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「シャッターの前にあるもの」 #03上手い写真とは何なのだろう

いい写真ですね。
きれいですね。
上手ですね。

そんな言葉が、自然と出てくる。

けれど、写真を長く続けていると、ふと立ち止まることがある。

その「上手い」は、いったい何を指しているのだろう、と。

写真には、確かに分かりやすい上手さがある。

ぶれていないこと。
ピントが合っていること。
あとで見返したとき、そこにいたことを思い出せること。

そういう写真には、見る側を迷わせない強さがある。

けれど、条件が整っていても、届いてこない写真がある。

明るい。ぶれていない。表情も押さえている。
でも、見返したときに、そこにあったはずの何かがない。

私はそういう写真を、何度も撮ってきた。

上手く撮れたかどうかと、その写真に体温があるかどうかは、同じではない。

構図。
ピント。
光。
タイミング。

どれも、写真には欠かせない。
私も長い時間をかけて、そこを鍛えてきた。

でも、それだけで決まるわけでもない。

必要なものが揃っていても、写真はそれだけでは生きてこない。

そのことを感じさせてくれた人がいる。

同じ現場で、十年以上一緒に撮ってきたカメラマンがいた。

彼の写真は、すぐに分かった。

行事の写真を撮るとき、こちらはどうしても効率を考えてしまう。

一人だけを大きく写すより、数人が同じ一枚の中に入っている方が、その写真を選ぶ人は増える。

表情がよくて、バランスも整っていて、見た人が自分の子を見つけやすい。

だから自然と、そういう撮り方を選びやすくなる。

それは、フィルム時代の名残でもあったのだと思う。

限られた枚数の中で、どれだけ多くの子を残せるか。
どれだけ多くの人に届く写真を撮れるか。

その感覚が、撮り方の中にずっと残っていた。

彼の写真は、そこから少し外れていた。

一人の子に、深く寄っていた。

均等ではない。
効率のいい撮り方ではなかったのかもしれない。

けれど、その写真を見ていると、そこにはたしかにその子がいた。

みんなの中の一人ではなく、その瞬間のその子がいた。

写真を見たとき、
「あ、これ自分だ」
と思えるような写真。

そういう写真が、そこにはあった。

私はそのとき、少し羨ましいと思った。

見ている場所が、違うのだと思った。

同じ場所に立って、同じ時間を見ているのに、その人には別の景色が見えている。

そんな気がした。

そして今思い返すと、私はずっとそのジレンマの中にいたのだと思う。

多くの人に届くように撮ることと、
ひとりの子の気配に深く寄ることのあいだで。

どちらが正しいと、簡単に言えるものではない。

心に残る写真は、いつも整っている写真ばかりではなかった。

彼と飲みに行ったとき、そのことを伝えたことがある。

あなたの写真は、見ていると分かるんですよ。
一人の子をちゃんと見ている、と。

彼は少し間を置いてから、こう言った。

俺も、あなたの写真、好きですよ。

その言葉が、少し意外だった。

けれど今思うと、お互いが、相手の中に自分にないものを見ていたのだと思う。

上手い写真とは何か。

その子がそこにいる写真を見たとき、私はその答えに少し近づいた気がした。

技術は、写真を成立させる。

光を読むこと。
立つ位置を決めること。
タイミングを待つこと。

どれも、長く撮る中で身につけてきたものだ。

けれど、その技術をどこへ向けるのかは、人によって違う。

何を残そうとしていたのか。
どこに心が動いていたのか。

そこに、その人の目が出るのかもしれない。

写真には、点数が存在しない。

それでも私たちは、つい順位をつけてしまう。

上手い。
普通。
届かない。

そんなふうに、先に言葉が来てしまう。

けれど、長く撮ってきて思うのは、自分の中に長く残る写真が、いつも一番上手い写真だったかというと、そうではなかった、ということだ。

少し整いきっていない写真。
説明しようとすると、どこがいいのか分かりにくい写真。

それなのに、なぜか忘れられない写真がある。

上手さで測れないものが、写真の中にはある。

では、その「忘れられない」はどこから来るのだろう。

その写真を撮った人が、何を見ていたのか。
どこに心を動かしていたのか。

そこから来ているのだと思う。

その違いは、写真の表面には出てこない。
でも、見返したときに、かすかに伝わってくるものがある。

それは、言葉も同じかもしれない。

では、その「何を見ていたのか」は、どこから来るのだろう。

それを次に見ていきたい。

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