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パンで涙を拭って 第15話 #創作大賞2025 #恋愛小説部門

衣擦れの音が、肌に伝わる。

身にまとうのは、装飾を一切省いた黒無地の着物と帯。
だが、その“何もなさ”が、かえって清らかで美しいとさえ思えた。

「帯は名古屋帯にしてあるわ。少しでも身体の負担が軽くなるように」

静子さんの声はやわらかく、それでいて、どこか凛としている。

帯を締める手つきが、さらに一段と丁寧になっていく。

「喪の帯は、華美であってはならない。でも——あなたを守る鎧にもなるのよ。
だから、しっかりと結ぶわね」

きゅっと締められる感覚と共に、与えられた思いやりが胸の奥へと広がっていく。

最後に、鏡の前へと立つ。

黒一色の装いに、化粧気のない顔。
けれどそこには、“別れの場に立つ者”としての覚悟を纏った、今の私が映っていた。

静子さんは背後からそっと帯の形を整え、ひと言だけ、静かに告げる。

「……よく、お似合いよ」

私は、小さく、深く頭を下げた。

「いってらっしゃい。大丈夫。ちゃんと、あなたは背筋を伸ばしているわ」

それは慰めではなく、確かな信頼の言葉。

私は廊下へ出て、静かに歩き出す。
喪服のすそが、足元で緩やかに揺れた。



告別式の会場は、小さな式場の一室だった。
生花は控えめで、飾られているのは白百合だけ。
遺影は、あえて置かなかった。
参列者は、私と朝美の職場の方だけ——という事情もあるけれど、
今の彼女の姿が、きっといちばん綺麗だから。
それだけで、充分だった。

音楽もない静かな部屋に、遠くの方から靴音が響く。

現れたのは、喪服を着た初老の男性。
その手には、小さな紙袋が握られている。
黒縁の眼鏡がわずかに動き、私の姿を見つけて足を止めた。

「こちら……高橋朝美さんの、告別式でしょうか」

私はその声に振り向き、丁寧に会釈をする。

「はい。私、喪主を務めます橘瑞稀と申します。
朝美の職場の方でいらっしゃいますか?」

「ええ。同じ施設で働いておりました、吉崎と申します。
このたびは……ご愁傷さまでございました」

吉崎さんは、深く一礼した。
私も静かに頭を下げ、言葉を返す。

「急なご連絡だったにもかかわらず……ご足労いただき、ありがとうございます」

「とんでもございません。こちらこそ、お招きいただき、まことに感謝しております」

そう言って、彼は手にしていた小さな紙袋を差し出した。
中を覗くと、白い封筒がいくつも入っている。

「……こちらは?」

「朝美さんと親しくしていた同僚や、施設の入居者の方々が——
参列できない代わりに、お手紙を書かせていただいたんです」

その言葉を聞いた瞬間、手にした紙袋の重みが、よりずっしりと心にのしかかる。
これは、朝美が日々、懸命に生きてきた証。
彼女が誰かの心の中で、確かに“存在していた”という証明だった。

