青ブラ文学部|もやいづな(舫い綱) 忘れが淵の 青い渦
山根あきらさんの #青ブラ文学部
「もやいづな(舫い綱)」というお題に応募しました。
その深い淵には、小さな土橋がかかっていた。
あたりには人家もない。
いつからあるとも知れぬ苔むした橋は、丈のひくい雑草におおわれている。
橋のたもとには桜の古木があって、青黒い渦を見下ろしていた。
風もないのに、時々うす紅色の花びらがはらはらと舞い落ちては、渦の中にすいこまれてゆく。
「ああ、遅かった。花が散っては……戻れない」
女は桜の古木を見上げて、つぶやいた。
あたりには、明るい光が満ちて、どこからともなくウグイスの鳴き声がする。
何もかもどうでもよくなるような、哀しいほどに晴れた空。
なんていい日だろう。
全てを終わりにするにふさわしい春のひかり……桜が散ったなら、それもいい。
女は橋のうえから、蒼い渦を見つめた。
ざぶん! とたったそれだけの水音。
後には、誰もいない静まりかえった橋。
その向こうで、またウグイスが鳴く。
ぐるぐると身体が回転している。
どちらが上か下かもわからないまま、強烈な力に引き込まれてゆく。
圧倒的な水圧に胸をふさがれ、息がつまった。
空からのひかりが頭上たかく、ちらりと見えたかと思うと
一転して視界は暗黒に変わりまた回転する。
ちぎれた記憶が、あざやかによみがえり、女におそいかかる。
列車は、小気味よいディーゼル音を響かせて山あいを走っていた。
大きな窓にぴったり張り付いて外を見ていた幼い娘が、うれしそうな笑い声をたてる。
「ママ。見て、きれい!」
「ほらほら、藍ちゃん。もうすぐ、おばあちゃん家に着くわよ」
その時だった。ギ-ッと車輪がきしんだ。
「えっ」
何かがおかしい、そう思う間もなく、突然ふわっと身体が浮いた。
轟音が耳にのしかかる。続いて、どんっとにぶい音。
どこかで、火花がはじける。悲鳴。あたりの風景がゆがんで斜めに傾いてゆく。
身体が奇妙にねじれて、激痛が走る。そばにいたはずの娘の姿がない。
やっとの思いで頭を回すと、砕け散ったガラスの破片の中で、
小さな娘の手足が信じられないような角度に曲がっていた。
クマのぬいぐるみが、宙を睨んだままころがっている
床に流れているのは、あの娘の赤いリボンだろうか?
「だれか助けて」「痛い」だれもが、うめいている。
ゆがんだ窓枠のあいだから、ぽっかりと空が見えた。奇妙に静かな空だった。
病院のベッドの上で気がついた時、青ざめた夫の顔がじっとのぞき込んでいた。
「よかった。気が付いたか。もう大丈夫だ」全治二ケ月と告げられた。
「藍ちゃんは?」
娘はどこにいるのだろう? 真っ先に頭をよぎったのはその事だった。
幼い娘は集中治療室にいるが命に別状はない、とまわりの者は告げた。
女はそれを信じるしかなかった。
だが、退院して自宅に帰った女を待っていたのは、あどけない笑顔の写真だけだった。
全ては終わっていた。
その時から、まわりの景色は変わった。
全てが色を失い、何もかもが透明なガラスの向こう側にあった。
手をのばしても、ただ胸が痛むばかりでその風景の中にも女の居場所はない。
公園で戯れる親子連れは、憎しみの的となった。
どうして光は振りそそぐ? 私の世界は、何もかもが真っ暗だというのに。
「奥さん、このたびは……」
顔を会わせる近所の者は、言葉に詰まるように口ごもり、目をふせる。
その気遣うような視線と言葉は、胸に突き刺さった。
( 私を見るな、さっさとどこかへ消えうせろ ) そんな思いを押さえて、無理にほほえんでみせる。
やがて、夫はしだいに帰りが遅くなった。
「きょうも遅くなるよ」この頃はそんな言葉もない。
顔をつきあわせていると、かえっていろいろな事を想い出すからと
しなくてもいい残業に時をつぶし酔って帰る。
ひとり取り残された女は闇の中に沈んだ。
「誰にも会いたくない」カーテンを締め切ったままの室内にも夜はやってくる。
娘のお気に入りだった鳩時計が、人気のない部屋の中で陽気に歌い始めた。
手元にあったクリスタルの灰皿をたたきつけて、鳩時計を黙らせると、
まるであやつり人形のように、サンダル履きのまま外に出た。
誰にも会いたくなかったはずなのに……今は、なぜか人ごみと灯りが恋しかった。
あれ以来、駅に近づくだけで、いつも不安が胸に立ちこめ、列車にも地下鉄にも乗ったことがない。
あの情景と音が染みついた身体は、容易に彼女の意志を受け容れなかった。
