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《周易の知霊》霊視録──周易六十四卦の研究(0)──




他方、書物である〈タロット〉は〈水星〉の感応力を受けており、各カードの知霊も根本的には〈水星的〉である。したがって、こうした象徴は特に思考を伝達するのに適している。それらは、土占いの守護神たちとは違って粗悪ではないものの、逆に占い師を欺くことなどまるで平気である。〈易経〉に仕えているのは、こうした欠陥のない霊的存在である。象徴が極度の純粋性を備えているために、それらの霊的存在は腹に一物ある知霊によって侵されずに済んでいるのである。

アレイスター・クロウリー『魔術 理論と実践』島弘之・植松靖夫・江口之隆訳  国書刊行会


 二十代半ばに、上記のクロウリーが述べるところの、各占法に宿る知霊の存在と、その性格の相違を読んで以来、私は長いこと「周易」の知霊に興味を持ち続けていた。その後、遠隔透視・アストラルトラベル・霊視技法を開発してからも、忙しさにかまけて、特に霊視してみようとはしなかったのであるが、このNoteを始めたのをきっかけに、長年の懸案であった、周易の知霊を霊視してみると共に、周易六十四卦のそれぞれの卦を個別に霊視してみようと思った次第である。
 全65回に及ぶ、私にとっては興味深い実験であるが、読者の興味を喚起するとは思えないので、興味のある方にだけ有料で公開することにしたい。メンバーシップ会員の方、及びお得な周易研究に特化したメンバーシップの方も閲覧可能である。また単独記事としても購入は可能であるが、基本的にはメンバーシップ会員の方の閲覧を想定したものである。今月、既に複数記事を購入頂いた方は、来月も有料記事を複数更新予定であり、メンバーシップ会員の方がお得になるように更新していく予定なので、可能であれば来月以降のメンバーシップ会員登録の上での閲覧をお願いする次第である。




占いについて



 私は、アラビア由来と考えられる土占い(ゲオーマンテイーア)は試みようと思ったことはないが、人並みにマルセイユ・タロット及びトート・タロットについては所有もし、少々齧ってもいる。その印象は上記のクロウリーの言明通りで、タロット占いにおいては、ご機嫌取りのような知霊の惑わしを感じざるを得ない。つまり当てにならないのである。それに比べると本筮法による周易の結果は、どうしてそうなるのか甚だ謎なのだが、的確な結果が出てくるのであるから、その印象は大層不思議なものである。六十四卦と三百八十四爻の爻辞は、内容の雑駁さの印象を拭いきれないのであるが、何らかの物事の時期について問い尋ねれば、全ての存在する卦や爻が時期の意味を表しているわけでもないのに、気持ち悪いくらい時期に関わる結果が出てくるし、恋愛であれ、仕事運であれ、全体運であれ、どういう絡繰(からく)り事によるのかは知らぬのだが、それぞれの占い内容に即した結果がぽんぽん出てくるようになっている。これはまず周易の謎としか言いようがない。そして周易占いに関してはタロット占いに比べれば、なかなか厳しめの占断結果が多い。これは周易に運命を託してきた過去の人々が、一身上の問題というより、一族皆殺しになるか、ならないかぐらいの切羽詰まった鬼気迫る内容を占ってきたことによるのかもしれぬのだが、その託宣内容は厳粛の一言に尽きる。そして過たずその占断が的中するのは、この原始的な占い方法の背後に精密な霊的AIの如き存在でも隠されているのではないかと、人をして沈思黙考させるのに充分なものである。



一陰一陽



一陰一陽之謂道。繼之者善也、成之者性也。

『易経 《繋辞伝》』



 「一陰一陽これを道と謂う。これを継ぐものは善なり、これを成すものは性なり(一陰一陽が、交々、入れ替わる場を「道」と言うのであり、その陰陽の転換を促進する働きが「善」であり、この転換作用そのものが「性」というものである)」



