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思想編集室|ソニー・クラーク|『Cool Struttin’』|クールとは、熱がないことではなく、熱を制御できること

クールとは、冷たいことでも、感情が薄いことでもない。ソニー・クラーク『Cool Struttin’』を聴いていると、むしろその逆を思う。ここで鳴っているのは、全員がしっかり熱を持った演奏だ。

それでも暑苦しくならないのは、その熱が歩幅の中にきちんと収められているからだろう。

今回はこの名盤を、クールとは、熱がないことではなく、熱を制御できることという視点から考えてみたい。

✽     ✽     ✽

クールという言葉を、私たちは少し誤解しているのかもしれない。

冷たいこと。
熱くなりすぎないこと。
感情を出しすぎないこと。

そういう意味で使うことが多い。
けれど、ソニー・クラーク『Cool Struttin’』を聴くと、別の意味が立ち上がる。

ここで鳴っているのは、熱のない音楽ではない。

むしろ、かなり熱い。

アート・ファーマーのトランペットは端正でありながら強く、ジャッキー・マクリーンのアルトは耳をさらうように鋭く、ポール・チェンバースのベースは腹に響き、フィリー・ジョー・ジョーンズのドラムは場をぐいぐい前へ進めていく。

全員がちゃんと熱を持っている。

それでも、このアルバムは暑苦しくならない。

この不思議こそが、『Cool Struttin’』の核心なのだと思う。つまりこの盤が教えてくれるのは、クールとは、熱がないことではなく、熱を制御できることだということだ。

ジャケットはあまりにも有名だ。
あの足取り。
あのヒール。

あの、ただ歩いているだけなのに、歩き方そのものがスタイルになってしまっている感じ。

見た目だけなら、粋、余裕、都会、洗練といった言葉で受け取りたくなる。けれど、針を落としてみると、そこにあるのは単なる見た目の洒落ではない。

音はもっと濃く、もっと身体的だ。
しかも、その濃さが崩れずに保たれている。
たとえばソニー・クラークのピアノには、たしかに歌心がある。

解説でも、彼の演奏には無理がなく、自然にスウィングし、しかもブルースへの力強い感覚があると書かれていた。

それは実際に聴いていてもよくわかる。

彼のピアノは、がんばって前へ出ようとしていない。だが、だからといって弱いわけでもない。
自然に流れていくのに、芯は薄くならない。

この自然さと芯の両立が、まずすでにクールの条件を作っている。

ここでいうクールは、感情を消すことではない。
むしろ、感情や熱をちゃんと持ちながら、それをだらしなくこぼさないことだ。

ソニー・クラークのピアノは、まさにそういう弾き方をしている。

歌う。
けれど、歌いすぎない。
ブルースを感じさせる。
けれど、べったりとは塗らない。
感情を引っ込めているのではなく、歩幅の中に収めている。そこに成熟がある。

アート・ファーマーのトランペットについて、僕はレコード男子版で「男前」と書いた。この言葉は、思想編集室でもそのまま使えると思う。

男前とは、力が強いことではない。
強さを乱暴に使わないことだ。
アート・ファーマーの音には、ちゃんと熱がある。
だが、その熱は威圧のために使われない。
輪郭が整っていて、端正で、しかも芯がある。
熱を見せびらかさず、それでも音の姿勢だけでこちらを納得させる。

この“力の扱い方”が男前なのだと思う。

そして、こういう男前さは、クールの本質にも近い。

その一方で、ジャッキー・マクリーンのアルトは、盤の中に別の色を差し込んでくる。

少しひりつく。
少し痛い。
少し引っかかる。

きれいに整った流れの中に、うっすら傷を残すような音だ。

解説でも、彼の音にはバード由来の鋭さの一側面が強く押し出されていて、まるで痛みで声が変わるような切実さがある、といった趣旨のことが書かれていた。

たしかにそうだと思う。

マクリーンの音には、ただの洗練ではない、切り傷のような魅力がある。ここがこのアルバムのさらに面白いところだ。

クールとは、傷を消して滑らかにすることではない。そうではなく、傷を構成の中に残したまま、全体を崩さないことなのではないか。もしマクリーンの鋭さだけが前面に出れば、この盤はもっと荒々しい表情になっただろう。逆に、その鋭さを消してしまえば、この盤はもっと無難な洗練に寄っていたかもしれない。