だが、今夜はそんな自分を痛めつけるように、歯をくいしばって最寄り駅に向かった。
あたりは、家路を急ぐ通勤客でごったがえしている。
階段を上りきると、ホームの端に、こんな時間にはめずらしく幼い子供が一人で立っていた。
クマのぬいぐるみをしっかり抱いた、髪の長い女の子の後ろ姿に、一瞬目を疑った。
「……藍ちゃん?」思わず、駆け寄ろうとした時
「ママ!」
少女は、売店から戻って来る母親らしい若い女に向かって、甘えるように叫んだ。
母親はこぼれるような笑顔で近づくと、愛しそうに少女の髪にふれながら何かうなずく。
女はくちびるをかみしめた。
やり場のない怒りがこみ上げて、まわりの風景が一瞬はじけとび、遠く白くかすんだ。
後方から近づいて来る列車の音を、母親は気にしている。
そのとっさの隙に、女の手がひとりでに動いて少女の肩を押した。とても簡単だった。
振り向いた少女が、あれっという不思議そうな表情になったまま、ホームから落下してゆく。
クマのぬいぐるみを、抱きしめたままだ。
「三番線に列車が入ります。下がってお待ち下さい」
雑踏のざわめきの中で、無情なアナウンスが流れ、列車はブレーキをかける気配もない。
吐き気とめまいに耐えかねて、ふらふらと女は座り込んだ。ああ、わたしは何をしたのだろう?
「どうしたんですか、大丈夫ですか?」
「ママ、おばちゃん泣いてるよ」
ホームから突き落としたはずの少女が、わずかに首をかしげて不思議そうに、のぞき込んだ。
「藍ちゃん!」その顔がもう一度、娘の面影に重なってくずれる。
「ああ、違う。ごめんなさい」
何事もなかったように、列車はホームの人ごみをかすめて停車した。
女は顔を覆うと、よろめきながら立ち上がり、けげんそうなあたりの視線から逃れるように歩き出す。
わたしは、なんて恐ろしいことを考えてしまったのか、震える両手のこぶしを強く握りしめたまま、
雑踏を抜け、しだいに早足になってホームの階段を駆け下りた。
息を切らして走っても、どこにも行くあてはない。
真っ暗な部屋に帰る事もできず、人気のない公園のベンチに腰掛けた。
じっと身じろぎもせず、近くの池を見つめていると、ぱちゃんと何かの跳ねる水音がした。
にぶくまたたく水銀灯に照らされ、池の面にかすかな波紋が広がってゆく。
ざわざわと風が吹いて、蕾のほころびかけた桜の枝を揺らした。星空が妙にうそ寒かった。
「もうすぐ桜も咲くんだ……ね」心の中でつぶやいた時、突然ある記憶がよみがえった。
むかし読んだ古い本に載っていた奇妙な話。
桜の季節にその淵に身を投げれば、何もかも忘れて戻ってこられるという「忘れが淵」。
たしか地方の民話だった、と思う。
そんなものあるわけない、幸せいっぱいだったあの時は気にも止めなかった。
そんなものあるわけない……でも、今は嘘なら嘘でかまわない。
どうせもう、この世のどこにも居場所などないのだから。
あの本は、学生時代の荷物の中にまだあったはずだ。
そうだわ、早く行かなければ、桜が散ってしまう……女は何かに憑かれたように暗い我が家に引き返した。
今、蒼い渦の底から何者かが問いかける。
「忘れたいのか?」
「忘れたい。なにもかも!」
記憶の断片のなかで女は叫ぶ…髪に結んだ赤いリボンがあの子の肩でゆれていた、あの日。
何もかもが砕け散ったあの日。未来がこわれてしまったあの日。このままでは、生きてゆけない。
だが、その瞬間、言葉にならないためらいがこみ上げた。
いや……だ、わすれたくないあの娘のことを。だが、すでに意識は遠のいてゆく。
「忘れなさい」
ためらいを切り捨てるように、渦に巻かれた花びらが優しくささやいた。
女は心の奧で静かにうなずく。
「その願い、聞きとどけよう。
そなたを苦しみに繋ぎ止めている 舫い綱を切り離す!」
ひとときの後に、女は流れのほとりに横たわっていた。
なにもかも忘れて……風に揺れる赤いリボンも、そのリボンが失われたことも。
全ての悪夢が消え去った真っ白な記憶の中で、ただウグイスの声だけが聞こえている。
女のくちびるには、いつしか柔らかな微笑みが浮かんでいた。
山根あきらさんの #青ブラ文学部 に参加させていただきます。
これはお題を頂いてから書いたものではなく
何年か前の作品に、舫い綱の一行を加筆したものです。
そういった事情と、ちょっと長すぎる点を含めて
応募が許されるなら、どうぞよろしくお願い致します。
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