富を生み出す「悪魔の挽臼」
カール・ポランニーは著書『大転換』の中で、市場経済の拡大を「悪魔の挽臼」と呼んだ。挽臼とは穀物を粉に砕く石臼のことだ。近代以前の社会に張り巡らされていた共同体の紐帯——互いに助け合い、贈り合い、ケアし合う関係性——を、市場という巨大な石臼が容赦なく挽き砕いていく。その光景をポランニーはそう形容した。
共同体が解体される過程で、奇妙なことが起きる。それまで「無償」で行われていた行為が、貨幣を介した取引に置き換えられるたびに、GDPという数字が膨れ上がっていくのだ。隣人が子どもの面倒を見てくれていたのが保育所に、家族が老いた親を看ていたのが介護施設に、地域の祭りや共同作業が観光産業やイベント業に変わる。贈与と相互扶助のネットワークが壊れるほどに、経済は「成長」する。挽臼は粉を生産しながら、人間の絆そのものを消費していく。
人間の贈与と相互扶助のネットワークは、自然発生的に生まれたものであり、ゲーム理論による合理的な帰結で誕生したわけではない。つまり、贈与や相互扶助を好む、脳の報酬系アルゴリズムが存在した。共同体社会は挽臼によって粉々になったが、私たちの脳の仕組みは、バージョンアップしていない。このアルゴリズムは、いまや「脆弱性」と認知されている。ハッキングされ、消費経済活動を促進するために利用される文字通りの脆弱性だ。
「何かをもらったら返さなければならない」というアルゴリズム「返報性の原理」は、小さな親切や利益によって脳を「お返しモード」にして金品を差し出させる詐欺、無料サンプルによるマーケティング戦略に利用される。
共同体の中での「贈与と承認」のプロセスは、推し活や投げ銭というように、デジタル化・商品化した。推しやインフルエンサーとつながりを感じさせ、贈与の関係を演じさせることで、際限なく金銭的価値を絞り出すシステムを構築する。
市場は、満足して立ち止まられると止まってしまう。そのため、一時の充足感(ハッキングによる快感)を与えつつも、すぐに「もっと新しいもの」「もっと上の承認」を提示する。この「満たされなさを維持する構造」そのものが、恒常的な空虚感を生み出す。脳の報酬系が刺激され続けるのに、欠乏感、満たされなさから逃れることはできない。
搾取される側だけでなく、搾取する側も虚しさを感じている。巨万の富を築いてFIREや、EXIT(事業売却)しても、心は満たされない。自分が裸の人間になった時、誰も自分を見てくれないという恐怖がある。CEOであれば、従業員や取引先が、価値ある人間として敬ってくれたのに。
再び現場に戻ったり、過剰な承認欲求をSNSで垂れ流したりするのは、「生身の人間として他者に必要とされたい」という生存本能からだ。彼らもまた、交換不可能な「絆」を失い、地位や数字という記号に依存する孤独な空虚の中にいる。
無限の富を生み出す加速装置
そしていま、その挽臼に強力なエンジンが取り付けられようとしている。AIである。
AIは、これまで人間にしかできないとされていた領域——労働、判断、そして創造——を次々と自動化する。肉体的な労働が機械に代替されてきた産業革命の延長線上にあるようでいて、決定的に異なるのは、今回は知性や表現行為そのものが対象となっている点だ。書くこと、描くこと、作曲すること、問いを立てること。人間が意味を見出し、他者とつながるための行為が、効率と規模の論理によって人間から引き剥がされていく。
AI自動化経済の推進者たちはこう語る。生産性が指数関数的に高まり、富は無限に近い速度で増殖する。やがてすべての人が溢れんばかりの物質的豊かさを享受できる、と。確かに経済指標の上では、そのような未来が訪れるかもしれない。GDPは天井知らずに膨張し、モノとサービスの量は想像を絶するほど増えるだろう。
しかしここで立ち止まって考えなければならない。豊かさとは何か、と。
挽臼が回り続ける社会では、欠乏感そのものが商品として製造される。かつての欠乏は食料や住居など物質的なものだったが、今日の欠乏は巧妙に更新され続ける。最上位のAIサービスプランを契約していない、AI技術によって自動利益を生む企業を所有していない、アルゴリズムが推薦する最新の体験をしていない——そのたびに「あなたはまだ足りていない」というメッセージが送り込まれる。欠乏の内容が変わるだけで、欠乏感は永遠に再生産される。なぜなら不満こそが消費の原動力であり、挽臼を回し続ける燃料だからだ。
その先に待つ未来は、物質的には飽和しながら、精神的には慢性的な渇きの中に生きる世界かもしれない。AIが生み出した富に囲まれながら、24時間「あなたはまだ不幸だ」というメッセージを浴び続ける。報酬系は絶えず刺激されながらも、本物の充足には決して届かない。贈与も、相互扶助も、誰かのために汗をかく喜びも失われた社会で、人は何によって生きる意味を感じるのか。
ポランニーが描いた悪魔の挽臼は、回転を止めるどころか、AIという加速装置を得て、かつてないほどの速度で回り始めている。
