【讃岐秘話】 瀬戸内寂聴さんゆかりの東かがわ市 積善坊にある五輪塔と四宮家の関係。 笠置シヅ子さんゆかりの萬生寺。
こんにちは。
トリリンガル讃岐PRオフィサーのモリヨシナリです。
今回は、香川県東かがわ市にある瀬戸内寂聴さんゆかりの積善坊にある五輪塔と四宮家の関係、笠置シヅ子さんゆかりの萬生寺、引田城城主だった四宮家についてです、
モリヨシナリのプロフィール
ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント
神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部留学マーケティング専攻。
職歴:
大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事 (北京オフィス所長)
香港、中国にて外資系商社設立に参画、副社長を経て顧問
海外滞在歴:
アメリカ: 2年
シンガポール: 2年
中国: 12年
ベルギー: 1ヵ月
現在の活動:
Bizconsul Office 代表
ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント
観光庁インバウンド研修認定講師
四国遍路通訳ガイド協会 会員
トリリンガル讃岐PRオフィサー
保有資格:
英語: 全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点 (L満点)、TESOL (英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級
中国語: 全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級
ツーリズム: 総合旅行業務取扱管理者、国内旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド
メディア実績:
香川県広報誌「THEかがわ」インタビュー記事掲載
瀬戸内海放送 (KSB) ニュース番組コメント
岡山放送 (OHK) ニュース番組コメント
研修/コンサルティング実績:
観光庁インバウンド研修認定講師として登壇 (香川県善通寺市役所、愛媛県西予市宿泊施設、他)
四国運輸局事業 (訪日外国人観光客向けレンタカー利用調査、アドベンチャーツーリズム振興、他) コンサルタント
香川県主催 瀬戸内国際芸術祭オフィシャルツアー公式ガイド
香川せとうち地域通訳案内士インバウンド研修講師認定試験 面接官

積善坊の五輪塔と花屋 四宮家
神戸三宮から東かがわ市の積善坊までは自家用車で1時間半。三宮から高速バスで高速引田までは2時間くらい。高速引田バス停から積善坊は徒歩30-40分。



東かがわ市引田にある積善坊(しゃくぜんぼう)
真言宗寺院で行基開基と伝えられ ています。引田城築城の生駒親正 や高松藩初代藩主松平頼重が堂宇 を修繕・新築しました。
瀬戸内寂聴さんゆかりの寺です。

🔸積善坊 - 瀬戸内寂聴さんゆかりの寺 -
積善坊には、瀬戸内寂聴さんの父母のお墓がありす。
お墓には、十字架が彫られた下に、ヨハネ黙示録十四章十三節の「今より後主にありて死ぬる人は幸ひなり」という言葉があります。
この墓を建てた瀬戸内寂聴さんの父 三谷豊吉(後に瀬戸内家の養子となる)さんの大伯母にあたる瀬戸内イトが三谷家を訪れた際には、寂聴さんと姉に『聖書』を教え聴かし、食事の際には「アーメン」と唱えさせていました。
🔸萬生寺 - 笠置シヅ子さんゆかりの寺 -
積善坊の隣りの萬生寺には、笠置シヅ子さんの養父母と戦死された弟 亀井八郎さんのお墓があります。笠置さんが寄進された雨どいと寄進塔もあります。
・笠置シヅ子さんの貴重映像 インタビュー、対談、最古の歌唱映像。昭和時代の大阪弁。『なんたって18歳!』に出演!
🔸積善坊の五輪塔と花屋 四宮家
元亀年間(一五七○一七二)細川氏を倒し、阿波を手中にした三好長治は、次に讃岐を平定せんとして讃岐津田の安富氏、十河城の十河氏と三方より包囲して寒川氏を圧迫した。従 わざると見るや阿波の兵数千人を以て大内郡に押し入った。
1570年、郡司 寒川丹後は衆寡敵せず、 引田城・虎丸城を付けて大内郡を三好氏へ献上し、丹後は長尾の昼寝の本城へ引揚げた。

