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【讃岐秘話】1583年、引田の戦い後、仙石秀久の家臣 森権平久村の一派が東かがわ市馬篠へ移り住んだ理由は? 仙石秀久の魅力とは?

こんにちは。

トリリンガル讃岐PRオフィサーの森啓成 (モリヨシナリ)です。

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今回は、天正11年(1583年)に讃岐の東端に位置する引田(ひけた)で勃発した引田の戦い後、現在の東かがわ市馬篠 (うましの) へ落ち延びた森家の物語です。

四国統一を目指す長宗我部元親軍とそれを阻止しようとする豊臣秀吉から命を受けた仙石秀久軍との戦いで阿波水軍 森家出身の森権平久村は東かがわ市伊座で討ち死にしました。

残された森権平久村の一派は、東かがわ市馬宿から馬篠の山奥へ移り住みました。

森家が、なぜ引田の戦い後に人里離れた山奥の馬篠へ移り住んだのか、その理由についてお話しします。



・1583年、引田の戦いが勃発した東かがわ市の引田。現在、引田城跡に石垣が残る。長宗我部元親軍に引田城を取り囲まれ総攻撃を受けた仙石秀久は命からがら城から脱出、瀬戸内海に出て、小豆島と淡路島の守りを固めることにした。阿波水軍出身の森村吉はこの戦で次男の森権平久村を失った後も仙石秀久と行動を共にした。最終的には、信濃小諸藩で7000石を有し、三男の森村明は仙石秀久の娘と結婚し仙石家に仕えた。森村吉の長男 森村重は森甚五兵衛を名乗った。阿波水軍 森家は3,000石を有し260年間、徳島藩の海上方を務め幕末まで参勤交代、海防を担った。



・香川県の東端に位置する東かがわ市。引田の戦いで森権平秀久は討ち死にし、残された一派の者は馬宿から東かがわ市馬篠の山奥へ落ち延びた。



・1583年、引田の戦い後、森家が移り住んだ馬篠(うましの)。1582年、中富川の戦い後、赤沢信濃守宗伝の赤沢家が落ち延び、宗伝の一子が勝覚寺を開基した小砂(こざれ)。森家は、縁者がいた赤沢家を頼って馬篠へ移ってきたと考えられる。江戸時代、大筒砲台があった小磯、高松藩主一行が見回りに来た際は、馬篠の森家がお膳立てをしており、経済的負担は大きかった。



・引田の戦いで討ち死にした森権平久村の墓がある東かがわ市伊座


・森権平久村の墓



・引田の戦い



・長宗我部元親の四国攻め



・仙石秀久





・仙石秀久の家臣、森権平久村


・仙石秀久の家臣 森村吉。森村吉の長男は阿波水軍の森村重(森甚五兵衛)、次男は森権平久村、三男の森村明は、父と行動を共にし、仙石秀久の娘と結婚した。


・仙石秀久の娘 森某室とは、森村吉の三男 森村明と結婚したことを指す。


・阿波水軍 森家の家系図。森村吉の妻は阿波の赤沢伊賀守の娘、母は阿波の無養城主  小笠原摂津守の娘。





引田の戦い後、森家が東かがわ市馬篠へ移住した理由



仙石秀久の家臣 森権平久村が引田の戦いで討ち死にした後、残された一派が東かがわ市馬宿から馬篠へ移住した主な理由は、何だったのでしょうか?

それは、一族の存続と再起という戦略的な目標を達成する為に、以下に挙げる3つの要因が複合的に作用した結果であると言えます。





1. 移住の主な理由:危機管理と再起



残された森家の一派が東かがわ市馬篠へ移り住んだ主な理由は、以下の通りです。


長宗我部元親軍からの追撃を避けるため山奥に潜み再起を図ろうとした。


引田の戦いで森権平久村を討ち取った長宗我部元親軍からの粛清を逃れるため、元の拠点である馬宿を離れ、人目を避けることのできる山間部(馬篠・柏谷)へ避難しました。

引田の戦いで森権平久村と行動を共にしていた者の一派は、森権平久村が討ち死にした後、まずは現在の東かがわ市黒羽(くれは)村の隣りの馬宿村に落ち延びました。

ちなみに、1584年の長宗我部元親軍による虎丸城陥落の後、十河氏系三谷家の一派は黒羽村に落ち延び帰農しました。この家系が瀬戸内寂聴さんの先祖になります。

一方、引田城に立て篭っていた仙石秀久と森村吉たちは、長宗我部元親軍に城の周囲を囲まれ総攻撃を受けましたが、既に戦意を失った仙石勢は抵抗らしい抵抗を行わず、城から退却しました。

