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パンで涙を拭って 第五話 #創作大賞2025 #恋愛小説部門

「着きました」

その声で目を覚まし、歪んでいた体を真っすぐに起こす。

「すみません、戻りにも使いたくて……待っていていただけますか?」

「ええ、かまいませんよ」と、運転手さんは笑顔で応じてくれた。

ひとまずここまでの運賃を支払い、外に出ると、夕暮れの風が首筋を撫でていった。
空には藍色が混じりはじめている。日が暮れる前に、終わらせてしまいたい。

朝美が暮らしていたというマンションは、三階建てのやや古びた建物だった。
外から見たかぎり、エレベーターはなさそうだ。

歩み寄ると、ヨレヨレの服装に白髪まじりの髪と浅黒い肌、タバコをくわえてつま先を小さく上下させている初老の男がいた。

――声のイメージ通り。きっと、あれが後藤だ。

「すみません。橘と申します。後藤さんでいらっしゃいますか?」

「ああ、やっと来たの。遅かったね」

――時間通りだが?

表情を崩さないよう、眉を引きつらせて笑ってみせる。
すると後藤は吸っていたタバコを無造作に地面へ投げ捨て、それを足で踏みつけた。

その光景に思わず目を剥く私。常識を母体へおき忘れてきたのだろうか?

「じゃあ、行こうか」

何も気にする事なくそう言って、蟹股で歩き出す後藤。
その背中を見つめながら、私は眉をひそめてそのあとをついていった。

階段を上がり、二階へ。
後藤が、コーヒーと喫煙で染み付いた苦い息を吐きながら口を開く。

「いやあ、実はね。近所から苦情が来てたのよ。ゴミの臭いがひどいってさ」

ゴミの臭い……?

咄嗟に聞き返す。

「あの、どうして今、ゴミの話を?」

「どうしてって、あんたの友達の部屋がゴミ部屋になってるからだよ。あれ?知らなかったんだ」

その言葉に、言葉を失った。

朝美の部屋が、ゴミ部屋――?

信じられなかった。
彼女はいつもきれいで清潔だった。乱れた姿なんて、一度だって見せなかったのに。
何かの間違いだろうと信じる。しかし、後藤が部屋の扉を開けた瞬間、目に入ってきた光景に絶句した。

レースカーテン越しの鈍い夕陽が照らすのは、
玄関の土間から奥のリビングまで、床材が一切見えないほど敷き詰められた灰色のゴミ。
どこか甘ったるく、それでいて酸っぱいこの匂いは、容器に残った残飯が据えた香りなのだろうか。

どうしてこんなになるまで、そもそも本当に朝美の部屋なの?

一瞬、息をするのも忘れた気がした。
──そして、無意識に視線を落としてから、私の目はまた、部屋の奥へと動く。

とりあえず、中に入ろう。そう靴に手をかけた瞬間――背後から声がかかった。

「いやいや、いいでしょ土足で。こんな所素足で歩けないよ」

悔しいが、こいつの言う事も一理ある。

しかし、初めて入る朝美の部屋を、どんな状況であれ土足では穢したく無くて、そのままストッキング越しの素足で踏み入れる。

体重をかけると、ガサっと音が鳴った地面の感触に戸惑った。
足が中に沈んでいくと思っていたのに、予想と反して恐ろしく硬い。きっと、何年も朝美がこのゴミ山を踏みしめるうちに、自然と圧縮されて固まったのだろう。
そのまま電気をつけると、部屋の様子がより一層明らかになった。
ぐしゃぐしゃになったペットボトル。冷凍食品のトレー容器や銀色のテラテラした袋。栄養ドリンクの入っていた瓶や空き缶。
それらはどこまでもグレーで、ざらついたモザイク模様のように、部屋の全てを覆っていた。

「だっらしない女だったんだなぁ」

ぷつんと、自分の中で何かが切れる。
限界だった。
その一言が、理性で固く施錠していた心の箱をひしゃげさせる。

「貴方、さっきから何なんですか?」

「ええ?」

こちらを僅かに睨もうとする後藤を、刺すように目を据えて睨み返す。
たじろいだ気配を逃さず、畳みかけるように研いだ言葉を吐きかけた。

「故人に対して、その言い方は失礼ですよね。しかも、友人である私の前で」

「いや、突然どうしたの、橘さん」

肩で笑う後藤へ向かい、一歩、距離を詰める。
私の影が、真っ直ぐと床に伸びていく。

「電話口での対応もそうですが、少しは、こちらの状況も考えてくれますか?
早く片付けてほしいという気持ちは分かります。でも、それを踏まえても――あなた、都合を押し付けすぎです。
“気遣い”という概念、ご存知ですか?」

