白い外道
白い外道 第一話「白い庭師」
一
午後の光が、ステンドグラスを溶かして床に落ちていた。赤と青と、少しの金。祭壇の前に敷いた古い絨毯の上で、その色は水たまりのように揺れている。
その真ん中に、ヴィンセント・クロウは膝を折って座っていた。
褐色の肌に銀の髪。伏せたまつげの下でワインレッドの瞳が静かに絵本の頁をなぞる。黒い祭服は皺ひとつなく、首から下げた十字架だけが、彼の体温を奪うように冷たく光っていた。
膝の周りには、六人の子どもが団子になっている。
「――むかしむかし、世界がまだ一度も汚れたことのなかった頃のお話です」
低く、よく通る声だった。子どもたちが息を詰める。
「神さまは、ひとりの庭師に銀の鋏をお授けになりました。『この庭に、美しいものだけが咲くように。醜いものは静かにお切りなさい』と」
「しずかに?」
最前列で、栗色の髪を跳ねさせた少女が首をかしげた。十一歳のアリス。膝を抱えて座っていられたのは、ものの三分だ。いまはもう身を乗り出して、ヴィンセントの祭服の袖を掴んでいる。
「そう、静かに」ヴィンセントは頁を繰った。「庭師は、誰にも気づかれないように、夜のあいだだけ働きました。枯れた枝を落とし、腐った実をもいで朝が来る前に土へ還してやるのです。――だから朝が来ると庭はいつも綺麗なのでした」
「ねえ神父さま」アリスが袖を引く。「庭師さんが切ったえだは、どこにいくの?」
「土に還るんだよ」
「じゃあ、わるいものもお花になれるの?」
ヴィンセントの指が、頁の途中で止まった。
ほんの半拍。窓から差す光が彼の横顔に赤い染みを作る。
――なれないよ、と、心のどこかが冷たく答える。腐ったものは、腐ったまま、消えていくだけだ。
けれど彼は、絵本を閉じて少女の頭にそっと手を置いた。
「どうだろうね。だから庭師さんは、毎晩、庭を見て回るのさ」
アリスは頬をふくらませて、それでも笑った。ヴィンセントの口の端もわずかに緩む。この教会でこの男が本当に表情を動かす相手は、この生意気な子どもひとりきりだった。
「さあ、おやつだ。手を洗っておいで」
子どもたちが歓声を上げて散っていく。アリスは最後まで振り返り二度、手を振ってから廊下の向こうへ消えた。
入れ替わるように初老の婦人が数人堂の後ろから近づいてきた。日曜のミサの常連たちだ。
「クロウ神父さま。あなたがいらしてから、あの子たちの顔つきが、すっかり変わりましたわ」
「私は、ただ本を読んでいるだけですよ」ヴィンセントは、恥じ入るように目を伏せた。「あの子たちが、勝手に育っていくのです。私はその庭を、少し掃くだけで」
婦人たちが、まあ、と口々に感嘆する。なんて謙虚ななんてお優しい神父さま。彼は柔らかく微笑んで丁寧に頭を下げた。
誰ひとりその「掃く」という言葉の重さに気づく者はいなかった。
静けさが戻る。
ヴィンセントは絵本を胸に抱いたまましばらく祭壇の光を見上げていた。慈愛に満ちたどこにでもいる目立たない神父の顔で。
磔にされた男の像が、彼を静かに見下ろしている。
――あなたは、赦す方だ。
ヴィンセントは、胸元の十字架にそっと指を触れた。オリハルコンの金属は、この聖堂のどんな聖具よりも古くどんな祈りよりも冷たい。
――けれど、私は赦さない。醜いものを美しいままにしておくほど私は寛大ではないのです。
微笑みは、変わらなかった。ただ、瞳の底の色だけが少しだけ深くなった。
二
夕刻。堂内の光が藍色に沈むころ告解室のカーテンが、内側から静かに揺れた。
格子越しの闇に老婆がひとり座っている。信徒の風を装ってはいるが、その手つきに祈りの気配はなかった。
「神父さま。懺悔を聞いていただけますか」
「主は、すべての告白に耳を傾けられます」
定型の応答。だが老婆が口にしたのは罪ではなく地名と時刻とひとつの名前だった。
港の廃資材工場。今夜。ダミアン・ロウという名の男。
「あの男は」老婆の声が、わずかに震えた。「先週、うちの孫を……見せしめだと言ってみなの前で。まだ十四の子を」
「そうですか」
ヴィンセントの声に温度はなかった。慰めもしなければ、憤りもしない。ただ、格子の向こうの闇を透明な目で見つめている。
「その男は、いま、笑っていますか」
「え……?」
