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【讃岐秘話】 阿波水軍 森家と直島 高原家――豊臣秀吉の朝鮮出兵が結んだ瀬戸内海の海上ネットワーク

はじめに



香川県直島町の本村地区には、かつて直島を支配した高原氏の居城とされる高原城跡が残っています。

一方、徳島県阿南市椿泊には、戦国時代から江戸時代にかけて阿波水軍を率いた森家の松鶴城跡があります。

この二つの家は、現在の行政区域では香川県と徳島県に分かれています。

しかし、戦国時代の瀬戸内海では、現在の県境は存在せず、島々と海岸部は船によって結ばれた一つの海上交通圏でした。

では、直島の高原家と阿波水軍の森家には、実際にどのような接点があったのでしょうか。

この問題を考えるうえで、特に重要なのが豊臣秀吉による文禄・慶長の役です。

直島側の史料には、高原次勝について、「秀吉公高麗御陣の刻、寺澤志摩方与力仰付られ、両御陣相勤め」
と記されています。

また、『寛政重修諸家譜』にも、高原次勝が朝鮮陣の際に寺沢志摩守正成の与力となって渡海し、戦功があったことが記されています。

『直島町史』は、この記述を根拠として、高原次勝が寺沢正成の配下として文禄・慶長の役に従軍したことを明確に認めています。

一方、阿波では、蜂須賀家政に仕えた森村春が阿波水軍を率いて文禄の役に出陣し、1592年6月2日の唐浦海戦で戦死したとされています。


森村春が戦死した巨済島あたり


また、村春の弟 森村吉の長男 森村重も朝鮮出兵に参加し、戦功を挙げたと伝えられています。

徳島城博物館関係者の研究資料でも、蜂須賀家政の渡海と森村春・村重の朝鮮出兵について説明されています。

ここから見えてくるのは、

直島高原家と阿波水軍森家が、豊臣政権によって組織された巨大な海上軍事・輸送ネットワークの中に、それぞれ組み込まれていた

という歴史的状況です。

ただし、現段階では、高原次勝と森村春・森村重・森村吉が直接会った、あるいは同じ船奉行の指揮下にあったことを示す一次史料は確認できません。

そこで本稿では、確認できる事実と、そこから導かれる可能性を明確に区別しながら、両家の接点を探ります。


・直島の高原城址、阿波水軍森家の拠点だった土佐泊、椿泊の松鶴城跡



・直島町史



・文禄・慶長の役


🔸文禄・慶長の役:
・直島 高原次勝が寺沢正成の与力として従軍
・蜂須賀家政の阿波水軍 森志摩守村春、森村重(森甚五兵衛)が参戦





1.直島を支配した高原氏



直島には戦国期、高原氏が勢力を持っていました。

その居城と伝えられるのが、本村地区の高原城です。


直島にある高原城址






直島は瀬戸内海の中央部に位置し、讃岐・備前・備中・播磨などを結ぶ海上交通の要衝でした。

島そのものは小さく、耕地も限られていましたが、その一方で海上交通という点では非常に重要な場所でした。

『直島町史』248頁では、文禄・慶長の役に際して、肥後国川内の河口付近に設けられた輸送基地について述べたうえで、「高原氏も塩飽衆と同様、ここにつめていたものと考えられる。」としています。

