青の時代 ☘️身代わりレポート
大学1年の夏、身代わりレポートで「優」を”いただいた”お話
1983年、大学1年の夏。小学校の同窓の女子大生の友達から、ある講座の期末課題について泣きつかれた。
「廣松渉の『モノとコト』に関する論考を読んで感想文を出さなきゃいけないんだけど、意味不明すぎて1文字も書けない!」
廣松渉といえば、当時の日本哲学界の巨人。「世界の本質は独立した実体(モノ)ではなく、関係性のネットワーク(コト)である」という事的世界観を説いた、最高にスリリングで、そして最高に難解な哲学者だ。
困り果てた彼女の顔を見ているうちに、私のなかの知的好奇心がウズウズと首をもたげた。
「面白そうじゃん。代わりに書いてあげるよ」
こうして、ちょっとした知的な悪戯が始まった。
引き受けたものの、普通の大学生が書くような教科書通りの退屈なレポートを書いてもつまらない。廣松哲学の核心を突きつつ、教授の度肝を抜くような生々しい現象論を展開したい。
そこで私が切り口に選んだのが、「マネキンに対する違和感」だった。
私たちは普段、他者をただの肉体という「モノ」としては見ていない。声のトーン、視線の動き、自分との関係性、その場に流れる文脈──。つまり、動的な「コト(関係・作用・精神)」のなかに立ち現れるものとして、人間を人間だと認識している。
しかし、街頭で見かけるマネキンはどうか。
形態(モノ)としては完璧に人間を模しているのに、そこにあるはずの関係性や動態(コト)は完全にゼロ、空虚そのものだ。
「人間の本質は『コト』であるはずなのに、目の前にある“人間”が完全な物体『モノ』として固定されている」
この決定的な矛盾と欠落に直面したとき、私たちの脳の認識システムはエラーを起こす。それこそが、人間がマネキンに対して抱くあの独特な不気味さであり、強烈な「心理的バグ」の正体なのではないか──。そう論考をぶち上げた。
結果、その急ごしらえの身代わりレポートは、大学の教授を大層唸らせたらしい。
「もの凄く面白い着眼点だ」と大絶賛され、友人は見事に最高評定の「優」をかっさらってきた。自分の手柄のように喜ぶ彼女の顔を見ながら、私は心のなかでニヤリとしたものだ。
私たちが目にする世界は、単なる物体の集まりではない。無数の関係性のなかで初めて意味を持つ。そんな哲学の面白さを、身をもって体感した1983年の夏。
40年以上が経った今でも、街でマネキンを見かけるたびに、あの小気味よく、そして最高に知的で楽しかった夏の記憶が鮮やかに蘇ってくる。
