見出し画像

はじめての方へ。どうぞ縁側にお座りください。

この記事は私「縁側さん」について、そして私の記事でどんなふうに感じてもらいたいか、どうなっていくか、その辺りを自己紹介を含めて書きたいと思います。

ちなみにこの記事は長くて、7,000文字超えてます。
なので縁側に座ってぼんやりと私の話を聞くような感覚でご覧ください。

私はこれまで焦り続ける人生を送ってきました。

最初からそうだったわけではないと思いますが楽しむことを忘れた時、確実に焦りの中に居て、そこからはただ焦ることが当たり前になっていました。

20代から自営業をやってきて、30歳頃に完全独立して、本格的に自分の手で稼いでいく、という道を歩みはじめます。

その時の経緯はこちらにも詳しく書いてます。

大きく一歩を踏み出し、人とは違う生き方を、と考えて夫婦でものづくりの道を歩んでいました。
25歳くらいから本格的にものづくりを始めます。
その前数年間も、ちまちまと猫のバンダナを作ったり、自分たちで使う小物を作ったりして楽しんでいました。
当時はまだSNSも今ほど盛んではなく、ミクシィなど一部の限られた人のツールでした。

私はもっぱらブログ派で、当時は猫の記事や車のブログをいくつか作りアフィリエイトや情報商材と言われるジャンルにも踏み込んでいました。
結局どれもお金にはならず、たたブログを楽しむことをメインに活動しつつ、猫のブログでは私たちが作る猫バンダナを海外の人に届けたり、日本全国に販売したりといわゆる「ネットショップ」をスタートしてもいました。

今も思うのですが、無形販売をやりたいと思いながらも、ハンドメイドなど実物販売が結局上手くいくのは今も変わらない私たち夫婦の流れだなぁ、と今書きながら感じています。

当時はヤフオクで物を売ったり、毛糸たわしの専門店、猫バンダナなどいろんなネットショップを立ち上げ、とにかく販売にチャレンジしていて、その中でも私が楽しかったのは「ショップサイトの作成」そのものでした。

SEOを研究し、HTMLをいじくったりなんかも独学でやって楽しんでいました。
当時、ホームページビルダーというソフトを買って、その中に入っているソフトでいろんなものが作れたので、バナーを作ったり写真を加工したり、それをステッカーに加工したりと、今で言う「Canva」で出来るような事を楽しんでいました。

そんな感じで、自分であれこれやってみるというのは私のひとつの癖のようなものだと今振り返ると思います。

子どもの頃から工作の本が好きで、よく眺めてはあれこれ作ったり、テレビのものづくりのコーナーが好きで、真似してみたり、プラモデルでジオラマ作ったり、ミニ四駆の大会に出たり、ラジコンを一から組み立てたり、書きながら改めて思うのは「ものづくり人生」を歩んできたこの43年間だったと思います。

「noteに文章を書く」という事を、ものづくりのひとつとして捉えると、私は今も現在進行形でものづくりに勤しんでいることになります。

25歳くらいから本格的に自営業の活動をものづくりのフィールドに移した私たち夫婦は、アクセサリーと布小物のお店として全国各地のイベント出店に通うようになります。

お店の什器もイベントに参加するたびにアレが欲しいこの機能が欲しい、というのを使いながら、また積み下ろしをしながら考え、時には人様のお店からヒントを得て独学で他にはないオリジナルの店舗什器を作り上げていきます。

10年くらい、私は女性向けのビーズアクセサリーをいろんな種類やデザインで幅広くかつ、大量に作っていたし、売り上げの6〜7割をそのアクセサリー作りで賄っていました。

妻は布小物からスタートして、大好きながま口作りに勤しんでいき、東京出店の際には企業から声がかかり、OEMや卸しを経験することになります。

この時点で、企業からの毎月の物量を妻1人で賄うのは困難だと判断して、売り上げのほとんどを占めていたアクセサリー作りから私は手を引き、妻のがま口作りの見習いとなります。