もう、止まらなかった。
まるで私の皮をかぶった別人が、勝手に喋っているよう。
言葉が、堰を切ったようにこぼれ出していく。

「あと、人と会う身だしなみじゃないですよね。
首元は黄ばんでるし、シャツは皺だらけ。……鼻毛くらい、整えられなかったんですか? だらしない」

表情を引き攣らせながら、「いや、でも……」と小さく肩を折り畳んでゆく後藤。

「あなたみたいな人、本当に無理なんです。
他人の気持ちを平気で踏みにじっておいて、“普通に話しただけ”とか、“悪気はなかった”とか。
そう言えば、何をしても許されると思ってるんですよね」

「“女”だからって、舐めないでください」

……そこまで言って、ようやく自分を取り戻す。

「……もういいです。鍵だけ、貸してください。片付けが終わり次第、すぐ返しますから」

「あ、ああ。はい……」

差し出した右手の上に、後藤は鍵をそっと置く。
どこか後ずさるような足取りで、そのまま姿を消していった。

扉が閉まったのを確認して、私は深く息を吐く。

一体、どうしてしまったのか。
普段なら、あんな人間、適当に受け流して終わっていたはずなのに。
よりにもよって、自分がいちばん忌み嫌う“無神経な他人”に、ここまで心を乱されるなんて。

喧嘩腰になったところで、得るものなんてない。
“本音は隠して”――それが、私のポリシーだったはずだ。

想像以上に、気持ちが参っていたのかもしれない。
味覚が消えた原因も、きっとそのせいなのだろうか。

しかし、過ぎたことは仕方がない。
私は静かに両頬を叩いて、気持ちを切り替える。
今は、この部屋をどうするか、それだけを考えよう。

「とは思ったものの、どこから手をつけるか……」

検討すらつかず、思わずため息が漏れる。 

とりあえず、貴重品とかがないかだけ調べようと部屋を見渡す私。
すると、一室だけきっちりと引き戸式の扉が閉められた場所があった。
おそらく、寝室だろうか?
この現状では、きっとここも酷い有様だろう。
心の中で、ごめんと謝りながら恐る恐る扉を開ける。

「え……なんで?」

声が出た。
だってそこは、外の惨状からは想像もできないくらい、綺麗で清潔な所だったから。

皺ひとつない、まるでホテルのように整えられたベッドシーツ。
隅に置かれた衣類ラックには、つい先程クリーニングに出したような、外行き用の洋服が吊るされている。
ほかにも、埃なんて一切立っていないカーペットの隅には、新聞紙の上に置かれた数足の靴。
それに、ビニールで閉じられたパンフレット。
あれは、私が招待した展示会のものだ。こんなものまで......

部屋全体が、丁寧で几帳面に飾られていた。

どうしてここだけ。
そう首を傾げながら中へ進むと、目に入ったのは、ベッド横のローテーブルに置かれた数冊のノート。

木製のブックスタンドに挟まったそれを手に取り、開けようとして──止める。

理由はなかった。
だけど、なんとなく読んではいけない気がした。

でも、もしかしたらこの中に遺書が書いてあるかもしれない。
とりあえず警察へ提出するために、計四冊のノートを手に持つ。

他にも探すと、ベッドの下にあったのはお菓子のブリキ缶。
中には、通帳やハンコといった貴重品がジップロックに入って保管されていた。

それらを胸に抱え、窓の外を見る。
日はすっかり暮れていて、黒いガラスには疲れた自分の顔がぼんやりと映っていた。

貴重品は手に入れた。もう、今日は引き上げよう。
どうにも、身体が重い。頭もぼんやりしている。
眠気なのか、疲れなのか、それとも別の何かか。

……いずれにせよ、今すぐどうにかできる問題じゃない。
日を変えて、あらためて対応することにしよう。

ドアの前で、もう一度だけ寝室を振り返った。

朝美は、どうしてこの部屋だけを、片づけていたのだろう。

その理由に思いを巡らせても、やはり何も分からないまま。

私は灯りを落とし、戸締まりをして、外で待機してくれているタクシーへと戻っていった。

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