引田城を命からがら脱出した仙石秀久らは舟で瀬戸内海へ出て、淡路島と小豆島の守りを固め瀬戸内海の制海権維持に務めることとしました。このとき、阿波水軍の森村吉が従いました。


・引田の戦い


森権平久村と行動を共にしていた一派は、黒羽村に隣接する馬宿村に落ち延びますが、長宗我部元親軍の更なる追撃を避ける為、身を隠す安全な場所へ移動する必要がありました。

そして、残された森権平久村の一派は、馬宿から離れた馬篠の山奥へと落ち延び潜伏しました。


この潜伏は単なる逃避ではなく、武家としての再興を期した戦略的な行動でした。

その為、森家は、馬篠へ移り住んでも帰農せずに、江戸時代になっても武士の身分を守り抜こうとしました。

この森家の一派は、潜伏と開拓によって一族の存続に成功し、江戸時代においても武士としての身分を維持することができました。



第二次世界大戦前は甲冑や刀、槍を保管していましたが、金属類回収令で政府に拠出しました。


代々武家としての誇りと、再起の象徴であった武具を保持し続けていたことが、森家の歴史的背景を物語っています。戦後に刀の鍔が3個出てきて、壁に飾ってありました。




2. 移住地の選定と血縁関係



移住先として馬篠を選定した背景には、森権平久村の母方の血縁者の存在がありました。



馬篠から山を隔てた東かがわ市小砂には阿波の赤沢信濃守宗伝の残された家族が先に落ち延びていました。


長宗我部氏と敵対関係にあった赤沢家一族が近隣にいたことは、森家一派にとって大きな安心材料となりました。



森権平久村の母は阿波 赤沢一族の赤沢伊賀守の娘。


この血縁関係を頼り、近くに潜伏することで、互いに協力し合うことが可能でした。

引田の戦いの前年の1582年の中富川の戦いで長宗我部元親軍の攻撃により亡くなった板西城城主の赤沢信濃守宗伝の一子らが阿波から命からがら讃岐の小砂に逃れていました。

この一子は大坂で得度し、小砂に勝覚寺を開基しました。森家はこの勝覚寺を菩提寺としました。


阿波 赤沢信濃守宗伝と阿波水軍 森村吉の関係は?



森村吉(もり むらよし)は阿波水军森家の出身で、三好家の家臣として仕えていました。また、中富川の戦いで討ち死にした赤沢信濃守宗伝も三好家の家臣でした。

森村吉の父である森元村も「三好家家臣」でした。

森村吉の兄の森村春も、「細川家、のち三好家に仕える」形で阿波水軍を率いていました。

村吉自身も、三好家臣の森家一門として活動していました。

その後、天正10年(1582年)の中富川の戦いで三好氏が長宗我部元親に敗れた後、森村吉は淡路を抑えていた羽柴秀吉の家臣・仙石秀久(せんごく ひでひさ)に招かれ、その家臣となりました。森村吉の次男の森権平久村は、このとき仙石隊に人質として送られ、後に1583年の引田の戦いで討ち死にすることになります。


徳島藩 蜂須賀家の海上方を250年以上世襲した阿波水軍 森家は、森村吉の長男の森村重(森甚五兵衛)のときに、豊臣秀吉と3,000石の朱印状を交わしました。

ちなみに、徳島藩 蜂須賀家の石高は、25万7千石、松平家は12万石、そして、森村吉自身は、仙石秀久と最後まで行動を共にし、長野県の小諸藩で7,000石を与えられ、三男の森村明は、仙石秀久の娘と結婚し代々、仙石家に仕えました。



3. 開拓を可能にした技術的背景


潜伏後の自給自足と生活基盤の確立には、森家がもともと持っていた技術が活かされました。

阿波水軍の高い土木技術を持っており、土地開拓や治水の技術を持っていました。


水軍として培った船の建造や港湾整備、水路把握に関する高度な技術と組織力を、山間部の「柏の生い茂る山を開拓」することに転用しました。

「ため池を作った」とう事実は、治水技術を用いて農業用水を確保し、生活の基盤を自力で作り上げたことを示しています。

現在も柏谷上池と柏谷下池が残っています。


・森家が開拓した柏谷。一帯の土地と山林を森家が所有していた。

・柏谷上池


・柏谷と柏谷上池、柏谷下池


・高松藩 森家。阿波水軍 森家の分家となる高松藩 森家の家紋は丸に木瓜。屋根瓦や墓石に丸に木瓜の家紋が見られる。本家の家紋は木瓜紋。




江戸時代への影響



武士の身分の維持:
江戸時代になっても武士の身分を守ったという事実は、馬篠での潜伏と開拓が一族の崩壊を防ぎ、武家としての格式を維持するという「再起」の目標を成功させたことを示しています。