つまり、高原氏は単なる島の在地領主ではなく、瀬戸内海・九州を結ぶ海上交通の能力を持った勢力として、豊臣政権の海上動員と関係していた可能性があります。




2.高原次勝と文禄・慶長の役



『直島町史』249頁に、この問題を考える決定的な記述があります。

直島極楽寺蔵の高原氏系図には、 

「秀吉公高麗御陣の刻、寺澤志摩方与力仰付られ、両御陣相勤め、御褒美として御腰物御羽織拝領」

とあります。

さらに『寛政重修諸家譜』にも、

「朝鮮陣のとき、寺澤志摩守正成が興力となりて、彼地に渡海し戦功あり」

とあります。

『直島町史』は、この「与力」について、「本来は寄騎と書き、組頭に附属する士の称」と説明しています。

したがって、少なくとも現存史料から確認できる範囲では、

高原次勝

寺沢志摩守正成の与力

文禄・慶長の役に従軍

という関係が成立します。

これは、直島高原家を朝鮮出兵と結びつける重要な史料です。



・寺沢志摩守正成

別名: 広高、忠次郎(通称)、正成、定政、広忠




3.寺沢正成(広高)が担った海上輸送・兵站



高原次勝の役割を理解するには、彼が仕えた寺沢正成の役割を見る必要があります。

寺沢志摩守正成は肥前唐津城主でした。

『直島町史』250頁によれば、文禄の役の時期、寺沢氏は名護屋城の築城にも関わり、その後、朝鮮半島へ渡海して、釜山と名護屋の間の連絡に従事しました。

さらに慶長2年(1597)の秀吉朱印状には、

「釜山・壱岐・対馬・名護屋、右四ヶ所に次舟を置き」

とあります。

「次舟」とは、船をリレー式に乗り継いで情報や人員を運ぶ仕組みです。

『直島町史』は寺沢正成の役割を、
「輸送指揮官または兵たん司令のような役」と評価しています。

これは非常に重要です。

なぜなら、高原次勝の「与力としての朝鮮出兵」を考える場合、単純に「朝鮮半島で敵と戦った武将」とだけ捉えるのではなく、海上輸送・兵站・通信・船舶運用などを含む豊臣軍の海上作戦に参加した人物として考える必要があるからです。



4.塩飽船方と寺沢正成



さらに興味深いのが塩飽との関係です。

『直島町史』251頁には、名護屋から壱岐へ羽柴秀勝の兵を輸送するための文書が紹介されています。

その宛先は、

「寺澤忠次郎舟奉行中」

です。

この文書は塩飽の与島に残っています。

そのため『直島町史』は、

「寺澤忠次郎舟奉行は、文書の所在する状況から考えて、塩飽舟方を指したものであろう」

と推定しています。

そして、さらに重要なのが、

「当然高原氏も同様な指示を受けて、輸送に従事したものと考えられる。」

という町史の記述です。

ここで、

寺沢正成

舟奉行

塩飽船方

という海上輸送ネットワークと、

寺沢正成

与力

高原次勝

という軍事的な関係が見えてきます。

ただし、「高原氏も同様な指示を受けた」という部分は、高原氏本人の名前が記された直接史料ではなく、『直島町史』による史料的推定です。

この区別は重要です。



5.阿波水軍森家――森村春



一方、阿波では森家が強力な水軍勢力として活動していました。

森村春は森元村の子で、阿波の土佐泊城を本拠とし、志摩守を称しました。




森家は細川氏・三好氏の時代から海上勢力として活動し、長宗我部元親の阿波侵攻に際しても土佐泊城を守りました。


天正13年(1585)、豊臣秀吉による四国征伐の際には、木津城・岩倉城の攻略などで功績を挙げ、秀吉から知行を約束する朱印状を受けたと伝えられています。

その後、蜂須賀家政の阿波入国に伴い、森家は椿泊を拠点として阿波水軍を担うことになります。

そして文禄元年(1592)、秀吉による朝鮮出兵が始まると、森村春は水軍を率いて朝鮮へ渡海しました。




徳島城博物館関係者の研究資料によれば、蜂須賀家政は福島正則・戸田勝隆・長宗我部元親・生駒親正・来島通之らとともに第五軍の将として出征し、森村春の水軍もその海上活動に参加しました。

森村春は1592年6月2日の唐浦海戦で戦死したとされています。


つまり、

直島の高原次勝
→ 寺沢正成の与力として朝鮮出兵


と、

阿波の森村春
→ 蜂須賀家政の水軍として朝鮮出兵

という二つの事実が確認できます。


・森村春


・森村春の墓 (阿南市椿泊町)


