見出し画像

昭和天皇へ料理を献上した父の壮絶な半生、瀬戸内寂聴との知られざる絆、そして戦国の阿波水軍が紡いだ壮大な血脈の物語


昭和天皇へ料理を献上した父の壮絶な半生、瀬戸内寂聴との知られざる絆、そして戦国の阿波水軍が紡いだ壮大な血脈の物語


こんにちは。トリリンガル讃岐PRオフィサーの森啓成(モリヨシナリ)です。

今回、皆さまにお届けするのは、私の人生観を根底から揺さぶった、私自身の「血の物語」です。

長年、海外でのビジネスに没頭する中で、自身のルーツを深く知る機会は正直ありませんでした。しかし数年前、身内との別れをきっかけに手にした戸籍謄本が、私の運命を大きく動かすことになります。

事務的な紙束のはずが、一枚、また一枚と紐解くごとに、私の想像を遥かに超える壮大な「血脈の迷宮」がその姿を現したのです。それは、戦国の鬨の声、江戸の静謐、幕末の胎動、そして昭和の激震――。歴史の大きな渦の中で、名もなき先祖たちが確かに息づき、時には歴史上の偉人たちと交差しながら、奇跡のように現代へと繋がれてきた一本の線でした。

このルーツを辿る旅は、私の血の奥底に眠っていた数奇な宿命を呼び覚ます、まさに魂の旅へと変わっていったのです。

現在もルーツ探しの旅は進行中ですが、2025年6月時点で判明している驚くべき事実を、ここに整理し、皆さまにお届けします。これは単なる個人の家系図ではありません。日本の歴史そのものと共鳴する、壮大な「生命のバトン」の物語です。


第一章:戦国の荒波を越え、讃岐に根差した「海の武士」の系譜

私の姓は「森」。その根源を辿ると、徳島を拠点に瀬戸内海を縦横無尽に駆け巡った「海の武士」、阿波水軍 森氏の系譜に行き着きます。彼らは風を読み、波を操り、時に戦国の荒波を乗り越える海の覇者でした。

私の遠い祖先、森権平久村一族の影が鮮明に浮かび上がります。時は1583年、豊臣秀吉の四国征伐が迫る不穏な時代。「引田の戦い」で長宗我部元親の大軍と激突する中、権平久村はわずか18歳という若さで命を散らしました。その短くも鮮烈な生涯を刻む墓標は、現在も香川県東かがわ市伊座にひっそりと佇み、彼の魂は引田の日下家の位牌に静かに宿っています。

権平久村の父である森村吉は、引田の戦いの後も、主君仙石秀久と運命を共にし、様々な戦(いくさ)を乗り越えながら最終的に信濃へ移り7000石を有する武将となりました。長男 森村重も戦の道を選び、徳島に残って家を継ぎました。村重は後に森甚五兵衛を名乗り、3000石を有する海上方として、一族は260年間も務めます。そして、次男である権平久村の一派は、戦の道は選ばず彼の亡き地である讃岐に留まることを決意しました。

彼らが頼ったのは、縁者が嫁いでいた讃岐引田の有力者、日下家でした。日下家は江戸時代以降、馬宿村や引田村の庄屋、そして大内郡全体の大庄屋をも務めた家柄です。この地の利と絆を頼りに、私の先祖は馬宿に住み、やがて高松藩の郷士として新たな道を歩み始めました。

阿波水軍森家が掲げた家紋「木瓜(もっこう)」は、支家の高松藩森家の家紋「丸に木瓜」と形を変え、しかし確かにその血脈が受け継がれた揺るぎない証として、静かに輝いています。この家紋を見るたび、私は先祖たちの不屈の魂と、讃岐の地に新たな命を吹き込んだ覚悟を感じずにはいられません。


