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パンで涙を拭って 第十三話 朝美の弔い #創作大賞2025 #恋愛小説部門

目が、開く。

見知らぬ和室。肌に触れる白い布団。ほんのりと畳の香り。

……どこだ?
そう戸惑った数瞬後に、思い出す。

――ああ、そうだ。朝美の、お葬式。

スマホを手に取り、時刻を確認する。午前五時四十分。
知らない場所にしては、よく眠れた方だ。それだけ疲れきっていたのだろう。

虚ろなまま辺りを見回すと、テーブルの上に置かれた葬儀の予定表が目に入る。
とりあえず今日の確認を。手に取り、ぼんやりと目を通す。

告別式は明日。
今日はとくに予定はないが、「朝美さんへのお化粧」の文字だけが、ぽつんと書かれている。

メイク用品は持ってきた。
何時から始めればいいか、あとで確認しないと。
それと――遺留品の日記についても、明日どうなるか聞き忘れないように。

……思考を回すたび、ズキズキと頭が痛む。
こめかみに手を添えると、脈を打つ血の流れが感じられた。
――まるで、「もう考えたくない」と訴えてくるかのように。

なにも、したくない。
このまま布団に突っ伏して、目を背けていたい。

でも、そうしてしまったら、本当に今日一日、動けなくなりそうな気がした。
私は両腕をついて、かろうじて身を支える。

心の奥に、小さな穴が空いている。
昨日は感じなかったはずの虚無感が、そこから静かに広がっていた。

頬を軽く叩く。切り替えの儀式。
……けれど、うまくいかない。

もう一度。今度は、強く。
ヒリヒリとした痛みが走って、ようやく身体を動かす気になれた。

空っぽのはずの胃が、鉛のように重たい。
腕を支えにして、病人のように立ち上がる。

ほんの最低限の身支度だけを整え、財布を持って部屋を出た。

――空腹すぎて、吐き気がする。
水だけでもいい。何か、少しでも口に入れておかないと。

式場内のロビーへ着くと、大きなガラス窓から外が見えた。
夜明け前の、青い朝。その静謐さに、少し怯える。

自動販売機で、温かいお茶を買う。
キャップを開けて一口飲む。
ジャボンと音を立てて胃の中に沈む液体。湧き上がるはずの茶葉の香りは、何も感じられなかった。
ただじんわりと、体が温かくなる。