・高原次利



直島の高原寺跡 高原次利の墓





6.森村重と朝鮮出兵



森村重は、森村春の弟・森村吉の長男です。

・阿波水軍森家の家系図

阿波水軍森家の歴史書 木瓜の香り
蜂須賀卍と阿波水軍森家の家紋: 木瓜


・森村春の弟で仙石秀久家臣だった森村吉の次男 森権平久村の墓(光かがわ市伊座)。

左:阿波水軍森家の木瓜紋。右: 分家の高松藩森家の丸に木瓜紋。


高松藩森家の家紋瓦:丸に木瓜




森村吉の長男 森村重は、のちに森甚五兵衛家を興し、徳島藩の海上方として260年間、蜂須賀家に仕える家系となります。

森村重については、文禄元年(1592)の朝鮮出兵で戦功があったと伝えられ、徳川家康から呉服を与えられたほか、加増を受けたとされています。

また、「月峯海上録」に朝鮮から多数の捕虜を連れ帰ったことが記録されているとする伝承があります。

さらに徳島城博物館関係者の資料でも、1592年12月に森村重が加藤嘉明らとともに唐島・釜山方面の敵船を撃退したことが紹介されています。

したがって森家は、村春だけでなく、村重の世代にも朝鮮出兵との関係が認められます。



・森村重の墓(阿南市椿泊町)


森村重は、森村春の弟・村吉の長男で、叔父の村春の養子となりました。しかし、村春に実子・忠村が生まれたため、村重は分家して森甚五兵衛家を立てました。

文禄の役では、朝鮮半島で戦死した養父・村春の遺体を敵陣から奪還したと伝えられています。その後、大坂冬の陣にも蜂須賀至鎮に従って出陣し、戦功を挙げました。

慶長19年(1614)12月には徳川家康から森村重ら蜂須賀家臣の戦功が賞され、感状が与えられたことが『大日本史料』に記録されています。また、翌元和元年(1615)1月には徳川秀忠も蜂須賀家臣の戦功を賞しています。

本家を継いだ忠村が早世して嗣子を残さなかったため、分家していた村重が本家の家督を継ぎました。これにより、村重を祖とする森甚五兵衛家が、その後の徳島藩における森家の本流として発展していくことになります。



・森村重 (森甚五兵衛)





