「シャッターの前にあるもの」 #01 なぜ、写真は似ていくのか
人は、気づかないうちに似ていくことがある。
選ぶ言葉も。
見せる表情も。
立つ場所も。
写真にも、それは出る。
違う人が撮っているはずなのに、あとで並べて見ると、どこか同じ空気の中に収まっていくことがある。
撮る前から、
おかしくないだろうか。
変に見えないだろうか。
ちゃんと見えるだろうか。
そんなふうに、まだ押してもいないシャッターの前で、もう評価が始まっていることがある。
それは、自分の目ではない。
評価は本来、あとから来るものだったはずだ。けれど、いつのまにか私は、撮る前に先回りするようになった。
その瞬間、感性はほんの少し引く。
私は25年、写真を仕事にしてきた。
家族写真。
結婚式。
ステージ写真。
学校アルバム。
失敗できない場面を、何度も撮ってきた。
そこにはいつも、責任がある。
外せない。
求められるものを残さなければならない。
渡すべきものを、ちゃんと渡さなければならない。
それは誠実なことだ。
だから私は、安全な方を選んできた。
この構図なら外しにくい。
この距離なら崩れにくい。
この一枚なら、ちゃんと応えられる気がする。
実際、そういう判断に助けられてきた場面もたくさんある。
でもあるときから、気づくようになった。
安全を選ぶ、そのほんの一瞬の確認が、写真の中にあったはずの震えを小さくしてしまうことがある。
それは、ちゃんと残したい気持ちから来ている。
だからこそ、厄介だった。
デジタルになってから、その傾向はさらに強くなった気がする。
何枚でも撮れる。
その場で確認できる。
あとから整えることもできる。
いい写真はたくさん撮れるようになった。
でも、震えている写真は少ない。
整った写真は、きれいだ。
でも、きれいに整っているのに、なぜか届いてこない写真がある。
ちゃんと撮れている。
悪くない。
でも、その場にあった何かが抜けている。
私はプロとして完成していく一方で、レンズの向こう側に立つ「私」を、どこかで置き去りにしていたのかもしれない。
カメラを向けると、子どもたちの表情が変わることがある。
さっきまでそこにあった顔が、シャッターを意識した瞬間に切り替わる。
キメ顔。
お決まりのポーズ。
少しつくった笑顔。
撮られることに慣れた子どもたちは、カメラの前での顔を、もう持っている。
そしてその顔には、どこか似た気配がある。
ただ、カメラの前でどう見えるかを、もう知っているのだ。
撮る前から、どう見えるかをすでに決めてきている。
それは、大人も同じなのかもしれない。
SNSが広がってから、その感覚はもっと身近になった。
結婚式の撮影では、事前に参考写真を見せてもらうことが増えた。
「こんな感じで撮ってほしいんです」
スマートフォンの画面には、どこかで見た整った写真が並んでいる。
それは悪いことではない。
何を求められているのかが分かるのは、仕事としてはありがたいことでもある。
でも、その画面を見たあとで、ふと立ち止まることがある。
目の前にいるのは、ほんとうにこのふたりなのだろうか。
それとも、すでに誰かが撮ったイメージなのだろうか。
まだ始まってもいない一日を、先に誰かの視点で見はじめてしまう。
そういうことが、たしかにある。
自分の目より先に、誰かの目がシャッターの前に立ってしまう。
たぶんそれは、写真の現場だけの話ではない。
自分が最初に何に反応していたのか。
何に足が止まっていたのか。
その感覚は、気づかないうちに少しずつ見えにくくなっていく。
人はいつから、自分がどう感じるかより先に、どう見られるかを気にするようになるのだろう。
その始まりは、思っているよりずっと早いところにあるのかもしれない。
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