近くにコンビニがあったはず。
食べ物を買いに行くため、私はそこまで足を伸ばすことにした。

自動ドアが開く。冷たい風がぶつかる。
まだ人々の喧騒で濁っていない、澄んだ空気。

アスファルトを擦る靴底の音が、どこまでも響いていくようだった。

雲の切れ間から、淡い陽光が差し込んでいる。
その光があまりにまっすぐで、私は思わず視線を足元に落とした。
あの色は、今の私には眩しすぎる。

背中を丸めて歩き続け、ようやくコンビニへ辿り着く。
握ったペットボトルはまだ温かく、指先を包み込んでくれた。

温もりを頼りにドアの前に立つと、軽快なチャイムと一緒に、眠たげな「いらっしゃいませ」が迎えてくれる。

店内の、乱れのない陳列棚。整然とした無機質さが、なぜか心地よかった。

私はマーガリン入りのソフトフランスをひとつ手に取り、会計を済ませる。
そしてそのまま、外の空気の中へ戻った。

袋を開け、一口かじる。
いつもなら簡単にむしれるはずのパンが、今日は歯を拒むように固かった。
奥歯まで押し込んで、ようやく引きちぎる。

必要以上に頬張ったパンが、喉をふさぐ。
ぬるっとしたマーガリンの舌触り。僅かな風味。

「そのうち、この味覚にも慣れてしまうんだろうな」

そう思って、自嘲気味に笑った。

でも、それも悪くないかもしれない。
味を感じられないうちは、きっとまだ、朝美のことを考えていられる。

お茶を一口含んで、私はふらりふらりと、葬儀場へと歩き出した。



部屋に戻り、服を着替えたあと、職場へ連絡を入れる。
今日と明日、確実に休ませてもらえるように。

さすがに山崎部長には、簡潔に状況を説明した。
親族ではないから忌引きは使えないが、「落ち着くまで有給を取っていい」と返事が来て、私は小さく安堵の息をつく。

すると、部屋の扉がノックされた。

時刻は、午前七時半を少し過ぎたところ。
喉の奥で小さく返事をして、私は立ち上がる。

「失礼します。担当の土井と申します。本日のお支度の件で、少しお伺いに……」

最初に対応してくれた、加藤さんの引き継ぎの方だ。
「はい」と返して扉を開ける。

「朝早くに申し訳ありません。昨晩は、ゆっくりお休みになれましたか?」

「ええ。お部屋を使わせていただいて、ありがとうございました」

互いに軽く頭を下げ合い、話は本題へ。

「朝美様へのお化粧のご希望を伺っております。ご安置室の準備は整っておりますので、いつでもご案内可能ですが、ご準備の方はいかがでしょうか?」

私は静かに頷く。

「メイク用品はもう準備してあります。少しだけ時間をください、すぐに伺いますので」

「かしこまりました。では、お部屋の前でお待ちしておりますので」

扉がパタンと静かに閉まる。

私は、バッグから化粧品と筆をまとめたポーチを取り出した。
胸の奥がざわついている。

亡くなった朝美を見るのは、これで二度目だ。
生きていた頃は、あんなにも会うのが楽しみだったのに。
今は——どうしようもなく、怖い。

一度目は、あまりにも突然だったから、感情が追いつかないままに過ぎた。
でも、こうして一晩を挟んでしまった今は、どうなるかわからない。

それでも。
彼女に、寂しい思いはさせたくなかった。

私は、道具を抱えるように胸に寄せて、土井さんが待つ部屋の外へと、ゆっくり歩いていった。



足音を吸い込むような絨毯。
冷たい空気が、背筋をまっすぐにする。

「こちらになります」

案内された安置室のドアの前で、土井さんは一礼した。
その所作が、まるで扉の向こうにいる朝美への挨拶のようで――私は思わず、息をのむ。

小さく礼を返し、静かにドアを開けた。



キツく冷房の効いた室内。
正面の低い台の上に、白い布団が敷かれている。
そこに、朝美は横たわっていた。

体は布団に覆われ、顔だけが外に出ている。
目は優しく閉じられ、本人確認の際に見たときに施されていた薄化粧は、すでにきれいに拭き取られていた。

もともと色白だったからか、血の気が引いたという印象はあまりなく、
まるで――ただ眠っているように見えた。

分かっている。
分かってはいるのに。

いまにも、いつもの声で「瑞稀さん」と呼ばれそうで。
胸の奥に空いた穴が、またひとつ広がっていく。

「部屋の隅でおりますので、終わりましたらお声がけください」

土井さんの声に私は頷いて、ポーチから道具を取り出し、ひとつずつ並べていく。

筆を握り、そっと頬へと毛先を当てた。
わずかな弾力と、冷たさの奥にある硬さ。
撫でるたびに伝わる死の感触が、指先を微かに揺らした。

息を吐く。手元が狂わないように、気持ちを込めて。

――変な顔になんて、絶対にさせないから。


頬には、薄桃色のチークをほんのひと刷け。
ふっくらとしたラインを、柔らかな光で包み込むように。

唇は、輪郭をなぞる程度のベージュピンク。
口紅というより、記憶の中の笑顔を映すための色。

肌には、明るさよりも“温もり”を意識して、
ファンデーションを控えめに重ねた。
冷たさを、少しでも覆ってあげたくて。

素朴な眉には、あえてなにも足さない。
朝美らしさが、一番よく出る場所だから。

「……どうかな」

返事なんて返ってくるはずもないのに、つい声に出してしまった。
完成したメイクを、改めて見つめる。

彼女の優しさが、そのまま残った顔だった。

薄桃色のチークで、ふっくらとした頬をやわらかく染め、輪郭にささやかな温もりを添える。
口元はベージュピンクで整え、記憶の中の笑顔と重なるように仕上げた。
ファンデーションは控えめに。血色ではなく、“ここにいる”ことを、そっと語りかけるように。

