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《天御中主尊》霊視録──謎の天津神《天御中主神》を霊視する──




天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神。次高御産巢日神、次神産巢日神。此三柱神者、並獨神成坐而隱身也。

天地の初めて発けし時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)。次に高御産巣日神(たかみふすひのかみ)、次に神産巣日神(かみむすひのかみ)。此の三柱の神は、みな独神と成り坐して、身を隠したまひき。

『古事記』上巻


高天原所生神名、曰天御中主尊、次高皇產靈尊、次神皇產靈尊。

高天原に生れます所の神の名を、天御中主尊(あまのみなかぬしのみこと)と曰ふ。次に高皇產靈尊(たかみむすひのみこと)。次に神皇產靈尊(かみむすひのみこと)。

『日本書紀』巻一


 私はインド主義者なので、日本の神話や古代史に関しては比較的、疎い。ここが私の知識のウィークポイントと言ってもいいだろう。今生では日本人として生まれることができたので、日本人としての使命を全うし、このNoteを始めたのをきっかけに、「日本」とは何か、「日本人」とは何者なのかという問いと共に研究を行なっていきたいと思う。
 インドとは何か?インド人と何者なのか?と言われれば、霊的・民族学的・考古学的・歴史的にかなり専門的に説明ができる。例えば、インド人とは、イランのザクロス山脈に由来するイランの初期農耕民とドラヴィダ人の祖先となる人々との混血からなるインダス文明の担い手の混合民族と、そこに北方からやって来たアーリヤ人との混血からなる人々、さらに古い先住民のムンダ系の人々から構成されたものであり、従来のアーリヤ人とドラヴィダ人との二項対立によってインド人は理解することはできないというのが近年のゲノム解析の成果である。つまりイラン由来のザクロス山脈に由来するイラン系初期農耕民の第三項の理解が不可欠なのである。
 私は過去世ではインダス人だったこともあるが、霊視録でも頻出するインドラ神を信奉するアーリヤ人集団で転生していた回数が一番多い。現代インドにおいてインド人とインドラ神との関係はほとんどその紐帯が切れたと言ってもいいが、私は個人的にインドラ神との関係がかなり古い昔から続いているので、結果、今でもこうして霊視録にインドラ神が頻出するということになるのだろうと考える。また私がサンスクリットをマスターできたのも過去世の熏習の影響であり、サンスクリットの語彙の響きの一つ一つが私に官能的な喜びを与えるので、可能になったとも言い得るのである。「ヴィバクタ」「ダルマン」「プラダーナ」などこういう響きがそれだけで心地よいのである。英語、ラテン語、ギリシア語などではこういった感覚は皆無である。
 ともかく私の最近の関心は、廣松渉の『《近代の超克》論』を読んで以来、戦前の「国体」思想に向かっている。そして最近は、丸山眞男を再読している。彼の論文で一押しは『日本の思想』であるが、しかし一番有名なのは『超国家主義の論理と心理』であろう。昨日から、私はそれを4度目くらいで読んでいるのだが、廣松の『《近代の超克》論』を読んで、いささか戦前に対する解像度が上がり、ようやく丸山の『超国家主義の論理と心理』の論旨が判然とした。
 ここでは、丸山の論文の研究をする場ではないので詳細は避けるが、簡単に要約すると以下になる。
 西洋に起源する近代国家は、宗教改革による旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)との熾烈な争いと、王権神授説に基づく、絶対君主を中心にする王政と平民階級との闘争の中で生じ、漸次、絶対君主がその権力を平民に明渡し、内面としての信条・信仰の自由と外面としての公権力は法体系による公的秩序の保持にその役割が制限されることにより、内面と外面との明確な境界付けにより成立したものであった。
 ところが、丸山が指摘する通り、日本は近代国家の内面と外面の明確な区分を表明することなく、「日本の国家主権は内容的価値の実体たることにどこまでも自己の支配根拠を置こうとした(丸山)」。つまり、西洋の近代国家において峻別された信条・信仰の自由、そしてキリスト教的価値と世俗的価値との葛藤の生じる内面的な、国家の不可侵のその場に、日本においては天皇を中心とする精神的権威と政治的権威を一体とする国体が、その場を占有しようとしたのである。
 そしてこのような内面と外面、両面の統御原理によって、その臣民の内的意識は、天皇という究極的実体との近接度及び親近度によって規定されることになる。軍隊は「皇軍」であるが故に優位し、華族は「皇室の藩屏」であるが故に優位する。かくて総理大臣といっても「陛下の御光がなかったら石ころにも等しいのだ(東条英機)」といった発言が可能となる。そしてそこに「抑圧の移譲による精神的均衡の保持(丸山)」が生じる。
 例えば、皇軍において、上官に殴られれば、兵卒は、天皇との親近度が自己より低い、下位の者をさらに殴ることでその精神的均衡を生じさせるのである。そしてこの打擲は、天皇の御光による愛のある打擲として正当化される。現代における日本人の空気を読む、同調圧力に、さらに戦前においては、上から下への抑圧の体制と、下から上への讃仰の垂直軸が存在していたのである。
 しかし、このような垂直軸の最上位に位置する天皇も決して自由な存在ではなく、「神武創業の古」への復帰において、その権威は正当化されることになる。現存の生きる人々の形成する国体に、さらに死した祖先としての皇祖皇宗もろとも一体となり、このような起源へと遡行する時間軸により天皇と皇国の威信が根拠付けされるのである。かくして神武創業以来の万世一系の天皇家を中心として価値の無限の流出により、「八紘為宇」的スローガンが完成するわけである。
 ここにおいて「皇国武徳」の拡大が超国家の論理として中心価値化して、日清・日露戦争、満州・支那事変、そして太平洋戦争へと突き進んでいったというのが丸山の分析の大まかな主旨であり、こうした中で主体としての臣民の意識が、近代国家の主権者意識からどれほど隔たっていたかというのがその論文から浮き彫りになるわけである。
 私が合気道を初めて習っていた時も戦前の皇武館的な雰囲気を僅かに残されていて、道場には「神武元来無二道(神武元来、二道無し)」と大書された掛軸がかけられ、大いに私の大和魂は触発されたものである。
 『超国家主義の論理と心理』において丸山眞男の提示する、当時の臣民としての国民意識に植え付けられていたイメージは、神武天皇以来の万世一系の天皇の皇統の流れがあり、その流れに今上天皇が位置し、さらにその天皇から華族、皇軍、政治家、臣民などが放射・波紋状にその親近度と近接度により位階付けされ、それが一体として国体を形成する。またそれは精神的権威と政治的権威が一体となったものであり、内面・外面を共に統御し占有し、そこから植民地、全世界へと「八紘為宇」の下で威光を拡大していくものと捉えられていたのであった。そしてそれは西洋的な近代の限界を突破するものと期待もされ、それによって日本における『近代の超克』が語られたのでもある。
 そしてようやく本題であるが、このようなイメージの絵巻物の最も始原に位置するのが今回の霊視のターゲットである《天御中主尊》なのである。








