどして戻ってきたのは、真っ白な骨だけになった朝美だった。
確かに——これは、朝美“だった”もの。
けれど、目の前にあるそれを、私はもはや彼女とは思えなかった。
物質となった彼女を、そっと骨壺へ収める。
これで、儀式としての葬儀はすべて終わったことになる。
けれど、「やりきった」という感覚は、どこにもない。
これは悲しみの区切りではなく、始まりなんだと——私の中では、そんな気がしていた。
*
身体がこわばってしまう前に、喪服を返却するため《燈衣》へと向かうと、静子さんが店先で出迎えてくれた。
「お疲れさま」
ただ、それだけのひと言。
私は黙って頷き、着衣室へと通される。
きつく締められていた帯が、静かに解かれる。
支えていた何かが、それと一緒に、ゆるやかにほどけていくようだった。
すべてを脱ぎ終えたとき、静かに虚脱感が体を包む。
着ていたときよりも、むしろ今のほうが、ずっと身体が重く感じられた。
「これからの予定は、何かあるの?」
脱ぎ終えた喪服を手早く畳みながら、静子さんが尋ねてくる。
「はい。彼女の住んでいた部屋の片付けに行く予定です。
それと、警察の方に預けていた遺品を受け取れるか、確認しようと思って」
「また、ずいぶんと詰め込んでるわね」
少しあきれたような、それでもどこか温かな口調だった。
私は、苦笑する。
やるべきことがあるうちに、できるだけ片付けておきたい。
気を張っている今でなければ、きっと動けなくなってしまうから。
着替えを済ませた私は、静子さんに一礼し《燈衣》を後にする。
向かう先は——朝美の住んでいたマンション。
彼女が生きていた痕跡を、自らの手で消すために。
*
マンションの前には、すでに清掃業者と思しき車が停まり、作業員らしき人影が階段の前に立っていた。
私は小さく会釈しながら、その場へ歩み寄る。
「すみません、清掃業者の方でしょうか」
「はい、三葉清掃の者です。ご依頼いただいた橘さんでしょうか?」
「はい、そうです」
そう答えた私は、業者の方々を朝美の部屋へ案内する。
鍵を開けて中に入ると、彼らはさすがというべきか、表情ひとつ変えず黙々と室内を見渡し、状況を確認し始めた。
そして一通りの確認を終えた後、先ほど対応してくれた長身の男性がこちらへ向き直る。
「水回りと寝室には、そこまで大きな汚れはありません。今回はゴミの搬出と床の清掃が主になりますので、費用としては二十万円ほどを想定しています」
私は頷き、了承の意を伝えた。
それを合図に、すぐさま作業が始まる。
次々と運び出されていくゴミ袋。
あれだけ圧倒された散らかりようも、プロの手にかかれば、見る間に整っていく。
「ちょっと待って」と言いかけても、声を挟む間もないほどに。
最初は「これは一日では終わらないのでは」とさえ思ったのに、床が見え始めてからは早かった。
作業開始から一時間と少し——ほとんどの片付けが終わってしまった。
積み込まれたのは、2トン車の荷台が、ほとんど隙間なく埋まるほど。
多いのか少ないのかは、分からない。
ただ、これが——
彼女がここで暮らし、時間を積み重ね、何かを抱えながら生きてきたという証なのだと、私は思った。
「最後に、処分してもよいか、ご確認いただけますか?」
そう声をかけられ、私は部屋の奥、唯一整えられていた寝室へと足を踏み入れる。
そこは、最初に見た時と変わらず、手つかずのまま止まった様に佇んでいた。
処分の可否を問われたのは、衣類や靴、そしてベッドなど、まだ十分に使えるものたち。
しばらく悩んだ末、私はすべての廃棄をお願いした。
形見として、せめて一着だけでも、あるいは履きなれた靴だけでも手元に残そうかと考えた。けれど——ふと嫌がる朝美の顔が浮かんでしまい、その意思を尊重する。
寝室の片づけが終わり、清掃作業はすべて完了した。
私はクレジットカードで代金を支払うと、マンションの管理人・後藤に連絡を入れる為、スマホを取り出す。
また、あの声を聞かねばならないのかと、内心ため息が漏れそうだった。
けれど意外なことに、後藤の態度は以前よりも穏やかで、あの威圧的だった物腰も影を潜めていた。
鍵の返却は郵送で構わないとのこと。
そして通話の終わりには、「お疲れさまでした。ありがとうございました」という言葉まで添えられ、思わず別人かと、疑ってしまうほどだった。
最後の仕上げ清掃を見届ける頃には、すでに日が傾きはじめていた。
私は急いで、一つの場所へ連絡を入れる。田園調布警察署だ。
電話口に出た職員に自分の名前と用件を伝えると、すぐに担当の吉村さんへ繋がれた。
「橘さん、ご連絡ありがとうございます。遺留品は……あの日記のことですよね。遺書に該当する記載はなかったため、本日中にお渡し可能です」
「本当ですか。それでは、一時間後に伺いますので、ご対応をお願いします」
「はい、お待ちしております」
電話が切れると、私はそのまま警察署へと足を向けた。
受付ではすでに吉村さんから話が通っていたようで、手続きはとてもスムーズだった。
椅子に腰を下ろして待っていると、廊下の奥から足音が近づいてくる。
姿を現したのは、あの大きくて印象的なお腹を抱えて歩く吉村さんだった。
その手には、四冊の日記が透明な袋に入れられ、しっかりと握られている。
「橘さん、お待たせしました。こちらをお渡ししますね。通帳など一部の品については、もう少しだけお時間を頂戴します」
私は立ち上がり、両手で丁寧に受け取った。
その瞬間、ふっと“おかえり”という言葉が、胸の奥に浮かんだ。
「……どうか、なさいましたか?」
ぼんやりしていた私の顔を見て、吉村さんが少し心配そうに首をかしげる。
「いえ、なんでもありません」
私は微笑みながらそう答える。——そうだよね。
きっと、この袋に入った日記帳の方が、あの小さな骨壺よりも、ずっと彼女に近い。
朝美が、自分の手でペンを走らせ、引っかくようにして書きつけた言葉の数々。
そこにこそ、彼女の心が、体温が、そして魂が宿っている——そんな気がする。
私はもう一度、今度ははっきりと、ことばにして呟いた。
「……おかえり」
そう言って日記を抱きしめたその瞬間、
張っていた緊張の糸が、ごく小さく、しかし確かに、緩んだのだった。
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