写真を置いて、言葉で写しているもの
私は、二十五年以上、写真を撮る
仕事をしてきた。
学校の行事。
卒業アルバム。
結婚式。
家族写真。
ステージ発表。
一度しかない時間のそばに立って、
シャッターを押してきた。
撮り直せない場面がある。
もう一度同じ顔には戻らない瞬間がある。
あとから家族の中で何度も見返される一枚がある。
写真の仕事をしていると、
そのことを身体で覚えていく。
ただきれいに撮ればいいわけではない。
ちゃんと写っていれば、それで終わりでもない。
その子がそこにいたこと。
その人がその日を生きていたこと。
誰かがその時間を、あとから思い出せること。
写真は、そういうものを預かる仕事でもあった。
だから私は、写真の強さを知っている。
一枚の写真は、言葉より早く届く。
そこにいた人の顔も、場所も、時間も、
いっぺんに見せてしまう。
けれど、このnoteでは、あえて写真を
使わずに書いてきた。
写真家なのに、写真を出さない。
自分でも少し不思議なことをしていると
思う。
でも、そうしたかった。
写真を置いたとき、言葉だけで何が残せるのかを知りたかった。
写真があれば、すぐに伝わることがある。
この子の表情。
この場所の光。
この日の空気。
この瞬間の美しさ。
けれど、写真を置かないことで、読む人の中にだけ立ち上がるものもあるのではないかと思った。
私は昔から、漫画より小説に心を動かされることが多かった。
絵があることで届くものもある。
でも、言葉だけで読んでいるとき、人は自分の記憶や経験を使って、その場面を自分の中に作っている。
同じ文章を読んでも、浮かぶ景色はきっと人によって違う。
そこが面白いと思ってきた。
写真は、外にあったものを写す。
言葉は、ときどき、読む人の中にあったものを呼び起こす。
忘れていた場面。
昔の匂い。
誰かの声。
もう会えない人の顔。
そういうものが、文章を読んでいる途中で、ふいに戻ってくることがある。
私がこの場所で書きたいのは、何かを教える文章ではない。
写真の撮り方を説明したいわけでもない。
正しい見方を示したいわけでもない。
写真を撮ってきた人間として、長いあいだ見てきたものがある。
同じ行事を撮っても、カメラマンによって残すものは違う。
同じ子どもを見ていても、どの顔に手が伸びるかは違う。
整った一枚を選ぶこともあれば、少し崩れていても、その子らしさが出ている一枚を捨てられないこともある。
そこには、撮った人間の見方が出てしまう。
文章も、たぶん同じなのだと思う。
何を書くのか。
どこで立ち止まるのか。
何を見過ごせないのか。
そこには、書いている人間そのものが出てしまう。
だから私は今、写真を置いて、言葉で写しているのだと思う。
カメラでは写せないものがある。
けれど、言葉だから近づけるものもある。
写真に写る前の気持ち。
誰にも見せなかった迷い。
通り過ぎたはずなのに、まだ心に残っている場面。
うまく説明できないけれど、たしかに自分を動かしたもの。
そういうものを、言葉で残してみたい。
見せるためではなく。
分からせるためでもなく。
読んでくれた人が、自分の中にあった何かを、ふと思い出せるように。
私はここで、写真を入口にして書いています。
でも、写真だけを書いているわけではありません。
写真を置いても、写すことは終わらなかった。
むしろ今は、カメラを持っていた頃には写しきれなかったものを、言葉で見ようとしているのかもしれません。
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