医学的正論は、なぜ「1万円のサプリ」の誘惑に勝てないのか? —— 腎臓内科医が考える行動経済学と中医協の壁
はじめに
先日、医学部の5年生に向けて講義をする機会がありました。 彼らはこれからの医療を担う存在ですが、同時に、現在の医療システムやキャリアに対して漠然とした不安も抱えています。
講義のテーマは糖尿病性腎臓病における「微量アルブミン尿」の測定について。 医学的なエビデンスの話はもちろん重要ですが、それ以上に私が伝えたかったのは、「正しい医療を、いかにして患者さんや社会に届けるか」という視点です。
そこには、医学知識だけでは突破できない「人の心理(行動経済学)」と「社会のルール(制度)」の壁が存在します。
「微量アルブミン」という最強の指標
まず医学的な前提を共有します。糖尿病における腎臓の管理で最も重要なのは、GFR(糸球体濾過量)の変化よりも先に現れる「微量アルブミン」の測定です。

「もしよろしければ、この図解は診療現場で自由に使ってください。私たちの目的は、正しい医療を届けることですから。」
データは残酷なほど正直です。尿中アルブミン値と心血管イベントのリスクは対数的な関係にあります。つまり、数値が30mg/gCr(微量アルブミン尿の基準)を超え始めると、リスクは桁違いに跳ね上がります。逆に言えば、早期に介入し、適切な治療と本人の行動変容(減量など)を行えば、1gを超えていたような尿蛋白が劇的に減少し、リスクを1/10程度まで下げられることも珍しくありません。
これほど明確なエビデンスがあり、コストパフォーマンスに優れた検査であるにもかかわらず、実臨床では十分に測定されていないのが現状です。なぜでしょうか?
「不安」を売るか、「希望」を売るか
講義の中で、学生たちにあえて少し意地悪な問いかけをしました。
「なぜ人は、効果の不確かなサプリメントや化粧品には喜んで1万円を払うのに、自分の命を守る検査(3割負担ならランチ1回分程度)には財布の紐が固いのか?
これは「不誠実な商売をしろ」という話ではありません。「価値の伝え方(マーケティング)」の話です。
行動経済学的に見れば、化粧品やサプリメントは「理想の自分になれるかもしれない」という「希望」や「高揚感」を売っています。 一方、我々医療者が提供する検査は、往々にして「病気であるという現実」や「死のリスク」という「不安」を突きつけるものです。
アパレルの試着室にある鏡が、少しだけスタイル良く見えるように設計されている(かもしれない)ように、人は「心地よい未来」にお金を払いたい生き物です。 「このままだと死にますよ」と脅して検査させるのは三流の手法です。そうではなく、「この検査をして数値をコントロールすれば、これだけ安心して長く人生を楽しめる」という「メリット(希望)」を提示できているか?
医療者には、医学的リテラシーだけでなく、この「ナッジ(背中を押す)」の技術が圧倒的に不足しているのです。
「エビデンス」だけでは変えられない「ルール」の壁
正直に言えば、敗北感がありました。腎臓学会が総力を挙げ、山のようなエビデンスを積み上げて挑んだ「微量アルブミン検査」の保険適用拡大。しかし、中医協という巨大な壁の前で、私たちの熱意はあっけなく差し戻されました。 「医学的に正しい」だけでは、社会の1ミリも動かせない。これが、白い巨塔の中にいるだけでは気づけない、残酷な現実です。ルールを作るのは「科学」ではなく「経済と政治」なのです。だからこそ、私は学生たちに、あえて夢のない話をしなければなりませんでした。
エビデンスを作るのは研究者の仕事ですが、そのエビデンスを社会実装するための「ルールメイキング」に関与できる医師が、これからは必要不可欠です。
次世代の医療者に求められる「武器」
学生たちには「採用状況を見て暗い気持ちになるな。他の職業より医療職はまだ恵まれている」と伝えました。 しかし、ただ漫然と診療するだけでは、この先行き詰まるでしょう。
人の心を動かす「伝え方」(行動経済学)
社会の仕組みを動かす「制度論」(法・行政)
医学知識に加えて、この2つの武器を持った時、初めて「微量アルブミンを測るのが当たり前の社会」を実現できるはずです。 上の世代(私たち)が突破しきれなかったこの壁を、彼らなら、あるいは制度にも精通した新しいタイプの医療者なら、壊してくれるのではないかと期待しています。

ここまで医学生向けの話をしてきましたが、もしこれを読んでいるあなたが患者さんの立場なら、一つだけお願いがあります。
どうか、「ありのままを映す鏡」を見る勇気を持ってください。 医療機関での検査は、アパレルの鏡のようにあなたを綺麗には映しません。今の体の状態を、数字という冷徹な事実で突きつけます。それは怖いことです。
しかし、その鏡を直視し、数百円の検査を受ける勇気を持つことが、結果としてあなたの「一番長く、健康でいられる未来」を買うことにつながります。1万円の「なんとなく効きそうなもの」よりも、ランチ1回分の「確実な事実」を、どうか選んでください。

