「たなざらし」となった最終利下げ ~西野智彦の金融取材ファイル#45
こんにちは。「プラザからバブルへ」編の第5回です。
1986年。宮澤喜一蔵相の登場は、日銀の金融緩和にますます拍車をかけました。米国から為替安定の「約束」を取り付けるには、公定歩合引き下げというカードを切るしかないというのが、財政再建を目指す大蔵省の大方針だったのです。(写真はルーブル美術館。歴史的なG7会合はこの宮殿内で開催された)
◆羽田に向かう車中から追加利下げ求める
為替安定に向けて1986年10月に公表された日米共同声明の効果は長続きしなかった。87年に入るとEMS(欧州通貨制度)内の調整不足を契機に西独マルク高・ドル安が進み、これが飛び火する形で円高・ドル安が再燃した。
政府・日銀は東京だけでなく、ニューヨーク、ロンドン、シンガポール市場でも為替介入に踏み切るなど徹底抗戦したが、1月19日、ついに防衛ラインとされた1㌦=150円の大台を割り込む。危機感を抱いた蔵相の宮澤喜一は急きょワシントンに飛び、財務長官のジェームズ・ベーカーと直談判しようと決意した。
大蔵事務次官の吉野良彦から日銀副総裁の三重野康に追加利下げの要請があったのは、この宮澤訪米の直前のことである。
三重野のオーラルヒストリーによると、吉野は「宮澤さんが日銀も協力してくれないかと言っていますけれども、どうですか」と遠回しに聞いてきた。「公定歩合を下げてほしい」といった直截な言い方ではなかったという。
当時、宮澤は主要国が為替安定のためマクロ政策で協調することを明確に打ち出すべきだと考えており、「それを持っていくための呼び水というか、捨て石というか、やっぱり日本側から差し出そうと。それは内需振興。(中略)それと公定歩合引き下げと、これを持って行きたいと考えられた」と三重野は証言する。
すでに公定歩合は史上最低水準で、マネーサプライ(通貨供給量)の増勢を背景に資産価格は上昇を続けていた。このため、追加緩和は「あまりやりたくなかった」と三重野は言うが、これ以上の円高を食い止めなければならないと判断、要請に応じる腹を固めた。
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