変化することは変化しない
気づかないうちに、もう通している
いつからか、検索するとURLの一覧ではなく、回答が出てくるようになりました。
Googleで何かを調べると上部にまとめが表示される。スマートフォンに話しかければ答えが返ってくる。音楽を探すとき、買い物をするとき、ニュースを読むとき、見えないところで何かが動いています。
「自分はAIを使っていない」という人に会うことがあります。気持ちはわかります。ただ正確には、意識的に使っていないだけで、AIを通して情報を受け取る場面はすでに増えている。AIは特別な道具を持った人だけのものではなく、日常の中に溶け込み始めています。
だから「AIを使うかどうか」という問いは、もう少しずれてきている。問われているのは、AIが入り込んだ環境の中で、人間がどう判断するかの方です。
ただ、こう書くと、なにかAIの時代に特有の話のように聞こえるかもしれません。わたしはそうは思っていません。これは、もっと前から繰り返されてきた話です。
道具が先に来て、整理が後から来る
少し古い話をします。
著作権への意識が社会的に強まり始めた頃、店舗でBGMを流すにも著作権が関係するという話が、現場にも降りてくるようになりました。有線放送の契約をきちんとしているか。CDをそのまま流していないか。そういうことを気にする空気が、少しずつ生まれていた時期です。
ところが現場には、まったく別の圧力も同時にかかっていました。
コスト削減です。「有線の契約を切れ」「わざわざCDを買うな」「共有ソフトで何とかなるだろう」。そういう話が普通に出てくる。目の前には便利な技術が広がっていて、ルールがどこまで適用されるのかは曖昧なまま、判断だけが現場に降りてくる。
今の目線で振り返れば「それはまずい」と即座にわかります。でも当時は、技術の便利さと、コストへの意識と、著作権の理解が噛み合っていなかった。三つがバラバラに動いていた、という感覚の方が近い。Winnyが社会問題になったのも、ちょうどそういう時代でした。
新しい技術が出てくるとき、人は便利さだけを先に受け取って、責任やルールの整理が後回しになる。あの時代が教えてくれたのは、それだと思っています。自分自身がその空気の中にいたので、批判ではなく、通ってきた実感として言っています。
そしてこの経験があるから、AIの話になったとき「道具が悪い」という方向には気持ちが向かないのです。道具はどんなものでも使い方次第で変わる。問うべきは、使う人間の側に目的があったかどうか。最後に責任を引き受けられるかどうか。
道具が先に来て、整理が後から来る。この順番は、たぶんこれからも変わりません。変わるとしたら、その間にいる人間の側です。
問われていたのは、AIだったのか
以前、ある若者がAIを使いこなして大手企業から複数の内定を取った、という話題がありました。「中身がない」「本人の言葉ではない」という声があがり、SNSでしばらく議論になっていました。
その反応、わからなくはないのです。ただわたしには、これがさっきの話の続きに見えました。道具が先に来て、評価の整理が追いついていない。あの頃の現場と、構造は同じです。
便利な道具をどう使えば目的を達成できるかを考えた、とも見られる。問題はAIを使ったこと自体ではなく、その過程で何を考えたか。最後に自分の言葉として説明できるかどうか。
面接でAIの文章をそのまま読み上げる人がいたとして、それは道具の問題というより使い方の問題です。逆に、AIで下書きを作りながら自分の実体験と照らして言葉を整えた人がいたとして、その言葉をAIが作ったものとは言いにくい。
AIを使ったかどうかより、その過程に本人の思考が入っているか。最後に自分が責任を持てるか。問われているのは、結局そこだと思います。
「これじゃない」と言えるか
偉そうに書いていますが、わたし自身も手探りです。AIを壁打ちの相手として使うようになって、しばらく経ちます。
記事を書く前に考えを整理したり、タイトルの案を複数出してもらったり、文章のたたき台を作ってもらったり。「そのまま出す」ことはほとんどなくて、出てきたものを起点に自分で書き直していくのが大半です。
やってみて気づいたのは、AIは「決める」のが苦手だということです。正確には、何かは出してくれる。でもそれが自分にとって正しいかどうかは、自分で判断するしかない。むしろAIが出してきたものを見て「これじゃない」と思う瞬間に、自分が本当に伝えたいことが見えてくることがある。
時間を買う、という言い方が近いかもしれません。ゼロから書き始める手間は省けても、何を伝えたいかを考える手間は省けない。そこは人間の仕事のままです。
そして、この「これじゃない」と言えるかどうかが、後で書く話につながってきます。
違和感は、変化の入口にある
スマートフォンが出始めた頃、周囲に「なぜこんな平たいものを電話として使わなければならないのか」と言っている人がいました。ボタンがない、重い、バッテリーが持たない。正直、当初は自分もそう思っていました。
でも気づけば、ガラケーを持っている人を見かける方が珍しくなった。
変化は最初、違和感として現れます。そして気づいたら当たり前になっている。そのスピードが以前より速くなっているのが今だと感じています。
AIにも同じことが起きる可能性が高い。「AIを使いこなしている人」という表現は今はまだ聞きますが、10年後には「使っていない人が珍しい」になっているかもしれない。検索エンジンがそうなったように。