・阿波水軍森家の家紋と高松藩森家の家紋。墓石や屋根瓦に丸に木瓜の家紋が刻まれている。


森権平久村の墓
阿波水軍森家の家系図


※高松藩森家の初代は森権平久村の一族出身で、引田の戦い後、森権平久村の叔母が嫁いでいた引田の日下家を頼り東かがわ市の馬宿村に住んだ。後に、馬篠の柏の木が生い茂る未開の山を開拓し、柏谷(かしわだに)と名付け移り住んだ。そして、柏谷一帯の山林と土地を所有した。高松藩の郷士として、橋や道路を作る普請の仕事に従事し、金刀比羅宮の石段の造営にも参加した。近くの小磯の浜に松平の殿様が来た際は一行にお膳立てをせねばならず経済的負担になった。戦前まで戦国時代の甲冑と刀、槍を大切に保管していたが、戦況が悪化した1943年の金属類回収令により国に供出した。戦後に刀の鍔(つば)のみが残り飾ってあった。

※高松藩森家の代々の菩提寺は、森権平久村の母の出身家である阿波赤沢家一族の赤沢信濃守宗伝の一子が讃岐の小砂(こざれ)に逃れてきて父を弔う為に開基した勝覚寺

※江戸時代、高松藩森家は徳島藩の碁浦番所役人兼庄屋を200年以上務めた禄持ちの八田家と婚姻関係を結んだ。この藩を跨いだ結婚には、八田家と阿波水軍森家が既知の関係だったと言う背景がある。八田家は碁浦番所に地理的に近かった土佐泊城(鳴門)を居城とした阿波水軍森家とは既知の間柄だった。徳島藩の阿波水軍森家は後に阿南市の椿泊へ移った。

鳴門市の土佐泊と碁浦



第二章:森家を見守る聖なる守護者:由緒ある菩提寺と政界要人との接点

高松藩森家代々の魂を静かに見守り、導いてきた菩提寺は、香川県東かがわ市に佇む海暁閣 勝覚寺です。この寺院の創建は、私の森家と深く交錯する赤沢一族の歴史と切っても切り離せません。

勝覚寺を開いたのは、森権平久村の母方の出身家である阿波赤沢一族の板西城主、赤沢信濃守宗伝の一子。中富川の戦いで討ち死にした父の菩提を弔い、乱世を生き延びるため、阿波から讃岐の地へと命からがら逃れ、この寺を創建したのです。

この勝覚寺を特別なものにしているのは、幕末から明治の激動期に生きた二十世住職、赤沢融海法師(1833-1895)の存在です。彼は単なる地方の僧ではありませんでした。22歳という若さで法灯を継ぎ、浄土真宗の歴史において200年もの長きにわたる本願寺との確執の末、真宗興正派が独立するという宗派の命運を分ける大事業の中心を担った異才です。政府の太政官から「小教正」の称号を得て天皇に拝謁を許され、当時の政界の要人、三条実美公とも深い親交を結んだことからも、その影響力の大きさがうかがえます。旧五摂家の一つ、鷹司家から寺紋を下賜されたという勝覚寺の由緒は、まさにこの赤沢融海法師の功績と、本山との揺るぎない絆によって裏打ちされています。


・勝覚寺




第三章:讃岐の礎を築いた「普請方」としての静かなる貢献

江戸時代、森家は高松藩において、普請(ふしん)、すなわち土木工事に携わる重要な役目を担っていました。

私の先祖たちは高松と大内郡間の道中、そして地域住民の生活を支える橋や道路を建設し、人々の暮らしを豊かにする地域のインフラ整備に尽力したのです。それは藩の発展の礎を築く、地味ながらも極めて重要な仕事でした。信仰の象徴である金刀比羅宮の石段造営にもその技術と情熱を捧げたと伝えられています。石段を一段一段積み上げる彼らの手には、地域の発展と民の安寧への貢献という、静かなる誇りが宿っていたに違いありません。

東かがわ市に今も残る「柏谷(かしわだに)」という地名も、森家が柏の木が生い茂る未開の山を切り開き、新たな土地を開拓した功績に由来します。戦前までは甲冑や刀、槍を所有していましたが、戦中の金属回収令で国に供出されました。しかし、戦後も刀の「鍔(つば)」が額に飾られ、その歴史を静かに語り継いでいたのです。この鍔は、武士としてのアイデンティティ、先祖への敬意、そして家族の絆を未来へと繋ぐ「生命のバトン」そのものでした。