引田城を守護していた、四ノ宮太郎右衛門光武(四宮光武)は、定家以来住みなれた引田をあとに、一族は 各地へ離散していった。
🔹四宮右近、1500年初頭に信濃から讃岐へ移り住み昼寝城城主の寒川氏に仕え引田城を与えられました。四宮氏は信濃の四宮荘と関係がある小笠原氏の家臣だったと考えられます。
🔹1570年に阿波 三好氏に引田城を明け渡しました。この後、四宮家一族は各地に離散。
🔹1582年、四宮右近の四世の孫である四宮光武は仙石秀久に従い、勝瑞城で討死。
🔹四宮光武の弟の四宮光利は、川端城攻めで武功を挙げ、豊臣秀吉から領地を与えられ、乙井城を築きました。
🔹四宮光武の末弟 四宮家高は知友、阿波の脇城主 武田信顕の客将となり、長曽我部の大軍と激戦、落城後は讃岐に落ちのび、再び引田に帰り魚ノ棚 井筒屋の前に居を構えた。
四宮家は、四代迄は武士として自適の生活を送ったが、五代 兵三郎は武士を捨てて商人となり、酸造株を手に入れ、花屋の屋号で開業した。
商売は順調に発展し、膨大な富を得て、花屋興隆 への基礎を築いた。妻女も信仰の志厚く、積善坊の棟札(元文五年: 1740年)に、本尊厨子・須弥壇 寄贈の有力檀家婦人の中に名を連ねている。
兵三郎夫妻の死後、六代を継いだ三郎右衛門は、父母の菩提を弔うため、塩屋円福寺谷の墓地に五輪塔墓を建立した。
しかし、塔に記名がなく、再興の恩人である兵三郎夫婦の墓であることを、子孫に伝える為、堅牢な花崗岩による願文刻字の供養塔が追造され、その部品の 一部が、移転の際、五輪塔の基台として使用されていると思われる。
この五輪塔は昭和期に入り、積善坊の先住真善老師の、四宮家に対する深い思い入れから、 円福寺谷で倒壊していたのを見付け、境内仁王門前に移転したもので、当時の両塔の石組などは今では誰も分からない。
この五輪塔を調査された松田朝由氏の所見によると、
一、石質が豊島石(凝灰岩)であること
一、火輪が笠状でなく四隅に宝篋印塔の隅飾りに類似した形態を持っていること
一、空輪と風輪が別々の部材からなっていること
一、内部は刳り抜かれて空洞になっていること
以上の特長から、形式は豊島型Ⅱ期に属し、製作年代は元和六年(一六二○)から宝暦十年 (一七六○)の間と推定され、白粉石の製品が姿を消した天正年間を最后に、次に登場する 新しい墓石に至る間の変遷を知る上での貴重な資料であると位置づけられた。
井筒屋の前にある花屋の屋敷跡は、昔から四宮屋敷と呼ばれ、江戸時代の外観をもつ商家として、松の下地区町並みの中で、特異な存在観をもつ建物であったが、惜しくも取り壊された。



花崗岩(みかげ石)基台の刻字 49cm x 48cm x 47cm
右側面
平等利益 眼供養特書 元文四年未天 (一七三九)
正面
得本秀誉 (兵三郎妻) 為 梵字 本空浄印 (兵三郎諡号)
左側面
本願主 花屋三郎右衛門 乃至法界
背面
一刻字ナシ
四宮光利と香川県さぬき市造田乙井の乙井城跡、諏訪神社
🔸四宮光利が建立した諏訪神社(さぬき市造田乙井)

🔸乙井村 (おといむら)