実際、AppleもGoogleも、AIを独立したアプリとしてではなく、スマートフォンの操作や検索の中に溶け込ませる方向へ進んでいます。「専用のアプリを開いて使うもの」から「気づいたら使っているもの」へ。ガラケーからスマホへの移行と、構造はよく似ています。
輪郭が動いていく
製造業やものづくりの現場の人と話したとき、こんな言葉を聞きました。「AIにはミクロン単位の感覚調整はできない」「長年の経験が必要な判断は、機械には替えられない」。
その感覚は本当だと思います。料理でも、その日の湿度、食材の状態、食べる人の体調で微妙に加減が変わる。データにならない経験値は確かに存在します。
ただ一方で、こんなことも考えます。
人間が「できる」と思っていたことは、言語化できた瞬間に機械が追いかけてきた歴史があります。「人間にしか書けない」と思われていた翻訳も、今は機械翻訳を人間が校正する形に変わりました。「ここだけは機械に渡さない」と思っている領域も、少しずつ輪郭が動いていくかもしれない。
これは職人の技術や誇りを否定する話ではありません。むしろ逆で、感覚の価値を知っているからこそ、輪郭が動くことから目をそらさない方がいい、という話です。ガラケーの話と同じです。違和感は、たいてい変化の入口に立っています。
情報を受け取る前に
ここまで書いてきたことに共通するのは、道具ではなく、道具の前にいる人間の側に問いがある、ということです。では人間の側には、具体的に何が要るのか。二つあると思っています。
一つは、コンテキストを見る力です。
「テレビが言っていたから正しい」が「ネットで見たから正しい」になり、今度は「AIが言っていたから正しい」に移行するだけでは、何も変わりません。情報の出所が変わっただけで、確認する習慣がなければ同じです。
AIは聞き方によって答えが変わります。前提が変われば出てくるものも変わる。何を省略したか、どんな意図で質問したか。そこを見ないと、答えだけが一人歩きしていく。これはSNSの投稿にも、報道の切り取りにも、人から聞いた話にも言えることです。情報を疑えということではなく、その情報が生まれた経緯を確認するクセを持つということ。面倒ですが、それをやめると思考の外注が完成してしまう気がしています。
もう一つは、多面で見る力です。
AIを短所だけで見れば「危ない」「信用できない」になる。長所だけで見れば「何でもできる」と過信する。どちらも現実から少しずつずれています。
大事なのは、今できることと、まだできないことの両方を見ること。そして現在地だけでなく、これからどこへ進むのかも見ること。壁打ちで「これじゃない」と言えるのも、結局この両方が見えているからです。片方しか見ていない人は、出てきたものを全部受け取るか、全部捨てるかになってしまう。
人間側のCPUとメモリ
パソコンに例えると、CPUとメモリが古いままだと、新しいソフトを入れても動かないか、重くなる。ハードが追いついていなければ、どんな高性能なソフトを入れても意味がない。
人間も似たところがあるのかもしれません。
AIが高度になっていくなら、受け取った情報を選び、判断し、自分のものにする力も更新していかないと、道具の性能だけが上がって使う側が追いつかなくなる。便利に使っているつもりで、ただ出力されたものを受け取るだけになる。
目的があって使うのと、惰性で使うのは、見た目は同じでも結果が変わっていく。どこをAIに任せて、どこを自分で確認して、最後に誰が責任を引き受けるか。その整理ができているかどうかが、使い方を分けていく気がします。
難しい話ではありません。「この文章は自分の言葉として出せるか」という確認を、一回挟めるかどうか。それだけのことかもしれません。あの就活生に問われていたのも、有線を切れと言われた現場に足りなかったのも、たぶん同じこの一回です。
変化することは変化しない
インターネットが出て、携帯電話が出て、Winnyのような共有ソフトが広まって、スマートフォンが出て、電子決済が当たり前になって、今度はAIが来ている。
振り返れば、どの変化も最初は戸惑いを伴っていました。現場がルールに追いつかなかった時代も、ガラケーを手放せなかった時期も、誰かが悪かったというより、変化が速すぎて整理が追いつかなかっただけです。
でも、止まらなかった。
変化することだけは変わらない。これはポジティブな話として言いたいのではなく、事実として受け止めているという意味です。怖いとか便利とか、その感情とは別に、変化は続く。だとしたら、人間の側も更新していくしかない。AIを礼賛したいわけでも、警戒を促したいわけでもなく、ただそれだけのことを、30年分の実感として書いています。
わたし自身、AIを使い始めてから「これは任せていい」「ここは自分で考えないとまずい」という感覚が少しずつできてきました。その感覚ができてくること自体が、自分が更新されているということなのかもしれないと、最近思い始めています。
AIは、人間の考え方を映す
最後に、一つだけ。
AIは人間の代わりに考える道具というより、人間の考え方が映し出される道具なのかもしれない、と感じています。何を聞くか、何を任せるか、何を確認するか。その選択の積み重ねに、その人の思考の癖や、目的の明確さが出てくる。
だから怖いのはAIそのものではなく、目的も責任も曖昧なまま使ってしまうことです。これはAIが出る前からある問題で、道具と人間の関係は、ずっとそういうものだったとも言えます。
AIを使うかどうかより、AIを前にしたとき、自分の頭がどう動いているか。
変化することは変化しない。だとしたら、次に更新されるのはどちらでしょうか。道具か、それとも、わたしたちか。