7.森村吉は別系統から見る必要がある



ここで注意しなければならないのが森村吉です。

森村吉は森元村の次男で、森村春の弟です。

しかし、村吉は1582年に、仙石秀久に仕えました。

そのため、

森村春・森村重らの阿波水軍系統

と、

森村吉・森権平・森村明ら仙石家臣系統

を同一の軍事系統として扱うのは危険です。

特に森村吉については、

「朝鮮出兵時に森村春・村重と同じ船団・軍団に属した」

と現段階で断定できる直接史料は確認できません。


したがって、森村吉については、
阿波水軍森家の血縁関係を考えるうえでは重要だが、文禄・慶長の役における所属については別途史料調査が必要とするのが適切です。




8.高原家と森家は同じ海上ネットワークにいたのか




ここが本稿の最大のテーマです。
現在確認できる史料を整理すると、次のようになります。

①家
②人物
③朝鮮出兵との関係
④指揮系統

直島高原家
高原次勝
文禄・慶長の役に従軍
寺沢志摩守正成の与力


阿波森家
森村春
文禄の役に水軍を率いて出陣
蜂須賀家政の水軍


阿波森家
森村重
文禄の役に参加・戦功
蜂須賀家政側の水軍


阿波森家
森村吉
仙石秀久の家臣
直接の朝鮮出兵所属は要検証


ここから重要なことが分かります。


高原家と森家は、同じ人物に直接仕えていたことが確認されたわけではありません。

しかし両家とも、

豊臣秀吉の全国的な軍事動員
という同じ歴史的枠組みの中で、

海上交通・船舶・水夫・水軍

という海上能力を提供していました。


朝鮮出兵時の仙石秀久、森村吉の動き


仙石秀久:
天正13年(1585)の四国征伐の功により讃岐一国を与えられ、高松城主となる。

天正14年(1586)の戸次川の戦いで大敗した責任を問われ、所領を没収されて高野山に入る。

その後、秀吉の赦免を受けて復帰し、天正18年(1590)の小田原征伐に参加。その功により信濃小諸5万石を与えられた。森村吉は小諸藩にて7000石を受領した。

文禄・慶長の役(1592~1598)では朝鮮へ渡海せず、文禄の役に際して肥前名護屋城の築城工事などに従事した。






9.豊臣秀吉の朝鮮出兵は「海のネットワーク」を必要とした



『直島町史』248~252頁を読むと、朝鮮出兵が単なる兵士の派遣ではなかったことが分かります。

秀吉は天正19年(1591)、沿海道諸国に対して船と水夫を差し出すよう命じました。

小豆島では、

船50余艘・水主651人
が動員されたと記録されています。

塩飽でも、

船と水主574人

が高麗および肥前名護屋に動員されたとされています。

つまり、瀬戸内海の島々では、

船を出す

水夫を出す

兵員を運ぶ

兵糧・武器を運ぶ

名護屋・壱岐・対馬・釜山を結ぶ

朝鮮半島の前線を支える

という巨大な海上輸送システムが構築されました。

このシステムに直島の高原氏も関係し、阿波では森家が水軍として参加していたのです。


10.「直接の接点」と「構造的な接点」を区別する




ここで、本稿でもっとも大切な点を明確にしておきます。

現段階の史料から、

「高原次勝と森村春が直接会った」

「高原次勝と森村重が同じ船に乗った」

「森村春が寺沢正成の指揮下に入った」

「森村家が高原氏と共同作戦を行った」

と断定することはできません。

しかし、

高原次勝が寺沢正成の与力として朝鮮出兵に参加したこと

そして、

森村春が蜂須賀家政の水軍として朝鮮出兵に参加したこと

は、それぞれ別の史料群から確認できます。

したがって、現段階で言える最も正確な表現は、

「直島高原家と阿波水軍森家には、文禄・慶長の役における豊臣政権の海上動員体制を通じた構造的な接点が存在した可能性が高い。ただし、両家の人物が直接接触したことを示す史料は、現段階では確認されていない。」

というものです。

これは「関係がなかった」という意味ではありません。

むしろ、当時の瀬戸内海の海上交通網を考えれば、両家が完全に孤立して活動していたと考えるより、何らかの海上ネットワークを共有していた可能性を検証する方が歴史的には興味深いと言えます。



11.今後の研究で重要になる資料




高原家と森家の直接的な接点を明らかにするには、今後さらに一次史料を探す必要があります。

特に重要なのは、

  • 直島極楽寺蔵高原氏系図

  • 『直島町史』

  • 『寛政重修諸家譜』

  • 寺沢家関係文書

  • 豊臣秀吉朱印状

  • 塩飽諸島の船奉行・水主関係文書

  • 森甚五兵衛家関係文書

  • 蜂須賀家文書

  • 「森家古伝記」

  • 『月峯海上録』

  • 徳島藩の海上方関係史料

  • 文禄・慶長の役における名護屋・壱岐・対馬・釜山の船舶動員記録

などです。



特に重要なのは、「寺沢正成―塩飽船方―高原氏」と「蜂須賀家政―森家」という二つの海上ネットワークを、船奉行・水主・輸送文書のレベルで比較することです。

もしそこに両家の人物名が同じ文書、船団、奉行、輸送命令などの中に現れれば、今回の仮説は一段強くなります。


おわりに


直島の高原家と阿波水軍の森家。

一見すると、香川県の小さな島を支配した高原氏と、徳島県南部を拠点とした阿波水軍森家には、直接的な関係は見えません。

しかし、16世紀末の瀬戸内海という視点から見ると、状況は大きく変わります。

瀬戸内海は国境によって分断された空間ではなく、船によって人・物資・情報が行き交う巨大な海上交通圏でした。

そして豊臣秀吉の朝鮮出兵は、その海上ネットワークを全国規模で軍事動員しました。

直島では高原次勝が寺沢志摩守正成の与力として朝鮮出兵に参加しました。

阿波では森村春が蜂須賀家政の水軍を率いて朝鮮へ渡り、唐浦海戦で戦死しました。

森村重も朝鮮出兵に参加し、後に森甚五兵衛家を興して、徳島藩の海上方として長く海事を担うことになります。(里山4)

