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「シャッターの前にあるもの」 #06 なぜ、人によって残したくなるものが違うのか

同じ場所にいたはずなのに、あとで写真を見ると、残っているものが違っていることがある。

家族で出かけたあと、LINEの共有アルバムを開く。

同じ時間を過ごしていたはずなのに、
並んでいる写真は少しずつ違う。

私は料理を撮っている。
誰かは、窓の外の光を撮っている。

私は見ていなかった家族の表情を、別の誰かがちゃんと残していることもある。

こんな顔をしていたんだ。
こんなところがあったんだ。

そう思うことがある。

同じ場所にいても、同じものを見ているわけではない。

目の前にある景色は同じでも、先に目に入ってくるものが違う。
気になるものが違う。
残しておきたいと感じるものが違う。

家族の写真なら、それは面白さとして受け取ることができる。

自分には見えていなかったものを、誰かの写真があとから見せてくれる。
同じ時間が、別の角度からもう一度戻ってくる。

でも、仕事で子どもたちを撮っていると、この違いは面白いだけでは済まなくなる。

幼稚園児から高校生まで、長く子どもたちを撮ってきた。

運動会でも、遠足でも、発表会でも、修学旅行でも。
できるだけ全員を残したいと思っている。

誰かだけが多く写っていて、誰かがほとんど写っていない。

そういう差は、できるだけ出したくない。

もちろん、現場ではずっと気をつけている。

クラスの人数。子どもたちの動き。
どの子をどれくらい撮れているか。誰がまだ少ないか。
撮りながら、頭のどこかではいつも気にしている。

それでも、あとで写真を並べると差は出る。

その差は、手を抜いたからだけで生まれるわけではない。

立ち位置もある。行事の流れもある。
表情の出方もある。カメラとの距離もある。
販売写真として選ぶ段階で外れてしまうこともある。

いくつもの理由が重なって、写真に残りやすい子と、残りにくい子が出てくる。

けれど、その中でも大きいのは、やはり目の向き方なのだと思う。

放っておくと、先に目が向く子がいる。

よく動く子。
表情が大きい子。
カメラに気づいて、まっすぐ反応を返してくれる子。

シャッターを押す理由が、向こうからやって来る。
だから、撮れる。

一方で、写真に残りにくい子がいる。

列の端にいる子。
楽しんでいないわけではないのに、表情が大きく動かない子。
カメラに気づいても、すぐに目をそらす子。

その子たちも、ちゃんとその時間の中にいる。
でも、意識して見ようとしないと、するりと抜けてしまうことがある。

撮っているときには、見ているつもりでいる。

全体を見ている。ちゃんと目を配っている。

そう思っている。

けれど、あとで写真を並べると、そこに差が出ている。

「うちの子の写真が少ないんですけど。」

そう言われたことがある。

その言葉は、やはり重い。

ただ苦情を言われたからではない。
自分でも分かっているからだ。

できるだけ見ようとしていた。
でも、同じようには残せていなかった。

その子がいなかったわけではない。
何もしていなかったわけでもない。

ただ、自分の目がそこへ届ききっていなかった。

見えているつもりでいることと、実際に残せていることは、同じではない。

だから仕事では、何度も視点を切り替える。

目立つ子だけではなく、静かな子を見る。
前に出てくる子だけではなく、端にいる子を見る。
反応を返してくれる子だけではなく、何も言わずそこにいる子を見る。

自分の目が自然に向かう場所だけを、信用しすぎないようにする。

そうしなければならないということ自体、人の目は最初からまんべんなく世界を見ているわけではない、ということだ。

視点とは、ただ好きなものを見る力ではない。

何に自然と目が向くのか。
何が見えやすくて、何が抜け落ちやすいのか。

その両方を含めて、その人の見方なのだと思う。

同じ場所にいても、人によって残したくなるものが違う。

それは、見え方の違いであると同時に、見落とし方の違いでもある。

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