香川県:大川郡長尾町乙井村
[現在地名]さぬき市造田乙井(ぞうだおとい)
石鎚いしづち山(一九八・三メートル)南東麓に位置する。
鴨部かべ川を挟んで川北かわきた・川南の集落がある。
西は是弘これひろ村。諏訪山すわやま古墳・乙井古墳・西山田にしやまだ古墳などがある。
天正年間(一五七三―九二)四宮光利が乙井城に在城。四宮氏は昼寝(ひるね)城主 寒川氏の家臣ではじめ引田(ひけた)城(現東かがわ市引田)に拠ったが、元亀元年(一五七〇)寒川氏が阿波 三好氏に屈し大内(おおち)郡を献上したため同城を退いた(南海治乱記)。
その後、四宮光利が豊臣秀吉に従って武功があり、天正年間(一五七三―九二)に乙井、末(すえ)村(現志度町)に封を受け乙井城に拠り、諏訪神社を建立したと伝える(長尾町史)。


四宮家
🔸四宮荘
四宮荘(しのみやのしょう)は、信濃国更級郡四宮地区(現在の長野県長野市篠ノ井地区から千曲市更埴地区)にあった荘園。千曲川を渡る津があったとされる。
🔸四宮光利 (仙石秀久の家臣)
太郎左衛門。四宮氏は信濃から讃岐に移住し、引田城主として寒川氏に仕えた。
兄・四宮光武は三好氏に攻められ落城。
光利は豊臣家に臣従し、秀久の家臣となり、天正年間に讃岐の乙井城主となり、諏訪神社を建立している。
🔸四宮家と引田城

東かがわ市にある国の史跡に指定されている引田城の築城年代は明確ではないが、永正年間(1504~21年)頃にさぬき市にあった昼寝城城主の寒川元政の家臣 四宮右近が城主であった。
1572(元亀3)年、寒川氏は阿波国の三好長治によって大内郡を奪われ、長治の家臣である矢野駿河守が引田城主となる。
しかし、1582(天正10)年、中富川合戦で長宗我部氏に敗れ、虎丸城に籠城した十河存保を救援するため、羽柴秀吉によって仙石秀久が引田城に派遣された。秀吉の四国征伐によって讃岐国は仙石秀久に与えられ引田城主となったが、九州征伐での戸次川合戦での失態により秀久は改易、替わった尾藤知宣も九州征伐の失態によって改易となっている。
1587(天正15)年、生駒親正は讃岐国を与えられると引田城に入ったが、讃岐国の東に偏りすぎていたため聖通寺城に移り、引田城はやがて、1615(元和元)年の一国一城令で廃城となる。
城は引田港の北に聳える標高86mの城山一帯に築かれており、初期の頃は、尾根伝いにコの字型に展開し、四隅には櫓を備えていた。
現在の遺構は、四隅のうち、北と西の2つの櫓がよく残っている。
南の郭,西の郭,東の郭,北の郭,丹後丸などからなり、至る所に石垣や櫓台の跡が残っている。
特に残存の良い石垣は北の郭に残されている。
南の郭の中央に天主台とされる社が祀られている。
香川県さぬき市造田の諏訪神社と乙井城跡について
さぬき市造田乙井の小高い丘に諏訪神社があり、かつてこの辺りに乙井城(おといじょう)があったと言われる。
🔸乙井城と四宮氏
「全讃史」によると、乙井城には四宮太郎左衛門尉光利が居城していました。