ここに、

直島高原家
 ↓
寺沢正成
 ↓
名護屋・壱岐・対馬・釜山
 ↓
豊臣政権の海上輸送網

と、

阿波水軍森家
 ↓
蜂須賀家政
 ↓
名護屋・壱岐・釜山
 ↓
朝鮮半島

という二つのルートが浮かび上がります。

両家が直接会ったことを示す史料は、まだ確認できません。

しかし、両家が豊臣秀吉の朝鮮出兵という巨大な海上動員体制の中に、それぞれ異なる指揮系統から組み込まれていたことは重要です。

そして、ここから先の研究こそが面白いところです。

もし寺沢氏・塩飽船方・蜂須賀家・森甚五兵衛家・高原氏の関係を示す新たな文書が発見されれば、直島と阿波を結ぶ知られざる海上ネットワークが浮かび上がる可能性があります。

したがって現段階では、

「高原家と森家には直接の関係があった」と断定するのではなく、

「両家は、豊臣政権の海上動員を通じて同じ瀬戸内海・西日本の軍事海運ネットワークに組み込まれていた。そのため、両家の間に人的・軍事的な接点が存在した可能性を、今後の一次史料によって検証する価値がある」

と結論づけるのが、最も史料に忠実な姿勢でしょう。


直島の高原氏と阿波水軍森家。

その間をつないでいたのは、陸上の道ではなく、瀬戸内海という「海の道」だったのかもしれません。





【巻末資料】直島町史248-252


248ページ


五 文禄・慶長の役と高原次勝


朝鮮出兵の準備 文禄元年(一五九二)から慶長三年(一五九八)までの七ヵ年にわたる間、豊臣秀吉が行った文禄・慶長の役は、国をあげての一大海外派兵であった。

出動する兵士は、前進基地の肥前名護屋に駐留する者一〇万二、五〇〇人、朝鮮に渡海する者二〇万五、五〇〇人、合計三〇万八、〇〇〇人の大軍であった。この輸送のため、天正十九年(一五九一)一月二十日、沿海道諸国に舟と水夫を差し出すことを命じ「一、東は常陸より南海を経て、四国九州に至て、海に添いたる国々、北は秋田坂(酒)田より中国に至て、其国々の高十萬石に付て、大船二艘宛用意これ有るべき事。一、水手の事、浦々家百間(軒)付て十人宛出させ、其手々の大船に用ひ申すべき候。若し有余の水手は大坂に至て相越すべき事。一、船頭は見計次第給米等相定め申すべき事。一、水手一人に扶持方二人扶持、此外使い子の扶持つかはし申す可き事」と触れた。(太閤記)

讃岐勢の出勤 高松藩主生駒雅楽頭親正は、五、〇〇〇人の兵を率いて朝鮮に渡海した。造船については安原山のくすの木の板を徴収したことが、由佐家文書に見える。なお領内各地において造船用材を集めたことは十分想像できる。

讃岐国内では、生駒氏直轄領とは別に、天領である小豆島と、塩飽において大規模な水夫

249ページ

の動員と、船舶の徴募が行われた。
まず小豆島では「文禄元年高麗國御陣の御時、船五十餘艘、水主六百五十一人御用相勤め申候」(小豆島御用船加子旧記写香川叢書第二巻) 塩飽では「文禄元歳高麗御陣の時、七ヵ年の間御手船御用の節、豊臣秀次様御朱印を以て、御用仰付させられ、塩飽船残らず、水主五百七拾四人、高麗ならびに肥前國名護屋両所二相詰め、御帰陣まで御奉公仕候。其節の御朱印式通、年寄中所持いたし候御事」(塩飽島諸事覚香川叢書第一巻)とそれぞれ記録が残っている。このほかにも、浅野長政から嫡子幸長にあてて、塩飽にある売船を買い取っておくよう命じた書状が浅野家文書に見えるから、人も船も根こそぎ動員されたに違いない。

