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流通するすべてのお札に「証紙」貼り ~西野智彦の金融取材ファイル#58

こんにちは。「預金封鎖から80年」編の第3回です。
敗戦後の日本経済をゼロから再建しようと、大蔵省の中堅官僚が「預金封鎖」「新円切り替え」という空前の荒療治に乗り出しました。たび重なる空襲で印刷工場の多くが破壊され、さまざまな物資が不足する中、通貨の切り替えというプロジェクトはどのように進んだのでしょうか。(写真は本文と関係ありません)

印刷能力が最大のネック
情報漏れを極度に警戒

 1945年8月の終戦から4カ月後、大蔵省は預金封鎖と新円切り替えの方針を固め、本格的な準備に入った。
 「金融緊急措置」と命名された極秘プロジェクトを担ったのは、銀行課長の河野通一(のち日銀副総裁)、文書課長の愛知揆一(のち蔵相)、そして戦後緊急対策企画室幹事の西原直廉(のち理財局長)。いずれも課長クラスである。

 3人は方針決定の前から綿密な図上演習を行っていたが、大きな壁にぶつかっていた。河野は後の座談会でこう回想している。
「古い札と新しい札を替えなければいけない。一体どうしたらいいかと。あの当時の印刷能力というのは、新しい札を刷るするなんてとてもできない」(「ファイナンス」72年4月号)

 累次の空襲で印刷工場の多くが破壊され、停電が頻発し、輸送能力も不足していた。西原によると、日銀券の製造には通常凹版印刷を用いるが、それが難しかったため、暫定的に平版印刷を民間委託したいと考えた。だが、GHQ(連合軍最高司令官総司令部)は認めなかったという。

 印刷能力に加えて、もう1つ課題となったのが秘密保持だ。もし通貨交換の情報が事前に漏れると、社会が混乱に陥るのは目に見えていた。新札を大量に印刷・運搬しようとすれば、どこからか情報が漏れ出すおそれがある。

 河野は「何分にも短期間のうちに実施しなければならないし、事柄の性質上、事前にこの問題が漏れるということを心配いたしたのであります」と振り返る(戦後財政史資料「通貨措置の諸問題」)。

 議論を重ねるうち、事務次官の山際正道(のち日銀総裁)が妙案をひねり出した。流通している日銀券を回収して「証紙」を貼り、新券が印刷されるまで「暫定的な新札」として使うというアイデアだ。戦時中、消費統制のため一時検討されたことを山際は覚えていた。

 証紙とは切手や収入印紙のような数cm角の印刷物で、日銀の貨幣博物館の図録によると「證紙・拾圓」「證紙・百圓」などと印刷されている。たまたま印刷局にあった切手6枚つづりの凹版を転用し、手押し作業で印刷したという。

 河野はオーラルヒストリーで「ことさらに何の目的を持って刷っているかということをわからぬようにしておかなければならぬということで、ああいう変チクリンな証紙ができた」と解説する。

 当時蔵相だった渋沢敬三も「これならパーセルポスト(小包郵便)でどこへでも届けられる。みんなで貼ればそのまま旧円が新円になる。(中略)それで秘密裏に印刷の方に回した。印刷会社もなんだかわからないままに作ってきた。これは実に秘密がよく保てた」と話している(60年8月「金融界の回顧」都市銀行研修会講義集)。

「ならば蔵相を辞します」
GHQの反対を覆す

 だが、GHQ(連合軍最高司令官総司令部)に話を持ちかけたところから、事態は混乱し始める。

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