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「シャッターの前にあるもの」 #09 誰のために撮るのか

母が終活を始めて、昔のアルバムを出してきた。

父は若い頃、趣味で写真を撮っていたらしい。
そのアルバムの中に、若い頃の父と母が写っていた。

ずっと見てきたはずの顔なのに、
写真の中の二人を見ていると、
ああ、こんな顔をしていたんだな、と思う。

こんな場所へ行っていたのか。
こんな時間を過ごしていたのか。

自分の知らなかった両親の時間が、
そこから少しずつ立ち上がってくる。

記憶だけでは戻ってこなかったものが、
写真をきっかけに立ち上がってくることがある。

父が撮った写真は、きっとそのときは父のものだったのだと思う。

見たものを残したかったのかもしれない。
その場所にいた母を撮りたかったのかもしれない。
その時間を、自分の中に置いておきたかったのかもしれない。

でも、何十年も経ってから、それを見ているのは私だった。

写真は、撮った人だけのところに留まるとは限らない。
あとから見る人の中で、別の意味を持ち始めることがある。

仕事で、小学生の修学旅行に同行したときのことだ。

撮影が終わって一週間ほどしてから、
学校から郵便が届いた。

封を開けると、
子どもたちの手紙が一冊の冊子になって入っていた。
表紙までついていた。

それだけで、もう嬉しかった。
そのために、学校で時間を取ってくれたのだと分かったからだ。

百名以上の手紙を、一人残らず読ませてもらった。
一人ひとり、書いてあることは違った。

楽しかったこと。
覚えている場面。
写真を撮られていたときのこと。
ありがとうという言葉。

その中に、こういう一文があった。

「色々忘れてしまったことや、お母さんたちに思い出を話す時、写真があるととっても助かったり分かりやすかったりします。本当にありがとうございました。」

自分では、その場を記録していたつもりだった。

抜けがないように。
喜んでもらえるように。
そんな気持ちで撮っていたと思う。

けれど、あの手紙を読んだとき、
気づいたことがあった。

自分が撮っていたのは、
その場面だけではなかったのかもしれない。

子どもが家に帰って、
家族に修学旅行の話をする時間。
言葉だけではうまく伝えきれないことを、
写真を見せながら話す時間。

そういう時間にまで、
写真は届いていたのだと思う。

手紙を読みながら、
自分の中でも、あの修学旅行が戻ってきた。

体験中の、真剣なまなざし。
ホテルの部屋で、友達とふざけあっていた顔。
移動中、窓の外を眺めていた横顔。
レンズに気づいて、少し笑った子のこと。

子どもたちが写真を見て思い出したように、
私もまた、その手紙を通して思い出していた。

写真を撮っていたのは自分だった。
けれど、その写真によって記憶が戻ってきたのは、子どもだけではなかった。

誰のために撮るのか。

撮っているときには、
はっきり答えられない。

目の前のものを逃したくない。
その感覚だけが先にある。

けれど写真は、撮った瞬間で終わらない。

あとから子どもの中で動き出す。
その話を聞く家族の中でも動き出す。
そして、撮った自分の中でも、
もう一度動き出すことがある。

誰のためかは、
撮り終わってからしか、分からないのかもしれない。

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