 半跏趺坐して、数分間、瞑想に入る。呼吸を意識し、いつもの方法で変性意識に入る。その後、幾つかの過程を経て、第三の目付近にある特殊な方法で、霊界へと続くポータルを形成し、その先にターゲットとしての「天御中主尊」を念ずる。──そして視界が開ける。






中国の古代の官僚のような服を着た人が、何か書き物をしているヴィジョン



明らかに《天御中主尊》とは場違いな映像なので霊視ではなく自分の想像なのではないかと疑う(分析判断)



このヴィジョンしか思い浮かばないので、インドラ神の下に行き、意識を強化する



さらにヤマ神の下に行きアストラルトラベルの意識を集中させる



この二柱の神の下に行くのがお決まりのようになっている(分析判断)



さらに今回は以前、霊視した《国常立尊》の所にも行きアストラルトラベルの意識を強化し、助走をつける



ヴィジョンとしての扉を作り、再度《天御中主尊》の意識を向ける



同様の古代中国の官僚風の人が書き物をしているヴィジョン



МDを召喚し、ヴィジョンの意味を確認すると、《天御中主尊》はこの人物の創作であり、神格としては実体のない存在と言われる



でも北極星だとか、この宇宙にも中心的な創造神としての神格存在がいるはずなので、それに該当するのではないかと不満を覚えるがヴィジョンはそれ以上でもそれ以下でもなく、《天御中主尊》がこの人物の創作であるようで発展しない(感情的判断かつ分析判断)