 これは孔子の作とも伝承のある《繋辞伝》の一文である。この文に関しては我が国の伊藤仁斎が、『語孟字義』において、「道は猶、路なり。人の往来・通行するゆえんなり。故におよそ物の通行するゆえんの者、皆これを名づけて道という。⋯⋯蓋し、かの一陰にして一陽、一陽にしてまた一陰、往来・消長、運ってやまざるの意を形容するゆえんなり」と註釈をつけている。つまり陰陽が交替し往来運行するところのものが「道」であり、そしてその陰陽の交替を促進するものが「善」であり、その交替の作用が「性」なのである。『易経』の世界観において、一陰一陽という陰陽の変換にこの世界の法則の基礎が置かれているわけである。
 このサハー(娑婆)世界において、「自己の力でどうにかなる物事」と「自己の力ではどうにもならない物事」とが厳然と存在している。これを「自力」と「他力」、「自律」と「他律」などで弁別することが可能であろう。このように弁別すれば、「努力は必ず報われる」「思考は現実化する」「願いは必ず叶う」という努力万能主義、引き寄せ万能主義も、この世界を一面的にしか捉えていないと言わざるを得ないことになる。

 物事には一陰一陰、表と裏があり、その表裏の組み合わせが六層を成し、その組み合わせのパターンにおいて六十四卦が『易経』において成立する。人は表を見るが、裏を見ようとせず、語ったことを聞くが、敢えて語ろうとしなかったことを聞こうとせず、見えるものは見ても、見えないものを見ようとはしないものである。引き寄せの法則を語るものは多いが、引き離しの法則を語ったのは、お笑い芸人の明石家さんま氏ぐらいのものである(2025.09.27『ラジオヤングタウン土曜日』にて)。

 努力と一括りに言っても、実際は、「努力さえできない状態」というものがあり、その上で、「努力できる状態」「努力してもその努力が無効化される逆境の状態」「努力が報われやすい順境の状態」という努力を取り巻く状況というものが存在しているのである。
 「努力万能主義」をその人生の実感によって信条にする人は、人生のデフォルト設定の難易度が低く設定されていて、比較的、努力が報われやすく、引き寄せが行われやすい状態か、星の巡り合わせによって、本人の気づかぬ所での助力があるのを知らないことがほとんどである。彼らに関しては「知らぬが仏」とはよく言ったものだが、その目に見えぬ助力さえも、自己の努力に勘定していることがほとんどなのである。そして、その自己の貧しい成功体験をもって、万人に平等主義的にその原則を推し拡げようとするのであるから、大変迷惑な存在であり、その原則は、このサハー世界のシステムを理解していない幼稚な魂の所産であるのは明らかと言えよう。
 しかるに古代の先人達は、その魂の老練と老成により、そのような幼稚で皮相な物の見方を排し、努力をしてもその努力が無効化される逆境の状況から、努力が報われやすい順境の状況との差を認識し、「自力」「自律」のカテゴリーに分類されない物事の推移のパターンを六十四種に区分するシステムを編み出したのであった。それがすなわち周易六十四卦なわけである。



一切皆苦について


 仏教の開祖ガウタマ・シッダールタは、彼自身が過去世以来の功徳の蓄積に基づいて、チート仕様の存在であったにも関わらず、このサハー世界を「一切皆苦」と断じたのであったが、そもそもこのサハー世界において、善因善果と悪因悪果の収支バランスに傾きが存在し、宿命通によって過去世以来の因果の結末をどのように計算しようとも、そこに帳尻が合わないことを発見したのであった。つまりどう足掻こうが行き着く先は等結果的に、苦なのである。この世界の因果律の苦への極端な偏向的傾きこそが「一切皆苦」のシステム論的な説明ということになるだろう。しかし、この崩れたゲームバランスによるデフォルトでの苦への極端な傾き設定こそが、幽界・霊界・神界では不可能な、ある種の魂の錬成を可能にするものでもあり、このサハー世界を魂の修練道場にするものなのである。



