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続・チェスをめぐる半自伝的エッセイ(1)チェスを盗まれる

何年か前のことである。夜、布団に入ってすぐに、「あのオープニングの四手目をこう変えたら相手はだいたい間違うのではないか? そうだとすれば、あの厄介な中盤の難所を回避できるではないか」と思い立ち、暗闇の中で携帯電話を操作し始めた。

だが、アカウントにアクセスができない。パスワードが通らないのであった。記憶力が減衰している自覚はあったから、思い当たる他のパスワードを試してみたが駄目だった。そもそもやたらめったら新奇なパスワードを作ったりはしないから、どれかであるのはたしかなはずだがどれもヒットしなかった。

パスワードを忘れた時の手順を実行したものの肝心のメールが届かない。万策尽きて仕方なくその夜は寝ることにした。

翌朝、やはりどうも気になってログインを試みたが、成功することはなかった。こうなると問題がどこにあるのかわからなくなった。こちらが間違っているのか、それともあちら側のなんらかの不具合なのか。悩んでいても解決することではなさそうなので、しばらくこの問題は忘れることにした。チェスのサイトにアクセスできないからといって実生活に不便は特にないのであった。

だが、実生活に不便はないとはいえ、「あのオープニングの四手目をこう変えたら相手はだいたい間違うのではないか?」という可能性を実戦で確かめるにはログインできないと困る。ログインしなくても対局自体はできるのであるが、相手がどのレベルか知る術がなく、ある程度の棋力がある相手に試さないと意味のないことなので、結局新しいアカウントを作ることにした。

「あのオープニング」というのは先手番の定跡手順だから、多くの対局で例の四手目に誘導することができる。よって、実戦経験がどんどん蓄積されていった。結果をいえば、四手目で四割ほどの対局者が間違えた。それは思惑どおりであったが、そのしばらく先にかなりシビアな返し技が潜んでいたことには気がついていなかった。返し技といってもそれなりに複雑な手筋のなので、対局中にそれを捻り出すプレイヤーはごくごく稀だったが、一旦やられたら最後、回復の手立てはないのであった。

つまり、アカウントを新しく作ってまで試した私の思いつきは大きな徒労に終わってしまったことになる。そうしたことはよくあることなので、落胆はしたがそんなものだといつもなら気持ちを入れ替えるだけで済むのだが、今回は自分のあのアカウントは一体どうなったのかと気になり始めた。課金しているわけではないので実害は皆無であったとしても、思い出したい対局が時折あったり、友達となった人もいた。

そこで私は、新しいアカウントでログインし、以前対局中にチャットを楽しんでいた友達を探すことにした。といっても、これが結構難儀で、相手のアカウント名をうっすらとしか記憶していなかったから、これはと思われるアカウントの履歴を見て、過去の自分と対局していないかどうか確かめていった。十人以上当たってみて、ようやくこれだというアカウント名にたどり着いた。

「誰かと思ったら君か」と対局中の相手は言った。
私は以前のアカウントにアクセスできなくなった事情を説明した。
「そうだったんだ」
相手は特に気にしている風はなかった。
「たまに聞くけど」とその相手は言った。
「なにを?」
「IDが盗まれる話」
「そんなことあるの?」
「あるみたい」
「盗んでどうするの?」
「これも聞いた話だけど、就職とか転職とか」
「就職? どういうこと?」
「スコアが高いと有利になるとかならないとか」
「本当?」
「どうかな、自分にもよくわからないな」
「どんな会社なら有利に?」
「ファストフードの店員には不要なスキルだよな」
「たぶんね」
「IT系の企業とかじゃないか」
「IT系ねえ」
「スコアが高いとできる奴という印象は与えられるかもな」
「なるほど。でも面接の時にバレないか? だってそのスコアがないから人のを盗むわけだろ」
「人事課に強い奴がいたらバレるかもな。でも面接の時に対局しないだろう」
「そうかもしれない」
「君の国にはショーギがあるだろ。強いと就職に有利になるのか?」
「いや、聞いたことない」
「こっちはチェスが強いとそれなりのステータスだからIDを盗む気持ちはわからなくもない」

そんなやりとりをチャットでして、どうやら自分の旧IDは盗まれたという結論に落ち着いた。旧ID名はさすがに憶えていたから検索してみたが、なくなっていた。新しい使用者が自分仕様に変えたのだろう。

私はある時期、ずいぶん前のことだが、人様の履歴書を大量に目にする仕事に就いていたことがあった。母校、というのは語弊があって卒業していないから厳密には母校ではないのだが、まあ母校みたいなところで事務をしていた。

課長だか係長だかに、「藤井君だったら誰を採用する?」と言われて、まとまった履歴書を見せられることがあった。だが、若い男女の履歴書の内容は似たり寄ったりで、経歴で判断しろといわれてもまず無理だった。それはそうだろう、大きな差異といえば大学で専攻した内容ぐらいしかないのだから。課長だか係長に「どういう基準で選ぶのか」を尋ねたことがあったが、課長だか係長には「それがわかれば藤井君に聞かないよ」と言われた。

そんな時に、もしチェスで相当の腕前を持っている人がいれば、書類選考で落とすことはなく、最低でも面接ぐらいまではセットしたかもしれないと、ID窃盗の話を聞いてからそう思った。

大学の事務職というのは結構暇な仕事で、ある時に私は自分の在籍記録を見てみようという気になって、ファイルを探してみた。自分の記憶とは少々年度がずれていたがまあすぐに見つかった。

ほとんど授業に出ていないのにどういうわけかいくつかの単位を取得していた。それについては、そんな先生もいたのだろうと思うだけだったが、目を疑ったのは、自分が退学していることになっていたことだった。六年ほど籍があって最後の年度の学費を払っていなかったから除籍になっていないとおかしい。

最後の年度の学費の振込欄には「済」とあって、三月のある日付が記載されていた。学費を支払うとしたらギリギリの日付だった。自分が支払っていないことに疑いはない。だとしたら誰が支払ったのだろうか。大学からの通知の類は自分のアパートの部屋に送られてくることになっていた。だから親が知ることはないと思っていたが、もしかしたら実家にも送られていたのだろうか。父はもう亡くなっていたから私の学費を私に代わって払ったとしたら母しかいない。

私に一言もなく母は学費を振り込んだのだろうか。そうとしか思えなかった。だとすれば、それを知らずに私は退学届を出してしまったことになる。

母は私が苦労して学業を続けていると思っていたのかもしれない。しかし私はチェスに現を抜かしていた。

おそらく、というか疑いを入れる余地なく母が支払ったに違いないのだが、私の代わりに母が学費を支払っていた事実を知った時にすぐに母にお礼なり言い訳なりをしていればよかったのだが、一抹の後ろめたさのようなものがあった私は母にその話を聞くことが躊躇われた。

そのことを母と話す機会が永遠に失われてしまってから、私は手遅れの後悔をしたが、文字どおりもう遅かった。


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