このように小豆島および塩飽の事跡が文書記録に残っており、既刊の香川県関係の郷土史には必ず記載されているものの、高原氏の活動については、資料が少ないため見過ごされたのか、どの本にも記載がない。

しかし、直島極楽寺蔵の高原氏系図の佐助次勝の項に「秀吉公高麗御陣の刻、寺澤志摩方与力仰付られ、両御陣相勤め、御褒美として御腰物御羽織拝領」とあり、また寛政重修諸家譜に「朝鮮陣のとき、寺澤志摩守正成が興力となりて、彼地に渡海し戦功あり」と記してある。

文にある与力とは、本来は寄騎と書き、組頭に附属する士の称で、次勝が寺澤志摩守の配下に属して、この両役に従軍したのは、まぎれもない事実である。高原氏のこの戦に関する資料は、現在わかっているのはこれのみであるが、寄親の寺澤氏の行動を追って、これを手懸かりとして、高原氏の本役に果たした役割りを追求することとする。

高原氏の活動 寺澤志摩守は名を忠次郎正成といい、肥前唐津城主で、天正十七年従五位下志摩守に任官しているが、文禄の役のころの秀吉朱印状等には忠次郎と書いてある。秀吉は、出兵に備えて名護屋に築城

250ページ

を命じ、天正十九年十月起工し、翌文禄元年二月竣工した。このとき寺澤氏は工事に携わったが、同年三月四日、加藤清正等の第一軍が名護屋を出発して壱岐に向かうと、前後して海を渡り、釜山に駐留して、朝鮮と名護屋の間の連絡に従事することになった。

秀吉は総軍を渡海させるため、綿密な計画をたてた。まず釜山・対馬・壱岐・名護屋に各三人から四人の船奉行を置いて、輸送にあたらせることとし、一万余人の大軍を九手に分けて、次々に発進させ、朝鮮に上陸と同時に空になった船は対馬に回送して、次の軍勢を送るようにした。寺澤正成の役目は慶長二年(一五九七)二月二十一日付けの秀吉朱印状にふさんかい いき つしま なごや 寺澤志摩守右四ヶ所に次(継)舟を置き、毎日先手より註(注)進、由断なく申上べく候也(大日本古文書)
とあるから、輸送指揮官または兵たん司令のような役で、前線と本宮の連絡に当たっていたものらしい。

文禄の年の戦役初期における、輸送についての史料は未見であるが、多分同様であったと思われる。通信手段に無線のなかった当時としては、陸上は早馬・海上は早船で、前線からの報告を本宮に伝えるしか手段がない。

文中の次舟というのは、リレー式につぎつぎと舟をついで送ることで、釜山を出た使者が対馬で舟を乗りかえ、壱岐に到着してまた舟をかえて、名護屋に着くという方法で、大阪名護屋間の連絡も同じ方法が採用されており、塩飽に関係文書が残っている。つぎつぎに乗り継ぎをしなくとも、最初に乗った舟で一気に目的地に向かった方がよい


251ページ


ように思われるが、たぶん舟ぐりの関係か、または水主船頭など乗組員の疲労ということを考えると、乗り継ぎにした方が能率がよかったのかも知れない。なおこれに関して次のような文書がある。

名護屋と壱岐の間の渡海舟の事
六端帆壱艘、但し岐阜宰相(羽柴秀勝)人衆、此衆壱(岐脱)もとよりのせ遣候分也。仍つて詰る所件の如し(文禄元年)卯月廿日
大谷刑部少輔(花押) 石田治部少輔(花押) 牧村兵部太輔(花押) 岡旗下野守(花押)寺澤忠次郎舟奉行中
これは大谷吉継ら名護屋に駐在する軍奉行から、寺澤正成配下の舟奉行にあてて、羽柴秀勝の兵を輸送することを命じた、指令書ともいえる書類で、この指示に従って名護屋から壱岐に送り届けたものである。

この文書は塩飽の与島に残っているもので、この場合寺澤忠次郎舟奉行は、文書の所在する状況から考えて、塩飽舟方を指したものであろうが、当然高原氏も同様な指示を受けて、輸送に従事したものと考えられる。