本当は触れてあげたかった。
でもそれはできなかった。
遺体に直接触れることは、きっと良くないことだと、理性が私を止めた。

――どこまでも、衝動的になれない自分。

ごめんね。抱きしめてあげられなくて。

そう心の中で謝り、私は土井さんに声をかける。

「お待たせしました。今、終わりました」

摺り足でこちらへと歩み寄ってきた彼女は、朝美の顔を見て微笑んだ。

「……素敵なお化粧ですね。本当に、よくお似合いです」

「ありがとうございます」

そう返して、私は目元をほんの少しだけ上げた。

「……お気持ちの方は、大丈夫ですか?」

“もう終えていいか”という意味が含まれた問いかけ。

「はい。ご無理を聞いていただき、ありがとうございました。おかげでちゃんと、お別れができます」

嘘だった。
気持ちの整理なんて、何もできていない。
もっと触れていたかった。
もっとしてあげたいことが、まだ山ほどある。

心の中で駄々をこねるように叫ぶ自分を、私は押し殺した。

「では、ご入棺のほう、進めさせていただきますね」

土井さんがドアの外に声をかけると、数人のスタッフが静かに入ってくる。

木製の棺の中へ、朝美の体が丁寧に納められていく。
ついさっきまで、すぐそこに彼女の気配を感じていたのに、
箱一つ隔てられただけで、こんなにも遠くなる。

棺の蓋は、明日までは閉じられないのだという。
だから私は、最後にもう一度、彼女の顔を覗き込んだ。

――また、明日ね。

心の中でそう呟いて、私は皆とともに部屋を後にした。



帰り道の廊下。前方に見知った人影があり、思わず声が出た。

「加藤さん」

こちらを見て、丁寧にお辞儀をする彼女に、私は早足で駆け寄る。

「昨日は本当に、色々とご配慮いただきありがとうございました。おかげで助かりました」

「いえいえ」と手を振る加藤さんは、やわらかく笑ってから、私の顔を見つめた。

「お身体の方は、大丈夫ですか? 少し、お疲れのご様子で……」

他人にわかるほど、やつれているのか。頬に手を当てると、確かに少し痩けて、骨ばっている気がする。

「今のところは、大丈夫です。……明日の告別式までは、なんとか」

そう答えると、加藤さんは心配そうな表情を浮かべつつも、静かに頷いた。

「ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか。喪服の件なのですが、ご準備がございましたら、こちらでお預かりいたします」

――しまった。

予定のことで頭がいっぱいで、服装のことまで気が回っていなかった。

「ご参列はごく少数のご親族様のみですので、スーツでも差し支えありませんよ」

その言葉に頷こうとしたけれど、やはり朝美との最後のお別れに、普段着のスーツというのは、避けたかった。

ふと、ひとつ案が浮かぶ。
燈衣で、喪服を借りることはできないだろうか。

静子さんか和彦さんに頼めば、当日でも何とかなるかもしれない。

「......もしかすると、喪服をお借りできるかもしれません。用意でき次第、持参して参列します。もし難しければ、スーツで伺います」

「承知いたしました」

加藤さんは一礼して微笑む。

「何かお手伝いできることがございましたら、どうか遠慮なくお申し付けください」

それだけ言って、私たちは別れた。

部屋へ戻り、帰宅の支度をしながら、静子さんにメールを送る。



『突然のご連絡、失礼いたします。
私的な要件で恐縮ですが、急遽明日の告別式で喪服が必要になりまして、
そちらでお借りすることは可能でしょうか?』



しばらくしてスマホが震える。



『もちろんです。急なご不幸があったのですね。心よりお悔やみ申し上げます。
サイズ合わせが必要ですので、今日中に本社の方へお越しいただけますか?』



思わず、胸をなでおろす私。

「ありがとうございます。夕方前には伺います」と返信を送り、荷物の整理を続けた。

手配してもらったタクシーに乗り込み、自宅へ向かう。

本当は昨日の運転手を指名したかったが、名前を聞きそびれていた。
――まぁ、またどこかで会えるだろう。

自室に戻り、荷物を置くと、すぐに燈衣へ向かう支度を始めた。

道中、ふと――
もし、佐々木君が制作中のレポートが完成しているなら、私から渡しておこうか。そう思ったが、すぐにやめた。

今は、仕事を休んでいる身だ。
余計なことをすべきではないし、何よりも――この状況と、きちんと向き合わなければ。

信号にもほとんど引っかからず、思ったより早く到着する。

タクシーを降りると、以前は仕事相手として通っていた燈衣の本社へ、
今は一人の客として、静かに歩みを進めた。


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