思えばこの判断はとても勇気のいる物だったと思うのですが当時、アクセサリーを作る人が増えてきたので先を見据えて見切りをつけたいとどこかで考えていました。

そんなことがあっての東京出店でしたので、大変嬉しかったのを今でも覚えています。

この頃からイベント出店は大幅に控えて、企業様との仕事に専念していきます。

私自身、がま口作りのサポートと修練に大変になりつつも、あっという間にやり方を覚えて、というかやる必要に迫られたので、マッハでこなしていました。

そんなこんなで企業様との取引は3年くらい続きましたが、企業様の部門、私が関係していた店舗の閉店を機にあっけなく終了してしまいます。

当時は子ども2人を抱えた中での状況でしたので、焦りました。

焦りまくりました。

「なんとかしないと」

今思えば企業様とのやりとりを始めてから、自分を見失いつつあったのかもしれません。

一介のハンドメイド風情が企業と取引をできるようになり、扱う金額も大きくなり、他のハンドメイド界隈と一線を画した存在、そんな自負があったように思います。

いわば天狗になった状態ですね。

取り扱う金額が大きくなるということは、それだけ出費も嵩んでいることになります。

当時はたくさん買ってくれてるから安くしよう、というのが当たり前で企業からももちろんそれを求められましたし、それに応えるのが当然だとも思っていました。

今考えると、かなり無理をして納品していました。

この辺りも
自分を大切にせず、自分を追い込む癖」に一役買ってしまっていました。

利益は対して出ず、でも個人のハンドメイダーにしては大きな金額に目が眩み、無理をする。

まさに悪循環の渦中で取引先が無くなり、稼ぎぶちも無くし、またイチからイベント出店に明け暮れる日々となりました。

ただ、この時は子どもが2人で下の子はまだ生まれたばかりだったので、無理もできず、ネット販売に力を入れてもいました。

それでも営業や販売はあまり得意ではないので、苦戦しつつも品物の独自性とアイデアでなんとか食い繋ぎ、そうこうしているうちに店舗を構える話にまでなっていきます。

キッカケは新年、近くの神社に書いた「絵馬」でした。

その絵馬に

「お店が開店できますように」

とあまり深く考えず書いたのですが、それをたまたま見た商工会議所の職員さんがある日突然、私の家に来たのです。

面識もなく、コワモテの人が突然やってきたので借金取りか誰かが何かの間違いで押しかけてきたのかとビックリしたのは良い思い出。

いや、神社の絵馬を見ましてね、お店を構えたいそうで!?

といきなり言われて、私たち夫婦はポカーンでした。

絵馬にそんなことを書いたのすら忘れていた私は呆気に取られつつも正気を取り戻し、職員さんのお話で、いろんな制度があることを教えてもらい、ひとまず近くの物件を見にいく流れになりました。

ここまであっという間。

物事が動く時は本当に一瞬です。

思いがけない角度から幸運はやってくるものです。

物件を見に行ってからはトントン拍子に話が進み、誰に物件を借りて、どこに改装を依頼する、などアレよアレよという間に話が出来上がっていきます。

しかし、最大の問題を抱えていました。

お金が……ない

そこで私たちはクラウドファンディングにチャレンジすることにしました。

そうは言っても、名前しか聞いたことがなかった私たちはクラファンについてイチから調べて、とりあえずクラファンの事業者を選定してクラファン実施へと突き進みます。

店舗の新規オープンなどでの実績があまりなかったので、どこまでできるか全く見えませんでした。

オマケに人付き合いが苦手な私たち夫婦。

クラファンってネットでお金を集めるってことだから、ネットで全部解決!
と思ってたら、クラファンの成功には地元の人の協力が不可欠で、実施前にいろんな根回しをしといたほうがいいという話をクラファン実施後に知らされるというマヌケさ。

しかし始めた以上は退けません。

ここまで繋いでもらったご縁、確実に叶えたい

その必死の思いで、会議所の人の協力で周辺の商店さんに頭を下げクラファンへの協力をお願いし、毎日、クラファンのブログで状況報告や住んでる自治体の状況なんかを発信していました。

そんな活動が身を結び、クラファンの期間終了前に目標金額を達成、終了時には二つ目に設定した目標も達成することができました。

一時期は周囲の人からの冷ややかな目や、今回は難しいだろうからこれから地道に人付き合いをしてまたやればいい、などのご意見をいただいたりしましたが、私自身は何としても今回やり遂げたかったので、自分が思うビジョンだけを見て突き進みました。

この時に「何か自分がやりたい事がある時」は周りの意見はそこそこに、
「自分の心の声に従うのがイチバン」
だと心に刻みました。

そこから実際に店舗をオープンさせるまでも物語はたくさんありましたが、それはまた書き出すととても長くなってしまうので、別記事にまとめます。

私たちがお店をオープンした場所は田舎のシャッター商店街。

かつてはとても多くの人で賑わった場所も今やその影はなく、人も店も減り続けているような場所。

なんでそんな場所にお店をオープンさせたのか?