光利は四宮右近の子孫で、右近の四世の孫にあたる外記光武(四宮光武)の弟です。
四宮右近は、1500年初頭に信濃から讃岐へやって来て寒川氏から引田城を与えられました。その四世の孫が四宮光武と四宮光利、四宮家高らとなります。
兄の四宮光武は天正10年(1582年)に仙石氏に従い勝瑞城で戦死しました。
弟の四宮光利は、仙石氏に従い阿波 河端城攻めで武功を挙げ、太閤(豊臣秀吉)から賞書を賜りました。その後、光利はこの地に領地を与えられ、乙井城を築いて居を構えたとされています。
1830年頃には、まだ四宮氏の子孫がこの地に住んでいたことが記録されています。
🔹四宮右近、1500年初頭に信濃から讃岐へ移り寒川氏から引田城を与えまれました。
🔹1582年、四宮右近の四世の孫である四宮光武は仙石秀久に従い、勝瑞城で討死。
🔹四宮光武の弟の四宮光利は、川端城攻めで武功を挙げ、豊臣秀吉から領地を与えられ、乙井城を築きました。
🔸諏訪神社
さぬき市造田乙井の諏訪神社がある丘は古墳であり、諏訪神社は古墳を祀るように建てられています。「全讃史」には、「諏訪明神祠は乙井山の上にあり、天正年間に四宮太郎左衛門(光利)が初めて祀った」と記されています。彼は自身を諏訪大明神の末裔と称していました。
※1500年初頭、四宮光利の先祖である四宮右近は信濃国から讃岐国へ渡り、寒川氏に仕え、大内郡安堵(現在の安戸、引田)に城を築いて住んでいました。
🔸信濃から讃岐へ
四宮右近が信濃から讃岐へ来た理由は定かではありません。永正年間(1504-1521年)は戦国時代の始まりであり、各地で戦乱が起きていました。応仁の乱(1467-1477年)をきっかけに各地で戦乱が激化し、日本各地を放浪する者も多くいたと考えられます。
🔸四宮光利の活躍
四宮光利は秀吉に従って各地で武功を挙げ、末村と乙井の間に領地を与えられました。
🔸四宮氏のその後
天和・貞享年間(1681-1688年)、末村に四宮三郎右衛門という者がいました。光利の末裔であるとされています。
🔸陶室
諏訪神社の境内には「陶室」と呼ばれる土室があります。その深さは不明ですが、かつては祭祀の際に食器を出し入れしていたと言われています。
🔸存続林の碑
丘の上には「存続林の碑」があります。この碑は、丘の森を後世に残すことを目的として建てられたもので、明治36年には、野山の開発が進むことを懸念する内容が刻まれています。
🔸サマリー
四宮氏は信濃国から讃岐国へ渡り、戦国時代の動乱を生き抜いてきました。四宮光利は秀吉に従って武功を挙げ、乙井に所領を得て乙井城を築き、諏訪神社を建立しました。
諏訪神社のある丘は古墳であり、四宮氏は先祖の地である信濃の諏訪大明神を祀り、この地を終の棲家としたと考えられます。
丘の森を後世に残すことを願って建てられた「存続林の碑」は、四宮氏の未来を見通す目を示すものでしょう。
四宮光武の末弟 四宮家高は知友、阿波の脇城主 武田信顕の客将となり、長曽我部の大軍と激戦、落城後は讃岐に落ちのび、再び引田に帰り魚ノ棚井筒屋の前に居を構えました。
四宮家は、四代迄は武士として自適の生活を送ったが、五代 兵三郎は武士を捨てて商人となり、酸造株を手に入れ、花屋の屋号で開業しました。
営業は順調に発展し、膨大な富を得て、花屋興隆 への基礎を築いた。妻女も信仰の志厚く、積善坊の棟札(元文五年: 1740年)に、本尊厨子・須弥壇 寄贈の有力檀家婦人の中に名を連ねていました。
・【香川県東かがわ市・黒羽城】城主 永塩因幡守氏継について香川県立図書館にて調査! 香川県中世城館跡詳細分布調査報告、角川日本地名大辞典、増補三代物語、全讃史、引田町史、大内町史!
四宮家と阿波水軍 森家の関係
仙石秀久の家臣一覧: 四宮光武、四宮光利、森村吉、森権平久村、他
🔸四宮光利
太郎左衛門。四宮氏は信濃から讃岐に移住し、引田城主として寒川氏に仕えた。兄・光武は1570年に阿波 三好氏に攻められ落城、1582年に勝端城で討ち死にした。光利は豊臣家に臣従し、秀久の家臣となり、天正年間に讃岐の乙井城主(さぬき市造田乙井)となり、諏訪神社を建立している。
🔸小川伊勢守
秀久に仕える。天正11年(1583年)、讃岐に渡り、四国攻めの橋頭堡として法勲寺城を築く。四国国分後、讃岐に計350石を賜る。
🔸広田藤吾
秀久に仕え、天正9年(1581年)11月、淡路州本城攻めに功があった。
🔸森権平
1583年の引田の戦いでは仙石軍の殿(しんがり)を務め伊座まで退くも、長宗我部元親軍の稲吉新蔵人に討ち取られた。享年18。死後、地元の人々から足の神様として祀られている。引田の戦いにおける仙石軍は2000の兵に対して長宗我部軍は5000の兵により、森村吉らの活躍により前哨していたが、最後は、仙石秀久は引田城に追い込まれた後、淡路に逃れた。
森村吉、森権平と多くの阿波水軍 森家一族がこの戦いに参戦した。引田の戦いの後、森権平の叔母が嫁いでいた引田の日下家を頼り、森家一族の一部の者が馬宿に住むこととなり、後に高松藩 松平家に普請方として仕えた。高松藩の東端に位置し、志度街道沿いにあった要所である馬宿周辺の道路や橋を整備したり、金刀比羅宮の石段造営にも参画した。江戸時代後半には隣りの徳島藩 碁浦番所の役人兼庄屋だった八田家と藩を跨いで姻戚関係を結んだ。
高松藩 森家の菩提寺は、東かがわ市三本松の海暁閣 勝閣寺であり、馬宿から地理的に近い海蔵院東海寺や積善坊ではない。背景としては、森権平の母が阿波 赤沢宗伝一族の赤沢伊賀守であり、祖母が赤沢家の本家となる撫養城城主 小笠原摂津守の娘だったことによる。勝覚寺は赤沢宗伝の長子によって開基された。赤沢家は小笠原家の庶家である。小笠原家、赤沢家は信濃から阿波へ来た。
1500年初頭に四宮右近は、信濃から讃岐へ来て昼寝城城主の寒川氏に仕え引田城を与えられた。四宮氏は信濃の四宮荘と関係があり、小笠原氏の家臣だったと考えられる。




