「シャッターの前にあるもの」#10 最終章:シャッターの前にあったもの
カメラを持たない時間が、少しあった。
そのとき正直に言うと、
解放感があった。
失敗できない、という感覚から
離れられる時間。
25年撮ってきて、
その感覚がいつの間にか
体に染み込んでいたのだと思う。
仕事以外でちゃんとした装備を持って
撮影に向かっていたのは、
娘たちがまだ小さかったころくらいのものだった。
失敗できない、という感覚がない。
それだけで、カメラの重さがちがった。
二人が仲睦まじくしている姿を、
ただ撮りたくて撮っていた。
娘たちが小さかったころのシャッターの前には、何もなかった。
評価も、比較も、責任も。
ただ、通り過ぎたくない、という気持ちだけがあった。
この連載を通じて、
写真を苦しくしてしまうものを
ひとつずつ見てきた。
どう見られるか。
比べてしまうこと。
うまく撮ろうとするあまり、
写真が死んでいくこと。
そういうものをたどりながら、
最後にここへ戻ってきた。
写真を好きに戻すとは、
昔の自分に戻ることではない。
25年は消えない。
仕事として撮ってきた時間も、
失敗できないという緊張の中で
身につけてきたものも、
全部ここにある。
ただ、その奥に、
ずっと残っていたものがある。
二人の娘が笑っていた。
それを見て、
撮らずにはいられなかった。
それだけのことだった。
写真の最初は、
いつもそういうところにあったのだと思う。
好きだと思って撮れる瞬間が、
少なくなった。
それは正直なことだと思う。
でも、少なくなったということは、
まだある、ということでもある。
その瞬間がどこから来るのか、
今なら少し分かる気がしている。
評価される前の、
比べる前の、
うまく撮ろうとする前の、
何かを見て、
体がわずかに動く、
あの感じ。
それが残っていれば、
写真はまだ始まる。
仕事を辞めたとき、
私の写真はどうなるだろう、
と思う。
それが楽しみだという気持ちが
あるとしたら、
たぶんその楽しみの中に、
答えはもう入っている。
失敗できない、ではなく、
撮りたい、から始まる時間。
その入り口に、もう一度立てるとしたら。
写真を好きに戻すというのは、
きっとそういうことなのだと思う。
シャッターの前に戻ること。
娘たちが小さかったころの、
あの感じへ。
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