・柏谷



・金刀比羅宮 石段


・刀の錆



第四章:血縁が織りなす絢爛たるタペストリー:瀬戸内寂聴と歴史を動かした交点

私の家系図は、まるで絢爛たる織物のように、幾重にも重なる婚姻の糸で結ばれ、驚くべき人物たちとの繋がりを織りなしてきました。私のルーツを辿る旅は、しばしば予期せぬ歴史上の邂逅を私にもたらします。

私の高祖父、森喜平は高松藩の普請方。彼の伴侶は、徳島藩で碁浦番所役人と庄屋を兼任した八田家の当主、八田孫平の長女、キヨでした。200年以上にわたり徳島藩の要職を担った八田家は、天正13年(1585年)に阿波と讃岐の境を決める重要な役割も果たしています。そして、260年間、徳島藩の海防を担った阿波水軍 森家とも古くから繋がりを持っていました。この森喜平と八田キヨの藩を越えた婚姻は、単なる縁結びではありません。それぞれの家が持つ歴史的背景と職務上の連携が、血縁という形で結実したのです。

この碁浦番所には、日本地図を完成させた伊能忠敬、坂出の塩田を開発した久米通賢、そして北海道の名付け親である探検家松浦武四郎といった江戸時代の知の巨匠たちが足跡を残しています。先祖たちが生きた時代が、いかに日本の近代化の胎動と重なっていたかを知り、深く感銘を受けました。

私の曽祖父、森虎太郎は、東かがわ市黒羽に名を残す黒羽城主、永塩因幡守氏継の末裔にあたる旧家、永峰家の長女チヨと結ばれました。応仁の乱で散った武将の血が、再び私の家系に流れ込んだ瞬間です。

そして、私を驚かせたのは、高祖父 森喜平の長女、森トヨと、東かがわ市黒羽の旧家である黒羽三谷宗家の三谷磯八の結婚です。この三谷家こそ、戦国大名十河氏(そごうし)の血筋を引く名門だったのです。神櫛王を祖とし、十河氏と共に讃岐東部を支配した有力な家系。そして、この黒羽三谷宗家の分家(屋号:甚六)の末裔に、日本文学史にその名を刻む作家、瀬戸内寂聴(三谷晴美)さんがいらっしゃいます。寂聴さんの先祖は江戸時代から代々、ここ黒羽で製糖業を営んでいました。私の大伯母(祖父の姉)にあたる森トメノは、積善坊での三谷家の法事に度々手伝いに行き、寂聴さんのことを本名で「晴美さん」と呼んでいました。

また、戦後の日本を歌で鼓舞し続けた「ブギの女王」笠置シヅ子さんもまた、香川県東かがわ市黒羽で製糖業を営む黒羽三谷家の出身だったことです。朝ドラ『ブギウギ』のモデルにもなった彼女が、この瀬戸内の地と深い縁を持っていたことに、驚きを禁じ得ません。止むに止まれぬ事情があり、生後間もなく大阪の亀井家(出身は東かがわ市引田)の養子となりましたが、そのルーツは確かにこの黒羽の三谷家にあるのです。

私の大伯母、森トメノは、明治生まれの女性でありながら、1925年(大正14年)から、国際都市・神戸の象徴ともいえる旧・神戸オリエンタルホテルで働き始めました。当時としては稀有な英語を操り、激動の大正・昭和期をホテルの最前線で駆け抜けます。アインシュタイン、ヘレン・ケラー、マリリン・モンロー、川島芳子、そして昭和天皇――。 世界中の名だたる著名人が宿泊するホテルで、彼女は、その時代の息吹を肌で感じ、日本の近代化の最先端を生きていたのです。当時の神戸新聞には、彼女のホテル勤務に関する貴重なインタビュー記事が残されています。


・高松藩 森家

高祖父の父: 森義右エ門。高松藩普請方。1866年(慶応2年)、家督を長男 森喜平に譲り隠居。先祖代々の菩提寺は森権平久村の母方の出身家の阿波赤沢家一族の板西城主 赤沢信濃守宗伝の一子が讃岐に逃れて開基した勝覚寺。