それは子どもたちでした。

自分の子どもだけでなく、子どもの友達もこの地域には住んでいる。
そしたら、大きくなった時にこの子達は自分の街に自信が持てるだろうか?
また、どこで遊ぶんだろう?

そんなことを考えた時に、何か少しでもきっかけのようなものになればと思ったのがこの田舎での開店でした。

周辺には雑貨屋さんはおろか、スーパーもろくにないような地域。

でも、商店街と名乗る虚しい場所だけは残る。

だからなんとかしたかったんです。

なので、フリーマーケットの開催をやったりして人の流入を試みたりもしました。

また、テレビなんかにも何度か出させていただいて、遠方からのお客さんにもきてもらう努力など、私たちのお店からこの地域を変えていく、という想いでやっていきました。

しかしながら、地域の課題というのは1人の人間がどうあがこうと難しい問題もあり、いつの間にか立ち消えに。

オマケに開店から2年過ぎたあたりでのコロナ騒動。

その時は今後を見据えて生産体制などの見直しなどするため、銀行から融資をしてもらった直後でもありました。

街の活性化どころか、自分とこの経営で手一杯に。

なんとかかんとか食い繋いでネット販売も頑張り、とやっていましたが、自粛ムードは強く、また流行り出した当初は情報が錯綜していたこともあり、子どもたちの安全を考えてお店は1ヶ月ほどお休みにしてネット販売だけにしていたのですが、店舗再開した頃にはなかなかお客さんが戻らず、またコロナのニュースも盛んにされていたことなんかもあり、とても苦労しました。

店舗は2024年に閉店するのですが、最後の最後までこの時のダメージはジャブのようにずっと響いていました。

この時にも「無理をしてやっていく」というやり方が後々まで続くものとなりました。

どこかで考えを切り替えて新しい視点ややり方、考え方を探る事ができれば良かったのですが、目の前の事に一所懸命になっていると視野が狭くなるものです。

時にはそれが良いのですが、状況を変えないといけない時には広い視野も必要です。

視野が狭くなってしまったひとつに店舗の存在は大きかったのかな、と思います。

もちろん、店舗があったからこその経験や出会いは計り知れず、店舗が無ければ今の自分達もなかったので、とても良い経験だったと心から思っています。

ただ、「守るもの」が増えると、やはりそこにはお金や気も使います。

特にこの店舗は築70年くらいの集合建物の一階部分にあったのですが、開店一年目から雨漏りに悩まされ続け、それは閉店の大きな原因でもありました。

雨漏り修理、とくに古くて集合住宅のような大きな建物だとどこから雨漏りしているかなんて分からず、対処療法的なものしか出来ず、お金もとんでもなくかかるので、大家さんからも「これ以上はできない」と言われてしまっては私たちになす術はありません。

だんだんと店舗スペースを小さくしながら閉店までしのいでいたのでした。

ここまで我ながらよく頑張ったと思います。

人付き合いの苦手な生き方不器用な夫婦が自分達で始めたものづくりで店舗まで持った。

私はそこまでできたことに誇りを持っています。

泥臭く、カッコいいものじゃなかったかもしれないけど、一つのゴールは出来た。

店舗を閉店したからと言って何も終わりではありません。

そこからは広い自宅に引っ越して、作業スペースを兼ねながらの生活です。

これまではまだ「店舗」というお客さんからすると明確な、まだ訪ねやすい場所がありました。

でも、これからはSNSだけがお客さんとの繋がりが保てる唯一の場所です。

やり方をガラリと変えなくてはいけず、ここからの一年は本当に無理に無理を重ねてやることになりました。

これまで店舗で売り上げていたような金額を稼ぐ必要があったので目標として毎月クラファンをやろうということにしました。

このクラファンは先行販売のようなもので、世に出してない品を特別価格で販売する、というもの。

実際にやると打ち合わせから商品ページ、商品作成とかなりやる事が多く、3ヶ月に一回出来たらいいほどでした。

そのペースでも心と身体、家庭内にもかなりの負担を強いることとなり、毎月のように体調を崩すようになり、おまけに思うような結果にならないという、ここでも悪循環となりました。

なんでこんなに悪循環を繰り返したのか?