でも実際にはそうならない。

傷は残る。
その傷が盤の魅力になる。
しかも全体は崩れない。
この均衡が見事だ。

そして、この均衡を下から支えているのが、ポール・チェンバースとフィリー・ジョー・ジョーンズだ。

ポール・チェンバースのベースは、ただ土台である以上の存在感を持っている。
腹に入る、という感覚がある。
音楽の床でありながら、床そのものが震えている。

一方、フィリー・ジョー・ジョーンズのドラムは、単なる時間管理ではない。
ソニー・クラーク自身が、彼はただ刻むのではなく、他の奏者をよく聴き、リズムのパターンをまるでメロディのように発展させる、と高く評価している。これは重要な指摘だと思う。ドラムが単なる後方支援ではなく、熱の制御装置になっているからだ。

押し出す。
だが、暴走させない。
存在感を持つ。
だが、全体を壊さない。
このリズム隊がいるから、盤の熱はだらしなく溢れずに済む。

考えてみれば、“struttin’”という言葉自体が象徴的だ。ただ歩くのではなく、歩き方そのものが様式になっている状態。

勢いよく走るのではない。
止まってポーズを決めるのでもない。
前へ進みながら、姿勢を崩さない。

『Cool Struttin’』のクールさは、まさにそこにある。

熱があるから歩ける。

でも、その熱をそのまま噴き出さず、歩幅の中に収めているからスタイルになる。

タイトル曲についての解説では、ソニー・クラークがこの曲名を妻の歩き方のようなメロディから思いついた、といった趣旨のことが紹介されている。

古いステップの感覚を今ふうにした、24小節のブルースでもあるらしい。ここにも、この盤の本質が見える。古いものを切り捨てるのではない。過去の様式を、そのまま懐古趣味にするのでもない。受け継ぎながら、いまの歩き方に変える。クールとは、そういう変換能力のことでもあるのだろう。

“Blue Minor”についても、ソニーはマイナーで“ブルー”な、くつろいだ、ムーディな感覚を出したかったと語っている。

これも興味深い。

この盤はタイトル曲だけで成立しているのではない。歩幅のかっこよさだけではなく、陰りやムードを置けるからこそ、クールが表情だけで終わらない。

熱は一色ではない。押し出す熱もあれば、沈み込む熱もある。それらを全部まとめて制御しているから、このアルバムは薄くならない。

さらに“Sippin’ At Bells”ではチャーリー・パーカーへの敬意がのぞき、“Deep Night”にはバド・パウエルから受け取った感覚があるという。

つまりこのアルバムは、ただスタイルだけで出来ているのではなく、いくつもの先達の熱を引き受け、そのうえで自分たちの歩幅に作り直している。

模倣ではない。
継承でもあるが、それ以上に、熱の様式化なのだと思う。

ここでナット・ヘントフの言葉が効いてくる。

彼はジャズにおける“soul”を、その人が楽器の可能性の中で育ち、自分だけの音の出し方やフレージングを持つことだと書いている。

これはまさに『Cool Struttin’』全体に通じる。

クールとは、熱を消した音楽ではない。
自分の熱が、ちゃんと自分の形になっている音楽だ。

他人の熱ではない。
借り物の勢いでもない。
自分の熱を、自分の歩き方にしている。

それがクールなのだ。

そう考えると、このアルバムのかっこよさは、表面の洗練だけでは説明できない。

全員が熱い。
全員が自己主張も持っている。
しかも、それぞれの個性はかなり強い。

それでも、全体としては崩れない。
暑苦しくならない。
だらしなくならない。

つまりここでは、熱は抑圧されているのではなく、様式へと変換されている。

クールとは、熱がないことではなく、熱を制御できること。

『Cool Struttin’』は、そのことをあまりにも鮮やかに示している。歩くように前へ進みながら、姿勢を崩さない。熱を抱えたまま、涼しい顔をする。ジャズにおけるクールとは、たぶんそういう成熟のことなのだろう。

だからこの盤は、何度聴いてもかっこいい。

しかも、そのかっこよさは若さの勢いだけではない。むしろ、勢いをそのまま見せない知性や抑制のかっこよさだ。

内側では火がついている。
けれど外側は歩幅を乱さない。

その二重性が、このアルバムをただの名盤ではなく、思想編集室で考えたくなる一枚にしている。


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