「自分のしたことを、誇っていますか。人に語って聞かせていますか」
老婆は戸惑いながらうなずいた。あの男は、いつも自慢しているのだと。俺ほど残酷な人間はいない、と。
格子の向こうで老婆はまだ何か言っていた。孫の傷のこと警察が動かないこと街の誰もがあの男を恐れていること。ヴィンセントは、その半分も聞いていなかった。
彼の頭にあったのは、たったひとつ。――また、下品な雑草が、一本。庭を汚している。
ヴィンセントは、ゆっくりと目を閉じた。
「――わかりました」
それだけだった。カーテンの向こうで老婆が立ち去る足音が遠ざかる。
告解室にひとり残ったヴィンセントはまだ微笑んでいた。だがその微笑みは、絵本を読んでいたときのものとはまるで別の生き物のようだった。
温かいものがひとつも残っていなかった。
三
夜。廃資材工場の内部は、錆の匂いで満ちていた。
剥き出しの鉄骨。割れた天窓から差す月光。積み上げられた鉄屑の山のあいだに、裸電球がひとつ頼りなく揺れている。
その光の下で男がひとり、蹲る人影を蹴りつけていた。
「ほら、鳴けよ。もっとみっともなく鳴いてみろ」
ダミアン・ロウ。太い首に金の鎖を幾重にも巻き、指輪で膨らんだ拳を血で汚している。足元の男はもう抵抗する力もなくただ丸まっていた。
「見てるかお前ら」ダミアンが、取り巻きに向かって両腕を広げる。「これが力だ。俺はな、こいつが泣こうが謝ろうが手を止めねえ。なぜだかわかるか? 俺の残酷さこそが、この街で一番強えって証だからだ。俺より外道な奴なんざこの世にいねえ!」
げらげらと下卑た笑い声が反響する。
ダミアンは足元の男の髪を掴んで、顔を無理やり上げさせた。
「おい、お前もそう思うよなあ? 俺は最高だよなあ?」
答えられない男の頬を指輪だらけの手で張る。取り巻きがまた笑う。誰も彼も他人の痛みを肴にして酒でも飲むように笑っていた。
工場の空気そのものが、腐っているようだった。
――そのとき、裸電球がふっと消えた。
風もないのに揺れて消えた。
「……あ?」
闇の中に足音がひとつ。
こつ、こつ、と絨毯を歩くように静かな靴音が、錆びた床の上を近づいてくる。取り巻きたちが銃を抜く。だが誰も引き金を引けなかった。
月光の帯の中にそれは現れた。
黒い祭服。銀の髪。首元で鈍く光る十字架。
場違いなほど清潔なその姿に、取り巻きたちは、一瞬、言葉を失った。錆と血にまみれたこの工場へ教会の匂いがふいに紛れ込んだからだ。誰かの喉がごくりと鳴った。
神父は、まるで散歩の途中で道に迷ったかのような、穏やかな顔をしていた。
四
「――ひどい匂いだ」
ヴィンセントは、鼻先を軽くつまむような仕草をした。
「血の匂いではありません。あなたの言葉の匂いです、ダミアンさん」
「なんだ、てめえ」ダミアンが血のついた拳を握り直す。「神父さまが、道に迷ったか? ここは教会じゃねえぞ。ここは、俺の――」
「知っていますよ。あなたが、いま、何をおっしゃっていたかも」
ヴィンセントは、蹲る男のかたわらに膝をつき、その脈を確かめた。まだ、生きている。彼は、ほっと息をつくでもなくただ事実として頷き立ち上がった。
「『俺より外道な奴はいない』。――そう、聞こえました」
微笑んだ。それは、心の底から哀れむような優しい笑みだった。
「あなたがた下品な方は、いつもそうだ。残酷さを声高に誇示する。人に見せて、語って、笑う。けれどね」
彼は、一歩、前に出た。
「残酷さを声高に誇示する……それは、自分の弱さを隠すための、最も下品な手段だ。真の暴力(ちから)というものは、もっと静かで極めて美しいものですよ」
指を、ぱちん、と鳴らす。
「――例えば、このように」
その瞬間、いちばん手前の取り巻きの体が、音もなくいくつもの立方体に切り分けられた。
悲鳴すら間に合わなかった。血が噴き出す前に、賽子のように整った肉の塊が、ぼとぼとと床に崩れ落ちる。断面は、鏡のように滑らかだった。
誰も、何が起きたのか理解できなかった。
「見えましたか?」ヴィンセントが、優雅に片手を挙げる。「いいえ、見えませんね。美しいものは、目には映らない。無駄がないというのは、そういうことです」
残りの男たちが、我に返って発砲した。
届かなかった。