各自の人生の難易度設定の初期値の相違



 また霊的観点で言うと、この世界は自らの定めた魂の錬成度とその課題に基づいて、人生の難易度設定が個別に設定されていて、それぞれが、同じ世界を見ながら、全く別の土俵に立っているというのが実情なのである。ある人にとっては一の努力で実現する類の結果が、ある人にとっては十の努力でようやく実るということがある。従って努力万能主義の布教者が、自らの難易度設定の低さを棚に挙げて、自らの人生の成功法則だけを念頭に、人に布教することほど笑止なことはないのである。

 これまで述べた程度のサハー世界の裏設定を認識していれば、この人生において、思いがけない苦悩が押し寄せ、自らの健気な努力が無に帰そうとも、眉一つ動かすことなく、涼しい顔をしていられるのではあるが、一般的にはこうした裏設定は、朧気にしか理解されておらず、その為にこの世界に対して少なからず憂苦を感じざるを得ないのである。『易経』の《繋辞伝》の作者は伝統的に孔子と伝えられているが、孔子が『易経』の作者を以下のように評している。


易之興也。其於中古乎。作易者其有憂患乎。

『易経 《繋辞伝》』



 「易の興るや、それ中古においてか。易を作る者はそれ憂患あるか(易経が作成されたのは殷から周にかけての古代の中期頃であろうか。易の作者は憂患を抱いていた人であったのだろう)」

 

 易の作者は、自らの「自力」と「自律」と「努力」のその限界を意識し、泥濘に額づく恥辱に震えながら、泥水を飲む思いでそれを学び取り、「運命」と一般に呼ばれる、自らの力ではどうにもならない暗い力を前に憂患を感じざるを得なかったのであった。
 この周易の作者は伝統的に周の文王と言われているが、周の文王周辺で周易が成立したと仮に考える場合に、如何に仁徳を積んだ王であっても、彼の前には当時、暴君として知られる殷の紂王こと帝辛が立ちはだかっていて、それは周の文王にとって運命と言っていい存在であったわけである。そしてそれを除くことは息子の武王に託すより他なく、それは彼が君臣の道を守ったからではなく、天命がそれを許さず、彼の力を無効化する逆境の時期にあったからであったと考えられる。このような超えられない壁として立ちはだかる状況をつぶさに観察することこそが、「自力」「自律」「努力」を超えた所に存する、目に見えぬ物事の推移のパターンとその対処法を生む所以となったのであり、それにより『周易』が誕生したのだと考えられる。



逆境のパターンの卑近な例



 例えば、どんなに相思相愛の男女がいようとも、その思いだけでもって、このサハー世界においては十秒で結ばれるというわけには行かぬのが人情である。場合によっては、全てにおいてボタンの掛け違いが生じるような、願いの実現を妨げる悲劇的な物事の推移と状況というものがありうる。このような逆境や逆風の状況において、動けば、ボタンの掛け違いが生じるのであるから、その純なる思いを盾にして、猪突猛進するのは愚の沙汰と言えるのであり、身を慎み、時にはその思いを隠し、時にはその思いを偽ってでも、事態が好転するのを待つことこそが正義ということにもなる。雨の日に外出すれば濡れ、嵐の日に外に出ればずぶ濡れとなり、大雪の日に登山をすれば遭難するのは、必定であり、ここに努力だの引き寄せだの、願望実現もヘチマもないのである。幽界や霊界は思いがそのまま実現する場であるが、このサハー世界は、各自の思いとこの世界創造の初期設定の偏向設定により、そのような安易な願望や思考の実現が達成されないように設計されているのである。
 かくして、この「努力」「自力」「自律」を超えた所に存する、見えない運命の流れを読み取り、その流れを如何に利用して、自らの目的を達し、あるいはその身を全うするかということこそが、『易経』の目標ということになる。



以下は易経の知霊の霊視である。






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