高祖父母: 高松藩普請方 森喜平。1846年生まれ、1864年、18歳で徳島藩の八田キヨと結婚。1866年、20歳のときに家督を譲り受けた。八田キヨは、徳島藩 碁浦番所役人兼庄屋を200年以上務めた禄持ちの八田家当主 八田孫平の長女、阿波浄瑠璃の三味線が上手かった。この碁浦番所には伊能忠敬、久米通賢、松浦武四郎らも訪れたことが記録に残っている。八田家は天正年間に阿波と讃岐の境界線を決める際に重要な役割を担った。高松藩と徳島藩の藩を跨いだ結婚の背景には、八田家と阿波水軍森家は既知の間柄だったことがある。阿波水軍森家の土佐泊城と碁浦は地理的に近かった。

高祖父母の娘: 森トヨは東かがわ市黒羽の十河系三谷氏の黒羽三谷宗家の三谷磯八へ嫁いだ。瀬戸内寂聴さんはこの黒羽三谷宗家の分家(屋号: 甚六)の末裔にあたる。大叔母は瀬戸内寂聴さんの家の法事の手伝いに行き参列していた。寂聴さんのことは本名で「晴美さん」と読んでいた。

曽祖父母: 森虎太郎。東かがわ市黒羽の旧家 永峰家当主の長女 永峰チヨ (細川京兆家に仕えた黒羽城主 永塩因幡守氏継、長塩備前守又四郎元親の末裔)。森虎太郎と永峰チヨの娘は黒羽の永峰家に嫁いだ。

森虎太郎、永峰チヨの息子 森静雄(私の祖父)は、1937年、日中戦争の最中に27歳の若さで戦没した。長男である私の父が生まれてくるのを心待ちにしていたが息子の顔を見ることなく亡くなった。




・高祖母の実家 碁浦番所

・碁浦御番所 八田家文書と阿波水軍森家の歴史書 木瓜の香り

・瀬戸内寂聴さん

・笠置シヅ子さん

・大叔母 森トメノ




第五章:激動の昭和を生き抜き、昭和天皇へ至高の料理を献上した父の物語

しかし、私の家族の物語は、明るい歴史だけではありません。幾度となく、激動の時代に翻弄され、深い悲しみを乗り越えてきました。

私の祖父は、日中戦争の最中、1937年(昭和12年)10月20日、香川県の善通寺陸軍病院丸亀分院にて、27歳という若さで戦没しました。盧溝橋事件に端を発したこの戦争は、日本を泥沼の戦いへと引きずり込み、多くの若者の命を奪いました。その時、祖母のお腹には、私の父が宿っていました。私の父は、自分の父の顔を知らずして育ち、そして、子供の頃に母も失いました

両親を亡くした父は、10代で香川の片田舎から、たった一人で神戸へと渡り、西洋料理人の道を志します。皿洗いから始まり、日々、鉄拳が飛び交う厳しい修行に耐え抜きました。その手は荒れ、体は疲弊しましたが、彼の心には決して折れない決意と鋼のような精神力が宿っていたのです。戦中、戦後の日本国中が大変な時期に筆舌に尽くし難い辛酸を舐めて育った父は、その経験を糧に、並外れた強さを身につけました。

やがて、父は旧・神戸オリエンタルホテルで腕を振るうようになります。その料理は、石原裕次郎をはじめ、財界の多くの人々を魅了しました。そして、父の料理人人生における最高峰とも言える大役が訪れます。

昭和30年代、日本が高度経済成長期にあった頃、神戸元町のオリエンタルホテルでは、昭和天皇が宿泊されるにあたり、御献上料理を作るプロジェクトチームが結成されました。ホテルに勤務する数百名の中から、私の父、森功を含むわずか5名が御献上料理担当のメンバーに選抜されたのです。選抜メンバーに課せられたのは、想像を絶する厳戒態勢でした。料理を作る1ヶ月前から、兵庫県庁職員立会のもと、徹底した健康診断や身元調査が始まり、当時の私の父の実家がある東かがわ市にまで調査員が訪れたと聞いています。

昭和天皇へ料理を作る1週間前になると、父たちはホテルから外へは出られず、缶詰状態となり、万が一の体調不良も許されない厳格な状況下で、食中毒や感染症予防のため、予防的に抗生物質が投与されたと聞きました。料理に使う調理道具類は、全て大きな鍋で沸騰させた熱湯の中に入れられ、絶えず煮沸消毒されました。