「お花にするか迷ったのですが……
こちらの方が、想いが届く気がしまして」

「……ありがとうございます。朝美も、きっと喜んでいます」

「中をご覧になりますか?」と問われたが、私はそっと首を振った。

きっと、どれも真心のこもった手紙だ。
だからこそ、それを自分の手で開いてしまうことが、どこかためらわれた。

朝美に向けられた言葉は、あくまで彼女とその人のあいだにあるもの。
——私は、ただ、預かるだけでいい。

土井さんと加藤さんが、私の近くへそっと近づく。

「橘様、そろそろ式を始めてもよろしいでしょうか」

土井さんの言葉に、私は静かに頷く。

ほどなくして、加藤さんの司会で開式の辞が始められた。

黙祷。そして、献花へ。

吉崎さんは、一つ一つの所作を丁寧に行っていた。
まるで、ここに来られなかった人たちの分まで、背負うように。

私は白い花と一緒に、預かった手紙の束を、朝美の顔の横にそっと置いた。
——向こうで、ゆっくり読んでね。

心の中で、そっと声をかける。

やがて閉式の辞が述べられ、告別式は静かに幕を下ろした。

出棺までの流れも、粛々と終わる。

吉崎さんとは、最後に少しだけ世間話を交わしてから別れた。

誰もいなくなった式場に、一人残される。

あとは、遺骨を受け取りに行くだけ。
それで、葬儀はすべて終わるはずだった。
けれど——私の中では、なに一つ終わっていなかった。



用意された車に乗り込み、火葬場へ向かう。

小一時間ほどして戻ってきたのは、真っ白な骨だけになった朝美だった。

確かに——これは、朝美“だった”もの。
けれど、目の前にあるそれを、私はもはや彼女とは思えなかった。

物質となった彼女を、そっと骨壺へ収める。

これで、儀式としての葬儀はすべて終わったことになる。
けれど、「やりきった」という感覚は、どこにもない。

これは悲しみの区切りではなく、始まりなんだと——私の中では、そんな気がしていた。



身体がこわばってしまう前に、喪服を返却するため《燈衣》へと向かうと、静子さんが店先で出迎えてくれた。

「お疲れさま」

ただ、それだけのひと言。

私は黙って頷き、着衣室へと通される。

きつく締められていた帯が、静かに解かれる。
支えていた何かが、それと一緒に、ゆるやかにほどけていくようだった。

すべてを脱ぎ終えたとき、静かに虚脱感が体を包む。

着ていたときよりも、むしろ今のほうが、ずっと身体が重く感じられた。

「これからの予定は、何かあるの?」

脱ぎ終えた喪服を手早く畳みながら、静子さんが尋ねてくる。

「はい。彼女の住んでいた部屋の片付けに行く予定です。
それと、警察の方に預けていた遺品を受け取れるか、確認しようと思って」

「また、ずいぶんと詰め込んでるわね」

少しあきれたような、それでもどこか温かな口調だった。

私は、苦笑する。

やるべきことがあるうちに、できるだけ片付けておきたい。
気を張っている今でなければ、きっと動けなくなってしまうから。

着替えを済ませた私は、静子さんに一礼し《燈衣》を後にする。

向かう先は——朝美の住んでいたマンション。
彼女が生きていた痕跡を、自らの手で消すために。



マンションの前には、すでに清掃業者と思しき車が停まり、作業員らしき人影が階段の前に立っていた。
私は小さく会釈しながら、その場へ歩み寄る。

「すみません、清掃業者の方でしょうか」

「はい、三葉清掃の者です。ご依頼いただいた橘さんでしょうか?」

「はい、そうです」

そう答えた私は、業者の方々を朝美の部屋へ案内する。
鍵を開けて中に入ると、彼らはさすがというべきか、表情ひとつ変えず黙々と室内を見渡し、状況を確認し始めた。

そして一通りの確認を終えた後、先ほど対応してくれた長身の男性がこちらへ向き直る。

「水回りと寝室には、そこまで大きな汚れはありません。今回はゴミの搬出と床の清掃が主になりますので、費用としては二十万円ほどを想定しています」

私は頷き、了承の意を伝えた。

それを合図に、すぐさま作業が始まる。

次々と運び出されていくゴミ袋。
あれだけ圧倒された散らかりようも、プロの手にかかれば、見る間に整っていく。
「ちょっと待って」と言いかけても、声を挟む間もないほどに。

最初は「これは一日では終わらないのでは」とさえ思ったのに、床が見え始めてからは早かった。
作業開始から一時間と少し——ほとんどの片付けが終わってしまった。

積み込まれたのは、2トン車の荷台が、ほとんど隙間なく埋まるほど。
多いのか少ないのかは、分からない。

ただ、これが——
彼女がここで暮らし、時間を積み重ね、何かを抱えながら生きてきたという証なのだと、私は思った。

「最後に、処分してもよいか、ご確認いただけますか?」

そう声をかけられ、私は部屋の奥、唯一整えられていた寝室へと足を踏み入れる。
そこは、最初に見た時と変わらず、手つかずのまま止まった様に佇んでいた。

処分の可否を問われたのは、衣類や靴、そしてベッドなど、まだ十分に使えるものたち。
しばらく悩んだ末、私はすべての廃棄をお願いした。

形見として、せめて一着だけでも、あるいは履きなれた靴だけでも手元に残そうかと考えた。けれど——ふと嫌がる朝美の顔が浮かんでしまい、その意思を尊重する。

寝室の片づけが終わり、清掃作業はすべて完了した。
私はクレジットカードで代金を支払うと、マンションの管理人・後藤に連絡を入れる為、スマホを取り出す。

また、あの声を聞かねばならないのかと、内心ため息が漏れそうだった。
けれど意外なことに、後藤の態度は以前よりも穏やかで、あの威圧的だった物腰も影を潜めていた。

鍵の返却は郵送で構わないとのこと。
そして通話の終わりには、「お疲れさまでした。ありがとうございました」という言葉まで添えられ、思わず別人かと、疑ってしまうほどだった。

最後の仕上げ清掃を見届ける頃には、すでに日が傾きはじめていた。
私は急いで、一つの場所へ連絡を入れる。田園調布警察署だ。

電話口に出た職員に自分の名前と用件を伝えると、すぐに担当の吉村さんへ繋がれた。

「橘さん、ご連絡ありがとうございます。遺留品は……あの日記のことですよね。遺書に該当する記載はなかったため、本日中にお渡し可能です」

「本当ですか。それでは、一時間後に伺いますので、ご対応をお願いします」

「はい、お待ちしております」

電話が切れると、私はそのまま警察署へと足を向けた。

受付ではすでに吉村さんから話が通っていたようで、手続きはとてもスムーズだった。
椅子に腰を下ろして待っていると、廊下の奥から足音が近づいてくる。

姿を現したのは、あの大きくて印象的なお腹を抱えて歩く吉村さんだった。

その手には、四冊の日記が透明な袋に入れられ、しっかりと握られている。

「橘さん、お待たせしました。こちらをお渡ししますね。通帳など一部の品については、もう少しだけお時間を頂戴します」

私は立ち上がり、両手で丁寧に受け取った。

その瞬間、ふっと“おかえり”という言葉が、胸の奥に浮かんだ。

「……どうか、なさいましたか?」

ぼんやりしていた私の顔を見て、吉村さんが少し心配そうに首をかしげる。

「いえ、なんでもありません」

私は微笑みながらそう答える。——そうだよね。

きっと、この袋に入った日記帳の方が、あの小さな骨壺よりも、ずっと彼女に近い。
朝美が、自分の手でペンを走らせ、引っかくようにして書きつけた言葉の数々。
そこにこそ、彼女の心が、体温が、そして魂が宿っている——そんな気がする。

私はもう一度、今度ははっきりと、ことばにして呟いた。

「……おかえり」

そう言って日記を抱きしめたその瞬間、
張っていた緊張の糸が、ごく小さく、しかし確かに、緩んだのだった。

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