江戸時代、森家は高い土木技術を活かし橋や道路を作る普請の仕事により高松藩に貢献する代わりに武士の身分を守りました。高松藩の一大公共事業だった金刀比羅宮の石段造営にも参加しました。

また、馬篠の近くの小磯の大筒砲台の見回りに高松藩主が来た際は接待をしていました。

幕末期には藩を跨いで徳島藩の碁浦御番所役人の八田家と婚姻を結びますが、この結婚の背景には両藩の思惑が絡んでいました。


武具の保管:
戦中まで甲冑や刀、槍を保管していたという事実は、武家としての誇りと、再起の象徴を代々受け継いできたことを物語っています。

これらのことから、馬宿から馬篠への移住は、危機回避(潜伏)、血縁の協力(安全)、そして自力での再建(技術の転用)という三位一体の戦略的な決断であったと言えます。


🔸森家が引田の戦い後、馬篠へ移り住んだ理由のまとめ


●長宗我部元親軍の追撃を回避する為に馬篠の山奥に潜んだ。

●縁者であった阿波の赤沢家が1582年の中富川の戦い後、山を隔てた小砂に落ち延びていた。森家は、赤沢家が小砂で開基した勝覚寺を菩提寺とした。

●自力で再起を図る為に移住した。阿波水軍の高い土木技術を活かして柏谷を開拓し、ため池を作り、一帯の山林と土地を所有した。馬篠へ潜伏後も代々伝わる甲冑、刀、槍を第二次世界大戦中の金属類回収令の発令まで保管していた。戦後、刀の鍔が3個残された。




東かがわ市周辺の旧 武家の関係性:


●【八田家】元治元年(1864年)12月28日: 馬篠に住む高松藩 森家(阿波水軍出身)と徳島藩 碁浦御番所役人を200年以上世襲した禄持ちの八田家が婚姻を結ぶ

●【永峰家】明治22年3月7日: 森家と黒羽の永峰家が婚姻。永峰家は黒羽城主 永塩因幡守氏継の子孫。

●【十河氏系三谷家】明治26年9月2日: 森家と黒羽の十河氏系三谷家が婚姻。三谷家からは瀬戸内寂聴さんや町会議員が出ている。

●【永峰家】昭和5年10月11日: 森家の娘と黒羽の永峰家が婚姻。永峰家の血を存続させる為の戻り婚

●【赤沢家】1582年 中富川の戦い後、赤沢家→小砂、1583年 引田の戦い後 森家→馬篠へ其々落ち延びた。阿波水軍 森権平久村の母が赤沢氏一族の赤沢伊賀守の娘だった関係で、高松藩 森家の菩提寺は赤沢家が小砂に開基した勝覚寺となった。その後、勝覚寺は1684年に東かがわ市三本松へ移転した。




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高松藩 森喜平の孫のインタビュー記事

・江戸時代に藩を跨いで結婚した森喜平と八田キヨの孫、明治生まれの森トメノの神戸新聞のインタビュー記事: 昭和39年、神戸新聞の元論説委員の古山桂子さんから定年前にインタビューを受けた際の記事。

記事内容は、武家の厳しいしつけ、阿波浄瑠璃の三味線が上手かった祖母(八田キヨ)、大正から昭和にかけて英語を使い旧神戸オリエンタルホテルで長年働いていた経験、警察官との結婚、2.26事件時の勤務、川島芳子の宿泊、神戸大空襲で自宅は全焼するも夫婦共に生き延びた体験、GHQ宿舎での勤務など。春になると八田キヨが三味線を弾きながら、舟に乗って瀬戸内海に浮かぶ近くの島に渡り、花見をしていた思い出が書かれている。



・江戸時代、高松藩普請方 森義右エ門の長男 森喜平は、1864年に藩を跨いで徳島藩の碁浦御番所役人を200年以上世襲した録持ちの八田家当主 八田孫平の長女 八田キヨと婚姻を結んだ。
森喜平の長男 森虎太郎は、黒羽城主 永塩因幡守氏継の子孫と結婚、二女の森トヨは、黒羽の十河氏系三谷家の三谷磯八に嫁いだ。この三谷家からは瀬戸内寂聴さんや町会議員が出ている。
1584年、長宗我部元親軍により、東かがわ市虎丸城が陥落し、十河存保は豊臣秀吉を頼って大阪へ逃れた。十河氏系三谷家の一派は東かがわ市黒羽に落ち延びた。この三谷家が瀬戸内寂聴さんの先祖となる。