従軍者と郷里の困窮 戦争が長引くにつれて、必然的に起こって来るのは、物資の徴発と重税である。これだけの大規模な戦争であるから、物資も金も想像以上に費やし、その影響をもろにかぶるのは一般国民である。

ことに渡海に要する舟はおびただしい数に達し、本戦役中に秀吉の出した朱印状に舟・碇など造船に関するものが随所に見られる。小豆島・塩飽・直島いずれもこれらの問題に悩まされたことであろう。とくに見逃せない


252ページ


いのは人員の徴発で、これについては吉川家文書のなかに、秀吉から吉川広家の留守居の家来に宛てた朱印状に次のものがある。

急度仰せ遣わされ候。高麗え召連れ候かこ共、相煩い過半死に候由申越し候。其方浦々に相残り候かこ共、悉とく相改ため、かみは六十・下は十五を限り罷り渡す可きの旨、堅く申付け、奉行を相副え差越すべき候。名護屋より船子仰付けられ、遣はさる可く候。由断なく申付く有る可く候。此の時に候間、罷り出でざる族は後日に至り、御成敗を加えらる可く候。次に高麗より用所として差戻し候船、早々罷り渡し候様、是また堅く申付く可く候(吉川家文書大日本古文書)

気候風土のちがう異国で、激しい輸送業務に従事していては病人が続出し、ひいては死亡する者もたくさん出るのは当然であるが、その補充として、十五歳から六〇歳までの水夫を残さず差し出せというのだから、手きびしい。すでに開戦の際に、一〇軒に一人の割で水夫を召集しているのに、この上一五歳から六〇歳までの働き盛りの男子を取られては非常に困窮する。

この文書は吉川広家の家中にあてたものであり、直島に来たものではないが、似たような写真はあったものと十分推察できる。直島は小島で耕地も少なく、漁業を主としていたところから、男手を根こそぎ取られ、残るは老人と女子子供ばかりとなっては、生活はどんなに苦しかったであろう。戦争というものは、昔から前線も銃後も悲惨なことに変わりはない。


高原一族を始祖と伝える戒名札




プロフィール


インバウンドと語学で、地域と人の価値を高める専門家








Bizconsul Office代表



森啓成(Yoshinari Mori)


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企業・自治体のインバウンド支援と、個人の語学×キャリア支援を行っています。

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■事業領域

・TOEIC × キャリア戦略コーチング



・直島・瀬戸内 VIP対応 通訳ガイド
(全国通訳案内士〈英語・中国語〉)



・インバウンド戦略コンサルタント
(観光庁インバウンド研修認定講師)



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■経歴



米国大学経営学部でマーケティングを専攻。

大手エレクトロニクス企業で20年間、海外営業職に従事し、中国・北京オフィス所長を務める。

その後、外資系商社の設立に参画し、副社長を経て顧問に就任。

米国・シンガポール・中国で計16年間の滞在経験を持ち、海外ビジネスと異文化コミュニケーションの経験を積む。



現在は、これまでの海外ビジネス経験と語学力を生かし、TOEIC × キャリア戦略コーチ、企業・自治体へのインバウンド戦略コンサルタント、直島・豊島での富裕層向け通訳ガイドとして活動している。



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■ 資格


語学・教育



・全国通訳案内士(英語・中国語)



・英検1級



・TOEIC 970点(Listening満点)



・国連英検A級



・TESOL(英語教授法)



・HSK6級



・香川せとうち地域通訳案内士(中国語)

観光




・観光庁インバウンド研修認定講師


・総合旅行業務取扱管理者


・国内旅行業務取扱管理者


・国内旅程管理主任者


・せとうち島旅ガイド認定
(瀬戸内国際芸術祭2019公式ガイド)



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■ 所属


四国遍路通訳ガイド協会



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■ 登録





香川県登録通訳案内士サイト




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■座右の銘



雨垂れ石を穿つ
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■公式LINE

TOEICスコアアップに役立つ無料教材をプレゼントしています。


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