ヴィンセントの周囲で、空気がひとりでに渦を巻く。弾丸は見えない壁に触れて、あらぬ方向へ弾け飛んだ。彼は、舞うように身をひねり指先で宙を撫でた。それは、荒々しく野生的でありながら、一片の無駄もない、祈りのような所作だった。
撫でた軌跡に沿って、鎌鼬が走る。
二人の男が、腰から上と下に、綺麗に分かれた。もう一人は、腕を、その次は首を。ヴィンセントの体術は止まらない。踏み込み掌を返し袖を翻すたびに風が肉を裂いていく。血飛沫は、まるで彼を避けるように舞い祭服には一滴も触れなかった。
ひとりが、腰を抜かして這って逃げようとした。
「お、俺は関係ねえ! ただ見てただけだ!」
「見て、笑っていましたね」
ヴィンセントの声は、あくまで穏やかだった。
「他人が壊されるのを肴にして、笑える。――それを、下品と言うのですよ」
指を、軽く振る。男の体は、這った姿勢のまま、いくつもの断面に分かれて崩れた。無駄な悲鳴は、ひとつも上がらなかった。それだけが、せめてもの美点だった。
「た、助けて……くれ……」
最後に残ったダミアンが、尻餅をついたまま後ずさる。金の鎖が、ずるずると床を這った。
「命乞い、ですか」
ヴィンセントは、心底つまらなそうに目を細めた。
「いちばん、見苦しい」
彼が右手を、天へ向けて、ゆっくりと持ち上げる。
ダミアンの巨体が、糸で吊られた人形のように、ふわりと宙へ浮いた。
「ま、待て、話を――」
「もう、結構です。あなたの声は、聞き飽きました」
右手を、握る。
浮いた体を包むように、風が渦を巻き始めた。細く、速く、やがて天窓に届くほどの太い柱となって。暴風の中で、ダミアンの絶叫は、ぐるぐると回りながら、次第に形を失っていった。金の鎖が、指輪が、そして、それ以外のものが、渦の内側で赤い霧に変わっていく。
ヴィンセントは、その光景を、指揮者のように片手を添えて静かに見つめていた。美しい、と、その横顔は言っていた。ようやく静かになった、と。
――竜巻が、ほどけるように止んだとき。
上から、赤い雨が、降ってきた。
ヴィンセントは、いつのまにか手にしていた黒い洋傘を、ぱさりと開いた。傘の布を、細かな血の雨が叩く。彼は、その音を雨だれでも聞くように静かに受けていた。
傘の陰で、十字架が揺れた。表面に、刻まれた文字が、月光を受けて一瞬だけ浮かび上がる。
――Privilegium Iustitiae a Deo. 正義とは、神に許された、私への特権である。
文字は、すぐにまた闇へ沈んだ。ヴィンセントは、それについて何も言わなかった。
*
――後に、誰も知ることはない。
ダミアン・ロウという男が、生まれてからただの一度も、他人を憐れんだことがなかったことを。七つのとき面白半分に隣家の犬を井戸へ落としたことを。恩人を売り仲間を踏み台にしそのたびに笑っていたことを。この男の来し方に同情できる翳りは、ただの一点もなかった。
彼は、最後まで腐ったまま腐りきったそれだけの男だった。
――だが、その走馬灯をヴィンセントは見ていない。
興味が、なかった。彼にとって切り落とした枝の来歴など、どうでもよかった。醜いから、切る。ただ、それだけのことだ。
*
ヴィンセントは、蹲ったまま気を失っている被害者の男に歩み寄り、傘を差しかけてやった。血の雨から守るように。
「もう、大丈夫ですよ」
そう囁いて、傘の柄で、そっと壁のスイッチを押す。裸電球が、ぱっと灯った。
その明かりの中で、彼はふと、昼間の絵本を思い出したように、微笑んだ。
「そういえば……今日、子どもたちに読んだお話に、こんな一節がありました」
誰に言うでもなく。傘を回しながら、血の海を優雅に踏み越えて、出口へと歩いていく。
「――『朝が来ると、庭はいつも、綺麗なのでした』」
扉が、静かに閉まった。
あとには、賽子の山と赤い雨の匂いと命を拾ったひとりの男だけが、残された。
*
教会へ戻る夜道を、ヴィンセントは傘も差さずに歩いた。祭服には、血の一滴も残っていない。
見上げると、聖堂の二階に、小さな灯りがひとつ点いていた。アリスの部屋だ。眠れずに彼の帰りを待っているのだろう。
その灯りに、ヴィンセントは、今日いちばん人間らしい顔で、目を細めた。
「――ただいま」
誰にも聞こえない声でそう呟いて。
白い外道は静かな庭へ帰っていった。