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仙石秀久の魅力


仙石秀久(せんごく ひでひさ)は現代でも人気を集めています。その理由は、彼の波瀾万丈で劇的な生涯と、そこから生まれる人間的な魅力にあります。

特に、一度の大きな失敗から見事に再起を果たし、最後まで武将として生き抜いた彼の姿が、現代のファンに響いています。

主な人気の理由をいくつか紹介します。



仙石秀久が人気の理由



1. 劇的な「七度生まれ変わる」再起の人生


仙石秀久の生涯で最も劇的なエピソードが、天正13年(1585年)の戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)における大敗と逃亡です。


最大級の失敗(戸次川の戦い):

豊臣秀吉の四国平定後、九州征伐の先陣を任されながら、無謀な作戦指導により大敗を喫し、多くの有力武将を失いました。秀吉の勘気に触れ、領地を没収され追放処分となります。これは武将としては致命的な汚名でした。

追放処分となった後、仙石秀久は高野山に篭りました。


「鈴鳴り武者」としての汚名返上:

その後、小田原征伐(1590年)の際に、自らの陣羽織に無数の鈴を縫い付けた奇抜な姿で戦場に現れ(鈴鳴り武者)、決死の覚悟で敵を引きつけながら奮戦。この捨て身の活躍により秀吉の許しを得て、見事に大名への返り咲きを果たしました。

この「絶望的な失敗」から「奇跡的な復活」を遂げたストーリーは、現代の大衆の共感を呼びやすいドラマとして非常に魅力的です。



2. 漫画『センゴク』による再評価


人気歴史漫画『センゴク』(宮下英樹氏作)の主人公に仙石秀久が抜擢されたことが、彼の知名度と人気を爆発的に高めた最大の要因です。


漫画では、彼が秀吉家臣団の「出世頭」として活躍し、失敗と再起を繰り返しながら成長していく姿が、熱量高く描かれています。


これにより、歴史ファンだけでなく、多くの一般読者や若年層にも「仙石秀久」という武将が深く認識されるようになりました。


3. 名君としての側面と徳川秀忠からの信頼


晩年の彼は、再起後拝領した信濃小諸藩主として、豊臣政権末期から徳川政権初期にかけて重要な役割を果たしました。


政治家・参謀として:

単なる武勇だけでなく、二代将軍徳川秀忠から深く信頼され、幕府の要職に準ずる扱いを受けました。秀忠が仙石秀久を信頼したのは、彼の才知や、失敗を乗り越えた人間性を評価したためと言われています。

家紋:
「永楽銭紋」
織田信長からも「風貌が勇ましい」と気に入られ、限られた家臣にしか許されない「永楽銭紋」の使用を許されたエピソードも、彼が目立つ存在であったことを示しています。



これらの要素が合わさり、仙石秀久は単なる「戦国の武将」ではなく、「一度はどん底を見たが、努力と覚悟で人生を切り開いた人間味あふれる英雄」として、高い人気を得ています。




仙石秀久の波瀾万丈伝


仙石秀久の逸話は、褒め言葉と悪口、豪傑伝説と大失敗がごちゃ混ぜになった、戦国時代屈指のジェットコースター人生です。



1. 始まりはゴージャス!


織田信長に仕えた際、顔が「勇壮でイケてる!」という理由だけで、黄金一錠をもらうという、顔パス大出世を飾ります。


2. 豊臣秀吉の「忍者商人」


豊臣秀吉時代には、なんと商人に化けて九州に潜入!地理を細かく絵に描いて報告するスパイ活動もこなす、器用な一面も見せました。


3. 落ちる時は地獄の底まで!「三国一の臆病者」


しかし、最大の失態である戸次川の戦いでは、味方を置き去りにして小舟で阿波へ一目散に逃亡! この時の落書きには「仙石は四国を指して逃げにけり、三国一の臆病者」と、歴史に残る最悪の汚名を着せられました。




4. 豪傑か、警備員か?「五右衛門捕獲伝説」


講談の世界では怪力無双の豪傑として登場し、あの天下の大泥棒石川五右衛門を捕まえたという伝説まで持っています。


5. 蕎麦と出世、そして「仙石さん」


晩年は信濃小諸藩主として、なんと蕎麦の栽培に力を入れます。蕎麦切りを通じて領民と交流し、「仙石さん」と慕われたという意外な庶民派エピソードも。この取り組みが後の出石皿そば誕生につながるという、隠れた「蕎麦の神様」でもあります。




仙石秀久は、「黄金ゲットのイケメン」で「凄腕スパイ」だったのに、「三国一の臆病者」として逃亡し、「盗賊団の親玉」と罵倒されながら、最終的に「蕎麦を愛する名君」として慕われた、戦国時代の振り幅が大きすぎる奇跡の武将なのです!