実際に天皇へ提供された料理は、神戸牛、明石の鯛など、最高級の食材数種類の一番美味な箇所が少量ずつ調理され献上されました。特に神戸牛は、創業明治6年の老舗「森谷商店」から提供され、献上の前日には元町通りをパレードして練り歩いたそうです。

そして、天皇の晩餐終了後、各メンバーに対し、十六菊花紋の印がはいった御賜の煙草が配られました。これは、一料理人にとって最高の栄誉であり、父がどれほどの重責を担い、それを全うしたかを物語っています。

父は、作家の安部譲二さんの父、日本郵船出身の安部正夫氏がオリエンタルホテルの社長を務めていた時代に、13年間皆勤で表彰されています。その表彰状は今も大切に残されています。父は、当時日航のパーサーをしながら安藤組組員でもあった安部譲二さんにも、ホテルで何度も遭遇していたそうです。2018年、私が安部譲二さんに父の件でメールを送ると、彼は確かにご両親の住んでいた神戸市垂水区のジェームス山の自宅や、旧神戸オリエンタルホテルに何度も足を運んでいたとの温かい返信をくださいました。

旧神戸オリエンタルホテルは1870年(明治3年)に開業した日本最古級の西洋式ホテルで、谷崎潤一郎の『細雪』にも登場します。父は第12代総料理長伊藤孝二氏のもとで腕を磨き、その伝統の味を守り続けました。

父はその後、香川県で本格的な洋食を広めたいという強い想いがあり、10代から働いた神戸オリエンタルホテルを退職し、1972年(昭和47年)に東かがわ市でステーキレストラン「オリエンタル」を開業しました。父が長年培った技術と情熱を注ぎ込んだ店は、今も地域の人々に愛され続けています。

そして、私の母の人生もまた、壮絶なものでした。戦前、香川県で瓦工場を経営していた実父の仕事の関係で、当時、日本の領土だった現在の北朝鮮の端川(タンセン)市へ渡りました。しかし、日本の敗戦後、彼女は現地に残留を余儀なくされます。ソ連軍の進駐、厳しい食料不足、伝染病、そして異国での差別と暴力というリスクがつきまとう地獄のような日々の中、彼女は命からがら陸路を何日も歩き、船を乗り継いで、ようやく深夜、九州の門司港近くの浜辺に辿り着きました。北朝鮮からの引き揚げの話を聞くたびに、母の持つ途方もない生命力にただただ頭が下がります。門司港駅から高松駅に帰る際、門司港駅でスリにあい汽車賃を盗まれてしまいましたが、戦後の混乱期にも関わらず、見知らぬ方がお金を貸してくれて高松駅まで帰ることができたという、人間関係の温かさに触れるエピソードも残っています。1946年の春ごろに実家にたどり着いた時、実家にいた父の兄の奥さんが作ってくれた豆ご飯がこの上なく美味しかったそうです。今でも春になると”えんどう豆の豆ご飯”を食べるのは、あの時のことを思い出しているのかもしれません。


・両陛下

・旧神戸オリエンタルホテル

・右: 進軍ラッパを持つ祖父

・父

・昭和40年代、旧神戸オリエンタルホテルの社長を務めていたのは日本郵船からきた安部譲二さんの父 安部正夫さんだった。垂水区のジェームス山に住まわれていた。

・1972年に東かがわ市に開業したステーキレストラン オリエンタル

・インスタグラム: ステーキレストラン オリエンタル
https://www.instagram.com/p/DCA6VrtsPwQ/?q=#ステーキレストランオリエンタル


・Youtube動画



エピローグ:繋がれし生命のバトン、未来へ

現在、私はアメリカ、シンガポール、中国(上海、北京、深圳)での長きにわたる海外生活を経て、日本でビジネス英語講師、全国通訳案内士(英語・中国語)、そして海外ビジネスコンサルタントとして活動しています。そして、トリリンガル讃岐PRオフィサーとして、ここ高松・香川の魅力を国内外に発信することにも力を入れています。

私のルーツを辿る旅は、単なる過去の確認ではありませんでした。それは、戦国の荒波を乗り越え、江戸の礎を築き、明治の変革を担い、昭和の激動を生き抜いた、名もなき、しかし確かに生きていた先祖たちの息吹を感じる旅です。彼らの苦難と栄光、そして何よりも途方もない生命の強さが、私という存在に繋がっていることを、深く、深く実感しています。