🔸後藤基次
黒田家からの追放後、一時秀久に仕える。天正13年(1583年)には讃岐高松城(喜岡城)攻めで初陣を遂げた(諸説あり)。後に黒田長政から許しを得たため黒田家に帰参した。
🔸庄林一心
加藤家三傑の一人。元荒木家の家臣で、荒木家没落後に秀久に仕えた。後に秀久が改易処分を受けたため、加藤清正の家臣になった。
🔸羽床資吉
羽床資載の次男。弥三郎。天正7年(1579年)、羽床城開城時に長宗我部家への人質となる。天正10年(1582年)、父資載の没後、羽床氏当主となる。四国攻め後、秀久に仕える。天正14年(1586年)10月、戸次川合戦で討死。
🔸大平国祐(大平伊賀守國祐)
天文7年(1538年)生れ。永禄5年(1562年)、土佐吾川郡弘岡城にて長宗我部元親に敗れ香川之景を頼り讃州多度郡中村に来るが後に姫之郷を領して元亀3年(1572年)、讃州和田獅子ノ鼻城主となる。天正6年(1578年)5月、法華宗雲風山国祐寺を興す。天正13年(1585年)より秀久に仕え、侍大将となる。天正14年(1586年)、戸次川合戦敗北により秀久が失脚すると、かつての家臣の下に身を寄せた。慶長8年(1603年)7月4日没。
🔸大平国常
永禄12年(1569年)生れ。大平国祐の長男。しかし実は次男で大平主膳(永禄4年(1561年)生れ。天正6年(1578年)、阿波重清陣にて討死)が長男という説が有力。天正14年(1586年)12月12日、戸次川合戦で国祐家臣 加地又五郎、合田助十郎とともに討死。享年18。
🔸森村吉(森村重、森権平の父)
通称は石見、九郎左衛門。後に仙石姓を与えられる。森元村の次男で、森村春の弟。天正10年(1582年)、淡路を抑え森家を援助していた仙石秀久に招かれ家臣になる。天正11年(1583年)の引田の戦いでは緒戦の勝利に貢献した。四国攻めの後も秀久に従い、秀久が信濃小諸を拝領後は7,000石を与えられた。三男・村明の系統は代々仙石家に仕えている。
以上
