筋トレよもやま話7
-筋トレよもやま話とは-
根拠や理論を厳密に論じることは一旦脇に置き、個人的に思ったこと、感じたことについて記した、とりとめのない雑多な話である。
今回はテイストを変えて
私の思想語りと
健康、筋トレに対する哲学的な話をしようと思います。
世界には自分ただ一人。それでも、あなたは筋トレをするのか?
私は長年、リハビリ業務に従事してきた。
急性期、回復期、維持期。
「生きる」に限りなく近い場所で働いてきた。
そこでは
・自分でトイレに行ける
・一人で食事ができる
・呼吸が楽にできる
・転ばず歩ける
・家に帰れる
それ自体が、大きな意味を持つ。
ベッドから立ち上がれるようになって涙を流す人。
数歩歩けただけで家族が喜ぶ場面。
そこには「映え」も「すごい身体」もない。
あるのは
「生きる」
という、人間の根源だった。
そして現在、私は
パーソナルトレーニングジムを開設し
リハビリや一次予防、そしてボディメイクや
競技指導に関わっている。
もちろん、ここにも健康という概念はある。
しかし、ある地点を超えると
少しずつ別のものが混ざり始める。
・もっと強く
・もっと大きく
・もっと絞って
・もっと映えて
・もっと重量を伸ばして
・もっと評価されて
気づけば「健康」の話だったはずが
少しずつ「比較」の世界へ移行していく。
SNSを開けば
「〇〇kg挙がらないのは甘え」
「そのフォームは雑魚」
「ナチュラルでこの身体」
「意識低い」
そんな投稿が流れてくる。
時には、他人を見下し
挑発し、競争を煽るような空気すらある。
でも、そういう場面を見るたびに、私は思う。
「あなたが頑張れているのは、他人がいるからなんだよ」と。
少し極端な話をする。
「もし、世界に自分一人しかいなくなったら」
あなたは、それでも毎日何時間も筋トレをするだろうか。
ベンチプレス200kgを目指すだろうか。
脚が震えるほど追い込むだろうか。
SNSに身体を投稿するだろうか。
少なくとも、私はやらないと思う。
私は20年以上筋トレを続けてきた。
人並み以上には重量も扱えるようになった。
筋トレが人生を変えた部分もある。
それでも、世界に自分しかいなかったら
私はここまでやっていない。
おそらく、健康維持に必要最低限の運動しかしない。
なぜなら、「見られる相手」がいないからだ。
高級車
ブランド服
高い時計
美容
筋肉
スポーツ成績
これらの多くは
他者が存在することで価値を持つ。
もちろん、それ自体を否定したいわけではない。
人間は社会的動物だ。
誰かに認められたい。
すごいと思われたい。
褒められたい。
尊敬されたい。
そういう感情は、ごく自然なものだと思う。
だから私は「承認欲求は悪だ」とは思わない。
むしろ、かなり多くの努力は
承認欲求によって支えられている。
問題なのは、それを否認してしまうことだ。
「これは全部、自分のためです」
そう言い切れる人は、本当にどれくらいいるのだろう。
他人との比較
評価
優越感
所属感
劣等感
羨望
そういったものを、一切含まずに努力できる人間は
おそらくかなり少ない。
でも、それでいいのだと思う。
他人がいるから、人は頑張れる。
比較があるから、成長も生まれる。
だから、他人の存在そのものを否定する必要はない。
ただ
「自分は他人の影響を受けている」
これを認めた方が、少し楽になれる気がする。
SNSを見て苦しくなる人がいる。
誰かの身体
誰かの重量
誰かの成功
それを見て、自分が小さく感じる。
でも、そもそも今あなたが戦っているゲーム自体が
「他人ありき」で作られている。
その構造に飲み込まれすぎなくていい。
なぜなら、本来、人間は
・食べて
・寝て
・排泄して
・生きる
まずは、それだけでも成立している生き物だからだ。
もちろん、私は「だから努力なんて無意味だ」
と言いたいわけではない。
筋トレも、スポーツも、仕事も、趣味も。
「無駄」だからこそ、人間らしい部分もある。
ただ、根源まで掘っていくと、多くの行動は
「生きるために絶対必要」ではない。
だからこそ
必要以上に思い悩まなくていい。
周りに振り回されすぎなくていい。
承認欲求がある自分を、無理に否定しなくていい。
その上で
「では、自分にとって本当に必要なものは何か」
を考えていけばいい。
私は、そんなことを思うようになった。