まとめ: 東かがわ市馬篠に住んだ森家の歴史的背景



1. 戦国時代:阿波水軍と仙石秀久の家臣

ルーツ: 森家は、阿波水軍 森家の出身です。

引田の戦い(1583年): 仙石秀久(せんごく ひでひさ)の家臣であった森権平久村が、讃岐の東端である引田の戦いで長宗我部元親軍により討ち死にしました。


落ち延びと潜伏: 残された森権平久村の一派(分家)は、長宗我部軍の追撃を避けるため、元の拠点(馬宿)を離れ、馬篠(うましの)の山奥へと落ち延び、潜伏しました。


潜伏の戦略的理由: 単なる逃避ではなく、武家としての再興を期した戦略的な行動であり、江戸時代になっても武士の身分を守り抜くことに成功しました。


2. 江戸時代:高松藩士としての地位確立


技術と貢献: 潜伏後も阿波水軍の高い土木技術を活かし、柏谷の開拓やため池(柏谷上池・下池)の建設を行いました。江戸時代には、その技術力で橋や道路を作る普請の仕事により高松藩に貢献し、武士の身分を維持しました。


藩からの信頼: 高松藩の一大公共事業であった金刀比羅宮の石段造営にも参加しています。


重要な役割: 馬篠近くの小磯(こいそ)の大筒砲台の見回りに高松藩主が来た際に接待役を務めており、藩にとって重要な防衛・監視の最前線を担う、地位にあったことが分かります。

家紋: 丸に木瓜紋を家紋とし、阿波水軍森家の分家です。


3. 幕末期:戦略的な他国婚姻

婚姻(1864年): 馬篠の高松藩森家(森喜平)は、徳島藩の碁浦御番所役人を200年以上世襲した禄持ちの八田家(八田キヨ)と婚姻を結びました。


政治的意図: これは、藩境の機密情報を持つ徳島藩側の八田家と、高松藩側の国境防衛・情報収集の最前線を担う森家が結びつく、両藩の思惑が絡んだ戦略的な政略結婚であったことが示されています。


4. 血縁関係


菩提寺: 森家の菩提寺となった勝覚寺は、森権平久村の母(赤沢信濃守宗伝の一族 赤沢伊賀守の娘)の縁者である宗伝の一子が中富川の戦い後に、阿波から落ち延びて開基した寺であり、森家が阿波の血縁を頼って馬篠へ潜伏したことが裏付けられます。

その後の婚姻: 明治時代には、東かがわ市の旧武家である永峰家(永塩因幡守氏継の子孫)や十河氏系三谷家(瀬戸内寂聴の先祖)と婚姻を結んでいます。





著者のプロフィール



森啓成 (モリヨシナリ)


ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント

神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部マーケティング専攻。

1部上場大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事(北京オフィス所長)。

その後、香港、中国にて外資系商社設立に参画し、副社長を経て顧問に就任。

アメリカ、シンガポール、中国、ベルギーなど、海外滞在歴は計16年以上。


現在はBizconsul Office代表として、ビジネス英語講師、全国通訳案内士(英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント(インバウンド対策、貿易)として活動中。

観光庁インバウンド研修認定講師、四国遍路通訳ガイド協会会員、トリリンガル讃岐PRオフィサーも務める。


【保有資格】

  • 英語: 全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点 (L満点)、TESOL (英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級

  • 中国語: 全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級

  • ツーリズム: 総合旅行業務取扱管理者、国内旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド


【メディア・研修実績】

香川県広報誌「THEかがわ」インタビュー記事掲載。

瀬戸内海放送 (KSB) 及び 岡山放送 (OHK) ニュース番組コメント。

観光庁インバウンド研修認定講師として地方自治体や宿泊施設で登壇。

四国運輸局事業コンサルタント、 瀬戸内国際芸術祭オフィシャルツアー公式ガイド、香川せとうち地域通訳案内士インバウンド研修講師認定試験面接官を務める。


・香川県登録通訳案内士サイト


・座右の銘は「雨垂れ石を穿つ


・全国通訳案内士登録証 英語

・全国通訳案内士登録証 中国語

・香川せとうち地域通訳案内士登録証 中国語

・四国遍路通訳ガイド協会会員証

・観光庁インバウンド研修認定講師






以上

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