この物語は、個人の歴史が、いかに壮大な日本の歴史と絡み合い、そして現代の私たちにまで受け継がれているかを教えてくれます。私自身の人生もまた、この壮大な系譜の一部なのだと深く認識するに至りました。この物語が、幾多の困難を乗り越えてきた家族の証として、そして、未来を生きる私たちへのメッセージとして、多くの人々に語り継がれていくことを心から願っています。


補遺:天皇への料理献上という極秘任務と伝説のホテル

このセクションでは、本編で触れられた昭和天皇への料理献上の背景にある、極めて厳格な人選、衛生管理、心理的重圧について詳細に解説し、当時の日本社会におけるその意味合いを深く掘り下げます。

昭和天皇に料理を献上することの難しさ

昭和天皇に料理を献上することは、極めて限られた、非常に特別な機会であり、想像を絶するほどの難しさがありました。一般の料理人が天皇陛下の食事を担当することはまずなく、宮内庁の「大膳課(だいぜんか)」という部署に所属する、選ばれたごく一部の料理人のみがその任に当たっていました。彼らは厳格な訓練と高度な技術、そして何よりも絶対的な信頼が求められる、まさに日本の食の最高峰を守る存在です。

ホテルなど外部の料理人が担当する場合の特殊性として、以下のような非常に厳重な体制と選抜が行われました。

  • 極めて厳格な人選: ホテルの総料理長クラスであっても、誰もが献上料理に携われるわけではありません。技術はもちろんのこと、身元調査が徹底され、家族の背景まで詳細に調べられました。これは、食の安全だけでなく、テロや思想的な問題など、あらゆるリスクを排除するためです。数百名の中からわずか数名が選ばれるほどの狭き門でした。

  • 徹底した衛生管理: 調理前には、担当者の健康状態が厳しくチェックされ、必要に応じて抗生物質が予防的に投与されることもありました。調理器具、食材の管理、調理環境の衛生状態は、通常のプロの厨房では考えられないほどのレベルで徹底されました。全ての道具の煮沸消毒や、外部との接触を絶つための「缶詰状態」などは、その厳格さのほんの一部です。

  • 最高の食材と技術: 献上される食材は、その時期、その土地の最高級品が厳選され、最高の状態で提供されました。料理の技術はもちろん、盛り付け、タイミング、サービスのすべてにおいて完璧が求められました。

  • 計り知れない心理的重圧: 天皇陛下の食事という、日本の最高位の方に料理を提供するという重圧は計り知れません。もし何か問題があれば、料理人個人のキャリアだけでなく、ホテル全体の信用にも関わるため、精神的な負担も相当なものだったでしょう。

昭和天皇と皇太子(現在の上皇)の「厳格さ」の違い

父は、昭和天皇以外にも当時の皇太子(現上皇)や他の皇族に料理を献上しました。父の証言によると、昭和天皇への対応は「別格で、皇太子の扱いとは比べ物にならないほど厳格だった」と言っていました。

この厳格さの違いには、いくつかの歴史的、社会的な背景があります。

  • 天皇の「神聖性」と象徴としての役割: 昭和天皇は、第二次世界大戦終結まで、現人神(あらひとがみ)としての地位と、大日本帝国憲法下の国家元首という、極めて重い二つの役割を担っていました。終戦後、人間宣言をされて象徴天皇となられてからも、その「神聖性」や国民統合の「象徴」としての位置づけは非常に大切にされ、国民からは絶大な敬愛と畏敬の念が寄せられていました。このような背景から、昭和天皇の安全と尊厳を確保することは、国家の最重要課題の一つであり、その扱いはあらゆる面で厳格を極めました。

  • 戦中・戦後の社会情勢と安全保障: 昭和天皇の時代は、第二次世界大戦の激動期と、その後の混乱期、そして高度経済成長期と、日本が社会的に大きな変化を経験した時期と重なります。特に戦後の混乱期には、国内外にまだ不安定な要素が残る中、天皇陛下に対する警護や安全管理は、想像を絶するほどの対策が講じられていたと考えられます。これに対し、当時の皇太子は、もちろん将来の天皇というお立場ではありましたが、国際親善などの役割が増えていく時期であり、必然的に昭和天皇とは「扱い」の厳格さに差があったと言えるでしょう。