おそらくそれは、

「お金のため」
「休んじゃいけない」


こんな考えで動いていたからだと思います。

一回のクラファンで100万円を超えなきゃ失敗、150万円でも仕入れとか考えたら利益が薄い。

そんな風にただただお金、数字を追い求めて見てきました。

だから苦しんだ、そう思います。
いわゆる「貧乏脳」と言われるやつですね。

そんな感じで自宅での製作を続けていると、

「何がやりたいのか」
「どうなりたいのか」

こんな簡単な事が分からなくなってきます。

そうしているうちに、ものづくりそのものが嫌になってくるわけです。

そこでクラファンから手を引き、これまで通りの自分達が作りたかった品物作りやオーダーメイドに少しずつ切り替えながらやっていくのですが、この時すでに私たち夫婦の中での
「ものづくりの立ち位置」
が大きく揺らいでいたのです。

私たちにとってのものづくりとは人生そのもの。

つまり、人生の意味のようなものが揺らいでいました。

「このまま続けていいのか……ていうか、そもそもやれる?…」

そんな気持ちが日に日に大きくなって、2025年9月に私たちの中で「廃業」を決意します。

気持ちとしてはそこに揺らぎはありませんでしたが、いざ辞めるとなると強い葛藤がありました。

そもそも辞めてどうするのか?

でも、そんな事今は何も分からない。

本当に分からなかったんです。

先なんて全く見えない。

でも……

このまま続けることもできない。


だから、一区切りつけよう。

その想いで決断しました。

そこから3ヶ月、2025年12月末まではとにかく、目いっぱいものづくりを楽しんで作っていこうと決めて自由に作り続けました。

一区切りつけるために、後悔しないように。

苦しみながらもがき、そして悩み抜いた2025年、20年続けたものづくりの仕事を廃業という形で終わりを迎えました。

正直、廃業よりももっとうまいやり方が出来てれば、今はもっと楽になっていたかもしれない、もっと人との繋がりがあったかもしれない、と今でも考えない時はありません。

でも、不器用な生き方しか出来ない私たち夫婦にとっては一旦、ぐちゃぐちゃになった想いを含めたものを手放す必要があったと思うのも事実です。

なので、その判断は間違ってなかったし、どのタイミングでも間違ったことはしてなくて、全てが経験になってきた、そう感じています。

2026年に入ってからはとにかくこれまで全く出来なかった、

自分と向き合う時間

家族の時間

を優先して生きています。

自宅での仕事でしたが、家族時間は二の次で朝から夜遅くまで仕事に明け暮れることも多く、子どもたちに心配や不安を与えてしまったのではないかとずっと悩んでいました。

だから、可能な限り今は一緒に過ごすようにして互いに笑い合える時間を増やしていきたいと考えています。

私の名前の由来となった

縁側さん

これは私が縁側で、縁側と言っても庭に面した座敷の窓辺ですが、そこでnoteの執筆を行っているからです。

「もはや、縁側の主、いや縁側さんやなw」

と軽い気持ちでネーミングしたのですが、割と気に入ってます。

今の私は縁側で自然の景色を見つめて、自然そのものを観察したり、自然と向き合う事から自分の内面と向き合い、日々の暮らしの観察からさまざまな生きる秘密を見つけながら暮らしています。
そしてやっぱり、ものづくりもやってます。
今回は型にとらわれず、想いを同じにする人やこだわりの強い人のオーダーメイドという形で新たに始めたり、今度はものづくりをする人のサポートになるようなサービスを開発したりと、

ものづくりの次のステージ

に今は向き合っています。

前の方でも書きましたが、noteを書くというのもものづくりのひとつと捉えて、日々更新しています。

私が書くnoteはノウハウでもなんでもなく、日々感じた事や、これまでの経験を踏まえて見つけたもの、生き方を再構築してる私なりのものの見方なんかを発信しています。

時にくだらない、時に真面目、そしてたまに創作、そんな感じで一見すると、まとまりがなく見えますが、全てはここ「縁側」で

ちょっと一息つく

そんな場所作りをやっています。

こんなに長く書いたのは初めてですが、ここまで読んでくれて、本当にありがとうございます。

ぜひ、良かったら私の縁側でお茶していってくださいな。

いいなと思ったら応援しよう!

縁側さん| 急がない暮らし 日々の活動費として活かしていきます。よろしければ応援していただけると嬉しいです。

この記事が参加している募集