ついでに《高御産巣日神》と《神産巣日神》も霊視しようとする



別のヴィジョンとしてお寺のような、平城京や平安京にあるような古い建物の門が見え、その先に大きな建物があり、その建物から行列が進んでくる



天皇の行列のようである



МDに確認すると《天御中主尊》も《高御産巣日神》《神産巣日神》も天皇家の霊統の権威付けの為に創作された神であるという回答



こうなると『古事記』の内容より、『日本書記』の内容の方が実際に近いようであり、『日本書記』よりは普通に『古事記』の方が好きな私には不満である(感情的判断)



インドラ神の下に行き確認すると、《天御中主尊》も《高御産巣日神》《神産巣日神》も知らないというそっけない反応である



あるレベルの霊的宇宙の中心的な創造神がいるならばそれが《天御中主尊》に相当するのではないかと伝えると、日本という国の成り立ちに関わる神は《国常立尊》が最高であって、《天御中主尊》《高御産巣日神》《神産巣日神》も創作であり、『日本書記』は歴史の方に関心が深く、霊統の正統性や権威付けに関心が浅かった為に、神統記の部分において実情に忠実であり、『古事記』は創作的であると説明される



言われてみれば《国常立尊》は大本教の影響なのか、小学生高学年くらいから知っていて名前を常に心に記銘されていたのだが、《天御中主尊》《高御産巣日神》《神産巣日神》の三柱の神名はこの霊視の為にようやく覚えたくらいである。《国常立尊》だけ言霊が強いのか、その印象の強さが思い出され、《天御中主尊》《高御産巣日神》《神産巣日神》の言霊の力の弱さが実際の神格の不在を伝えているのかも知れないとようやく今回の内容に納得する(分析判断)




生成AIによる《天御中主尊》の霊視のイメージ画像





《天御中主尊》の霊視の分析研究



 私は『古事記』には愛着があるが、『日本書紀』はあまり好きではない。『日本書紀』では《国常立尊》が神統記における最も始原の神であり、《天御中主尊》はある一書に言及があると述べられているに過ぎない。しかし『古事記』では明確に《天御中主神》が最初の神として言及されている。《国常立尊》は、その名称からしても国産みの神であるから、どうしてもそれより上位の神格を予想させるので、《天御中主尊》は、ブラフマンに相当する存在か、無色界の中心にいる神といった私の予想であったが、その予想は外れて、単なる創作された神格であるということが今回の霊視の結果である。『日本書記』は歴史書としての意図はあるが、神話に関してはあまり創作的な関心が低かった為に、実際の状況を反映したというのが実情のようであり、神話に関しては『古事記』にはある種、思想的な創作意図が存在していたと結論され、私としては残念な霊視結果となった。
 しかし、よくよく考えてみると《くにとこたちのみこと》はなかなか字面としてはごちゃごちゃしている割に響きに言霊的な力強さがあるのか、唱えやすく、《あまのみなかぬしのかみ》《たかみむすひのかみ》《かみふすひのかみ》はどれも力強さがなく、心に響かないので、今回の霊視をするまではなかなか覚えられない神格名であったのは、神的世界の実際を反映した結果なのかもしれないと推察する。私の以前の霊視で、《艮の金神》が《国常立尊》を騙ったのは、《国常立尊》にはそれだけの価値があったからとも言えるであろう。今回の霊視により、日本神話の起源に存在する神は《国常立尊》ということになりそうである。そして、『古事記』の神格名のインフレーションが暴かれる結果となり、このインフレと明治維新以来の国体思想のインフレには共通し、共鳴する基底音が存在していると今の私は感じている。謙虚さを大切としながらも、日本人の意識や思想のファンタジーとしてのインフレの問題というのが、日本人を理解する上て必要なファクターであると、この霊視により認識させられたと言っていいだろう。また日本神話にはブラフマンに相当するようなプラジャーパティより上位の神格認識が不足していて、その不在が、日本人の限界を規定し、日本人のある種の世俗主義、宗教アレルギー、感覚主義を形成しているとも推論される。







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