  • 大膳課と外部委託における厳格さの度合い: 父が経験したように、料理献上前の身辺調査、健康チェック、ホテルでの缶詰状態、調理器具の徹底した消毒などは、万が一にも食中毒や不純物の混入、あるいはテロなどの危険があってはならないという、国家的な危機管理の意識の表れでした。

父の貴重な経験と証言は、当時の天皇と皇太子の立場の違い、そしてそれに伴う「扱い」の厳格さの差を如実に物語っています。

旧・神戸オリエンタルホテル歴代料理長:日本の西洋料理史を彩る伝説たち

1870年(明治3年)に開業した旧神戸オリエンタルホテルは、単なる宿泊施設ではありませんでした。日本の西洋料理史において、その名を深く刻んだ「西日本屈指の名門ホテル」としてその名を馳せたのです。

初代料理長を務めた黒沢為吉は、明治初期にベトナムでフランス料理の技術を身につけたとされ、長崎の外国人ホテルを経て神戸オリエンタルホテルの初代料理長に就任しました。彼は、その後の日本の西洋料理界に多大な影響を与えたパイオニア的存在です。

黒沢氏以降も、錚々たる顔ぶれのシェフたちが歴代料理長を務めました。

  • 第5代:鈴本敏雄(『築地精養軒』の全盛期をもたらす)

  • 第7代:内海藤太郎(『帝国ホテル』の礎を築く)

  • 第9代:岡山広一

  • 第10代:田上舜三

  • そして、私の父が師事した第12代:伊藤孝二氏。

これらの名シェフたちは、その後の日本を代表するホテルの料理長や、日本の西洋料理界の重鎮として名を残しています。往年期は「日本の西洋料理といえば東の帝国ホテル・横浜ニューグランド、西のオリエンタルホテル」と称されるほど、その格式と技術は群を抜いていました。

旧神戸オリエンタルホテルは、国際都市神戸の象徴として、多くの歴史的な出来事の舞台にもなりました。1922年(大正11年)にはアインシュタイン博士、1924年(大正13年)には「大アジア主義」演説を行った孫文、1937年(昭和12年)にはヘレン・ケラーが滞在し、彼女は「これまで食べた中で一番美味しい料理だった」と書き残しています。1948年(昭和23年)完成の谷崎潤一郎の作品『細雪』にも幾度も登場し、1954年(昭和29年)には映画女優マリリン・モンローと大リーグの名選手ジョー・ディマジオが滞在しました。そして1956年(昭和31年)以降、昭和天皇が神戸を訪れた際に滞在、食事をするホテルとなったのです。

父は、このような歴史的な舞台で、日本の西洋料理の伝統と革新を支える一員として、その腕を磨き続けました。



著者プロフィール

森啓成 (モリヨシナリ)

ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント

神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部マーケティング専攻。

大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事(北京オフィス所長)。その後、香港、中国にて外資系商社設立に参画し、副社長を経て顧問に就任。アメリカ、シンガポール、中国、ベルギーなど、海外滞在歴は計16年以上。

現在はBizconsul Office代表として、ビジネス英語講師、全国通訳案内士(英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタントとして活動中。観光庁インバウンド研修認定講師、四国遍路通訳ガイド協会会員、トリリンガル讃岐PRオフィサーも務める。

【保有資格】

  • 英語: 全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点 (L満点)、TESOL (英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級

  • 中国語: 全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級

  • ツーリズム: 総合旅行業務取扱管理者、国内旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド、観光庁インバウンド研修認定講師

【メディア・研修実績】 香川県広報誌「THEかがわ」インタビュー記事掲載、瀬戸内海放送(KSB) 及び 岡山放送(OHK)ニュース番組コメント。観光庁インバウンド研修認定講師として地方自治体や宿泊施設で登壇。四国運輸局事業コンサルタント、瀬戸内国際芸術祭オフィシャルツアー公式ガイド、香川せとうち地域通訳案内士インバウンド研修講師認定試験面接官を務める。

座右の銘: 雨垂れ石を穿つ

いいなと思ったら応援しよう!